ちゃぶ台の上に作り置きのおかずが入ったタッパーを広げ、父親の出張土産の日本酒の封を切っていると、正面に四恩が勢いをつけて座り込んだ。
「勝負」
ガン、ちゃぶ台に肘を打ち付けて握手を求めるように手を差し出す。
面倒そうに一臣が顔を上げると、
「勝―負」
年々自分そっくりになってくる顔がじっと睨んでくる。
「ハルの前で負けたら可哀想だと思って、このチャンスを待ってたんだ」
しれっと言い放つ末っ子の挑戦を受けて、手を握りこんだ。
久々に握った弟の手は思っていた以上に大きく、骨張っていた。おしめを換えたり幼稚園に送っていったり、背負って寝かしつけたりと、育てたという感覚さえ抱かせていた一番下の弟の成長は目覚しい。
「お、世紀の一戦だな。僕がジャッジをしよう」
お猪口を指に挟んでやって来た父親が嬉々として、息子二人のがっしり組んだ握手を自分の手の平で覆う。
「レディー、ゴー!」
春海に教わって父親が作った、烏賊の塩辛が美味い。
いつもなら手の込んだ酒肴が並ぶが、今晩は板前が不在なのだ。
以前世話になっていた料理店の知人が結婚すると言うので、今朝から東京へと旅立っている。
そこを狙って勝負を挑んできた末弟は、意気消沈しながら風呂に向かった。辛勝ではあったが勝ちは勝ち。勝利の美酒だと父親を相手に晩酌を始めている。
「四恩が念願の一勝を挙げる日も、遠くはない、か」
余裕の表情をしていたつもりだが、思わず本気になった長男の一瞬の表情を父親は見逃していなかったようだ。
「あと五年したら逃げるぜ、俺は」
「素直に負けてあげるのが、兄の務めじゃないのかい?」
「一度も勝負してくれなかった父親のセリフか」
「うん、美味いなぁ。やっぱり米どころの酒は違うねぇ」
暴れん坊で回遊魚の如く動き回る一臣とは正反対の気質を持つ父親は自称文系で、スポーツはからきし駄目なのだと自分で言う。その癖、会社のソフトボール大会でホームランをかっ飛ばすらしいとつい最近になって春海から聞かされた息子としては、不信感を抱かずにはいられない。
体力やフットワークの軽さだけを取り柄にいつのまにか人の輪の中心に立ってしまう一臣とは違い、父は知識も知恵も機転もあるのに黒子として裏方に回りがちだ。縁の下の力持ちといったポジションで、会社でも悪目立ちなどすることもなく信頼を得てここまできたのかもしれない。
「親父は、負けず嫌いなわけか」
無言で微笑む男には、一生敵わないと思い知る。しない勝負には勝てないのだから。
父子の静かな勝負は今日も一臣の負けで、言葉少なに酒と肴を楽しむ。
「あー、何二人でいいもん食ってんだよ」
賑やかな声が飛び込んできたと思えば、二葉が一臣の猪口に手を伸ばしてきた。それを払いのけようとして、一臣は絶句する。
「二葉っ?」
顔を覗き込めば口唇を尖らせる子どもっぽい表情が浮かんでいて、紛れもなくそれが二葉なのだとしらせるが、校則違反の王道を行くかのような金髪頭が真っ黒に染め上げられていた。
「なんか悪いモンでも食ったのか?」
まだ濡れている黒髪を抱え込む。
コロリと他愛なく一臣の膝元に転がった二葉は、憮然とした顔で自分の髪の毛を弄る。
「明日、教員の研究会があるんだよ。うちの学校に多勢先生が入り込んでくるから、担任が頼み込んできたんだ」
同じ髪色だがこちらは地毛の三咲が染めてやったのだろう。ビニール手袋を外してゴミ箱に投げ込み、驚いている父と兄に説明する。
「ちょっと並んでごらんよ」
父親の促しに素直に従い、双子は並んで座る。同じ座高で同じ頭の色。ちらりと互いを見やる表情は確かに似ているが、幼い頃のように見間違えるほどではなくなってきた。
二葉にはいざと言う時に逃げ出しそうな軽薄がうかがえるし、三咲はまず心を開いて会話することが難しそうな印象がある。それぞれに抱える欠点が双子の雰囲気を違うものにしている。
似ているのに違う、その僅かなズレが、
「なんか、気持ちわりぃな」
一臣に辛辣な言葉を吐かせ、父を苦笑させる。
そこに風呂上りの四恩も加わって、二葉の頭を似合わないと笑う。
いつもならさっさと自分の部屋にこもってしまう弟達が、不思議と居間に居着いている。父親からの晩酌の誘いがある。
家族の不在に弱い自分に、みんなが気を遣っているのだと一臣は気付いている。それがこそばゆくて、なんでもないように装っている。
こういう、やんわりとした思いやりが大月家には似合わない。もっと雑に、強引に、自己満足で優しさを押し付けてもらいたい。
双子が子ども会のキャンプで始めてのお泊りをした夜、まだ幼稚園児だった末弟に「カズ兄ちゃん、寂しそうだから一緒に寝てあげる」と付き添われた時は、そこまで自分の家族愛は深刻であるのかと愕然としたものだ。
春海がいなくて見るに耐えないほど寂しそうだから、家族団らんしてやるよ。
と言う動機がこの居間に渦巻いている。
正直、居た堪れない。
「煙草が増えてるよ」
ついついソフトケースに伸びた手を父親にやんわりと指摘され、仕方なしに引っ込める。引っ込めた手を何処にやっていいのか迷って、とりあえず膝の上に置いたがこれでいいのかわからなくなる。
「手持ち無沙汰って感じだね」
そのぎこちない動きも三咲に観察され、つられた二葉と四恩の目線も一臣の膝に置かれた手に落ちる。
「うるせぇな」
この手の置き場を得た。弟達の頭を小突くことだ。
ポコポコと十分に手加減した拳骨を弟達は甘んじて受けて、仕方なさそうに舌を出す。
そんなにも自分は、寂しそうに見えただろうか。
頼まれごとを引き受けたからと、春海を置いて出て行くことはしょっちゅうあるが、春海が一臣の傍を離れるのは珍しい。
置いていかれることに慣れていないのだ。
自分に対して溜息をついていると、決して春海の不在中に彼を追いかけるような電話はかけまいと思っていた携帯電話が鳴った。
サブディスプレイに春海と表示されているそれをとると、遠慮がちな声が一臣の名を呼んだ。
どうしたの? と心配そうな第一声で、弟達のどれかが要らぬ悪戯メールを送信したのだと知る。
とりあえず片っ端から背中に蹴りを入れ、居間から脱出するべく庭のツッカケに足を突っ込むと、叔父さんがメールくれたんだけど、と思わぬ犯人が告げられた。
振り向けば勝ち誇った表情を穏やかな微笑で隠した父親の顔があるだろうから、敢えて振り向かずに表に出る。
「そっちは、星、見えるか?」
目に入った光景は、くっきり浮かんだ月の明かりに負けないくらいの星が輝く空。一臣らしからぬロマンチックな話題に春海は少し笑って、見えないよと言った。そして今から二次会の会場へ移動するのだと言う。新郎は春海が日本料理店で働いていた時の先輩で、春海よりも六つほど年上らしい。落ち着いた年齢層の集まりだから、妙な心配はしていないつもりだが、相槌のトーンが下がってしまった。
それを春海も感じ取ったのだろう。電話の向こうで困惑したような沈黙が生まれている。
「……迎えに、行こうか」
え、と春海が動揺するのがわかった。
今にも出発してしまいそうな、そんな勢いを感じ取ったのかもしれない。事実一臣の足は駐車場に向かっていた。車のキーもバイクのキーも持ち合わせていないのに。
「今から、迎えに行ってもいいか」
声に出すたび、飢餓感が募る。
恋しいという思いが、胸の奥から突き上げてくる。
十代の頃にもこんな思いを抱いたことがなかったが、今更ながらにこれが人を恋しいと思う気持ちなのだと思い知る。
春海は暫くして、泣きたくなるほど優しい声で言った。
『明日には帰るから、待ってて』
ちゃんと自分の意思で帰るからと、宥めるような声音が電話越しに伝わってくる。
この電波ごと抱きしめるにはどうしたらいいだろう。もどかしく空を見上げる。飛んでいけたらいいのにと、馬鹿みたいに思った。
『美菜浜駅までは迎えに来てくれる?』
「おう」
『ほんとは……、本当は、今からでも帰りたいけど』
「だから、迎えに行くっつってんだろ」
言ってから、まずいと思う。
春海はきっと、自分が帰って来いと言えば帰ってくる。自分が手放していた間に得た絆を放り出してでも。そういう確信があるから、これ以上春海を縛ってはいけない。
「嘘。今の、嘘だからな。明日、美菜浜の駅まで迎えに行くよ」
美菜浜の、と強調しなければ、どこの駅まで行ってしまうかわからない。
「楽しんで来い。それで、気をつけて帰っておいで」
精一杯の大人げでそう告げると、春海が頷く気配があった。暫くの、言葉が出そうで出ない沈黙の後、
『カズちゃん』
「うん?」
『……好き、です』
「………………。ばっか……、お前、迎えに行っちまうぞっ」
飛んでいって抱きしめたいのにそれが叶わぬ焦燥感は凄まじい。手持ち無沙汰が極まった己の手で自分の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱す。
『顔見たら恥ずかしくて言いにくいけど、電話だと、言えるし、……言いたかったんだ』
どんな顔をして東京の街を歩いているのか。今からでも東京住まいの友人に連絡して保護してもらうべきだろうかと本気で考えた。
『……カズちゃん?』
「あぁ?」
『怒った?』
「怒ってない。怒ってないけど、なんかもう……どうしたらいいんだ、俺は」
怒っている声だと自覚する。
『カズちゃんも、同じでいてくれるなら、言って、欲しい、です』
狼狽する一臣に春海が追い討ちをかけるから、電話の威力は恐ろしい。
「…………………………」
『…………………………』
「…………、……、好きだよ」
月に向かって吠えたい衝動をたったワンフレーズに変換する。押さえ込んだ気持ちを詰め込んだ声はみっともないほど小さく、掠れもしていた。柄にもなく耳が熱くなっているのを実感するし、恐ろしいことに目の奥がツンとする。
「くっそ、なんのプレイだ、これは。朝一で帰って来い。始発に乗れ!」
『心掛けます』
「よろしいっ。あー、火ぃ吹きそう」
電話のむこうで実に楽しそうな笑い声がする。少し酔ってるのかもしれない。それほど春海の言動は大胆で、一臣を翻弄した。
「飲みすぎるなよ。ホテルに戻る時はタクシー呼んでもらえ」
『はい』
「……いい結婚式だったか?」
『うん。先輩、嬉しそうだった。花嫁さんも可愛かったよ』
「そっか。良かったな」
『うん。じゃあ……、明日、ね』
「おう。まぁ、ゆっくり話してこい」
『うん』
「じゃあ、きるぞ」
『はい』
おやすみなさいと、少し甘えを含んだ声をきりにして電話を切り、遠距離恋愛って切ないなぁと溜息をつく。
学生の頃でさえまともに順を追うことのなかった恋愛のいろはを、春海は押し付けるでもなく一臣に教えてくれる。傍にいることの幸せや、不在の寂しさ。恋しいと言う思いを構成するのに、甘さと切なさが混在すること。
早く帰って来い。
祈るように呟いて、覚悟を決めて居間を振り返れば、庭をじっと見ていた連中が慌てたように顔を背ける。
「飲むぞ!」
同情してくれているのなら、とことん付き合ってもらおうじゃねぇの。
一人寝の寂しい時間が少しでも減るように。
美菜浜駅へ市街地からの始発が到着するのが五時半を少し回った時刻。
短いホームに人気はない。
ゴトゴトと、世界が動き出している証拠の音をたてて近付いてくる電車がゆっくりと停車して扉を開く。
降り立ったのはたった一人。
ボストンバッグを抱えなおした春海は、ホームに降り立ち朝の空気を吸い込むように少し顎を上げて目を閉じた。
綺麗な横顔だなと、改札口から一臣はそれを見つめた。
彼の容姿がまるで人魚姫のようと評されたのは、春海のこの世のものではないかのような儚い印象によるものだった。最近はどちらかと言えば“別嬪さん”だとか、親しみと温もりある表現に変わってきている。
長い睫毛が上がり、澄んだ瞳が一臣を捕えた。
駆けてくる姿に思わず頬が緩んだ。壁に預けていた体を起こし、大仰に手を広げてみせる。一瞬の躊躇いの後、ぱぁっと笑顔になった春海のスピードが上がり、ドサリとカバンが落ちる。
飛び込んできた体は小さく軽く、一臣の懐に悠々と納まってしまう。不器用な子どものように背中に回された手と、鼻先を擽る髪の毛から漂う甘い匂いに心底安堵した。
「おかえり」
「ただいま」
安堵と喜びと切なさと愛しさと、複雑な感情を精一杯に詰め込んで交わした言葉が、互いに似た思いを抱えていたことを教える。
春海が首筋ですんと鼻を鳴らす。
結局、二次会が終わってすぐの夜行バスに乗らせてしまったため、春海の不在は二十四時間に及ぶかどうか微妙なほど短いものになった。
それでもその間に煙草は増えて、いつもより煙の匂いが濃いはずだ。それに晩酌は朝まで続いた。
「朝まで飲んでたから」
「幸太くんたちと?」
「最初は親父とチビと。どいつもこいつもさっさと潰れて、結局一人で飲んでた」
「……寂しかった?」
「あぁ、寂しかったねぇ」
柔らかな髪の毛をかき乱して腕の力を強めて、口先では茶化してしまう寂寥の深刻さを伝えれば、春海はちゃんとそれを受け取ってくれて、同じ強さで背中を抱いてくれた。
筋書きを知っていたようにおずおずと仰向いた春海の頬に手を添えて、口付ける。
離れた瞬間から、柔く食んだ口唇が微笑の形に変わるのが嬉しくて、一臣もつられて笑った。
「帰って一眠りしよう。バスの中、寝れたか?」
「あんまり。あれ? 車じゃないんだ」
「朝まで飲んでたからな。自転車にも乗れん」
「歩いてきた?」
「そう。いい酔いさましになった。どうする? 眠いなら大介でも呼んで車出してもらうけど」
「ううん。歩きたい」
手を繋いで、海沿いの道を。まるで子どもの頃のように。
遠慮がちで欲のない恋人が差し出す、ささやかすぎる願いに喜んで左手を伸ばす。
春海の少しひんやりとした右手を握りこみ、まだ目覚めきらない町を栄月館へ向かってのんびり歩き出せば、春海は出席した結婚式のこと、久々の東京のことを話し、ロコでの再会を報告した。
布施の話を少しつっかえて口にした時、一臣の顔を窺うようにちらりと見上げた。同時に繋いだ手に力が入る。
「そんな、怖がんなくても、嫉妬はするけど怒りゃしねぇよ」
あやすように一臣も左手にきゅっと力を入れて、前後に振る。
「……いい男か?」
「うん。いい人です」
「……」
「怒らないって言ったのに」
「怒ってねぇよ。嫉妬してるんだって」
「布施さんは、そういう嫉妬をしない人」
「……」
「だから、俺はカズちゃんが好きです」
呻き声が出る。電話だから言えると言ったくせに。
変なところで大胆になって、一臣を舞い上がらせる。
「晴れてきたね」
言葉を無くしていると、春海が水平線へ顔を向け眩しげに目を細めた。茜色だった空は青く塗り替えられて、国道を行く車の数も増えてきた。
水平線にちらほらと漁船の姿が見て取れた。
朝の光を吸い込んだ春海の髪の毛が輝いている。光に当てた鉱石のような輝きが少年心を擽って、空いている右手で触れてみると石どころか柔らかい絹糸のような手触りがあるから不思議だった。
何?と自分を見上げてくる眼差しはあまりに真っ直ぐで、一臣が抱える不安や自己嫌悪の気持ちまでわかったうえで、昨日から数えて二度、拙く衒いのない言葉をくれた。
一臣が立ち止まると、春海も足を止める。
「……カズちゃん?」
ぎゅっと眉を寄せて不安そうな表情になると、途端に儚い印象が溢れ出す。
自分自身をも騙そうと必死になっているが、この顔を見てしまうともう駄目だった。
本当にあんたは馬鹿ねぇと、数歩先にある、亡き母を模して弟達が作ったモザイク画プレートのお地蔵様が笑っている気がした。
春海が無事に帰ってきて安心したはずなのに体の芯が痛むのは、丁度あの現場の前を通りすぎようとしているからだ。
事故の名残を洗い流した足元のブロックは、暫くはそこだけ妙に綺麗で浮いていたが、一年以上が経って風化して汚れていた。その傍らの防波堤に飾られた淡い色合いのモザイク画が、ここで大月朝子が息をひきとった場所だと知らせている。
ちょっと出てくるねと言って家を出て、戻ってきた時には物言わぬ体になっていた。
変わらぬ日々がある日突然に奪われる恐怖が、時折一臣の身をすくませるほど大きくなって日頃の余裕も自信も打ち消してしまう時がある。
今、まさにそうだ。
「どうしたの?」
よほど酷い顔をしているのか、春海の手が熱を測るように頬に触れる。ひやりと冷たい手が、慰めるように耳朶から項へと滑る。
自分を想ってくれる体を、力いっぱいに抱きしめた。
駅の改札でかわした抱擁のように、互いの気持ちがわかりあってのことではない。春海は一臣の心情を推し量れず、戸惑いながら一臣の腕の中におさまってくれている。
腕の力が強すぎて、胸元で苦しそうに息を詰まらせている。でも緩めてやれなくて、この突然の動揺を上手く説明してやることもできず、足元から突き上げるような恐怖が去っていくのを待つ。
大切なものが増えればそれだけ失う可能性も膨らんで、大切だと想いが深まれば深まるほど失くした時の痛みに怯える。
臆病になって何にも愛情を向けないのは不幸なことだと両親に教えられてここまできたから、繋いだ手を離すつもりなどない。けれど一度知ってしまった喪失による痛みに竦むこともある。
幸せだったのよと、偽りなく笑った最期は今も鮮烈に脳裏に蘇る。握られた手が軋むほどに痛んだことも。はつらつとした頬に毒々しいほどの血の色が添えられて、そこがどんどんと青ざめていく様子も、焦点が合わなくなっていくのも、か弱くなる呼吸の音も。
ふとした瞬間に記憶は蘇り、一臣を立ち竦ませる。
振り切ることはできない記憶だ。自分の中におさめどころを見つけて、飲み込まれないようにするしかない。
「怖ぇな」
ぽつり、本音を押し出すことができた。春海は首筋に落ちたそれから全て読み取ってくれたらしい。不自由なほどに拘束されたままぽんぽんと優しく脇腹を叩かれ、ようやく腕の力を緩めることができた。
その手を春海がとって、繋いだ両手を自分の額に押し付ける。祈りの姿勢に似ていた。
「俺も、怖いよ。……でも、約束はできないけど、俺の人生はカズちゃんの傍にあります。そうである限り、幸せなんだ」
不安を消し去るほどの力はないが、苦しかった呼吸を楽にさせてくれ、今の幸福に目を向けさせてくれる言葉だった。
「帰ろう?」
家路へと促してくれる手にひかれ、もう一度歩き出す。
母のために弟達が作った地蔵様のプレートを通りすぎ、我が家へと一歩一歩。
通り過ぎたオンボロの軽トラがクラクションを鳴らし運転手が手を挙げ、一臣がそれに応える。
「今の哲史くん?」
「見られたな」
「商工会の支部長さんも通ってたよ。あと、千鶴ちゃんも」
「お前は余裕だね」
「カズちゃんが余裕ない時くらいは」
半歩先を進みながら一臣を見上げるその顔は頼もしさすら感じる笑みだった。
一臣の歩調がいつものペースを取り戻すまで、春海は慣れない半歩前を行きながら、
「良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も」
歌うように、昨日の結婚式で耳にした言葉を暗唱する。
「……病める時も健やかなる時も共に歩み、死が、二人を分かつまで、愛を誓い、貴方のみに添うことを、この場所に誓います」
春海はゆったりとした歩調で家路へと進みながら振り向きもせず、一臣の手をとって宣誓した。
返事なんて出来やしないと空を仰いで、ただ繋いだ手に力を込める。
この場に相応しい言葉など、ないのかもしれない。
呼吸を整え、春海の隣に並んで歩く。一臣にできたのはそれだけだ。
だけど春海は一臣を見上げて、綺麗な笑顔を見せてくれた。
愛してると囁く代わりに、ともに歩む日常を。
それが積み重なって、きっと、死が二人を分かつても、その先もずっと、変わらぬ愛を誓います。
END
2010/12/11
Films 10周年記念企画で応募いただいたリクエスト小説です。
実はこれ、後編の前半部分はお題として書き上げていました。そこにリクストで「春海が上京して、むかし関係があった人と再会して当時の心境を回想+春海不在の栄月館の様子」と言う内容をいただいたことで、この話の前後がドッシャーと降ってきたのです。
しかも昔の人に対して、「本気で好きになれたら楽なのに」と思ってたら……と言う一言もあって、自分の生み出したキャラクターながら萌えてしまいました(笑)
素敵なリクエストをありがとうございます!もう私の脳内の漠然としたネタ倉庫に侵入して、「これとこれ、使えるじゃない」と揃えて差し出していただいた感じです。
脳内にあった段階では布施さんがもうちょっと悪い男で、美菜浜のリゾート開発で用地買収にやって来るとかネ。噛ませ犬どころか、甘噛み犬になっちゃいましたが、いい人です。
電話での告白合戦も、自分で書いてて「うわー///」となってました。すごく楽しんで書き上げることができた、満足vな作品になりました。自己満足ではなく皆さまにも楽しんでいただけたらなーと思ってます。