「おはようさん」
夜明け前の道をのんびりと歩くシルエットが誰のものなのか判然としなまま、けれどそれを気にした風もなくあっけらかんと放たれた挨拶は、美菜浜の産婆の声だ。
水平線が光り始めたこの時間帯に聞くにふさわしいと、哲史は笑いながら足を止める。
「菊江ばーちゃん、おはよー」
老婆は自分の背丈ほどの竹ぼうきを手に庭を掃除しているところだったらしい。
「なんだ、新家のテツか」
「そー」
屋号にくっついた名前を肯定すれば、体ばかり大きくなってと見上げられる。この頃、自分たち世代の若者に菊江が言う口癖だ。小柄なのにパワフルな菊江に見上げられるとなんとなしに誇らしいが、それがまさに「体ばかり大きくなった」と言うことなのだろう。
「カズ坊と遊んどったんか?」
「信じてもらえないかもしれないけど、勉強会」
「そりゃあそりゃあ」
「テスト近いからねー」
「しっかり漬かったか?」
「一夜漬けだから、どうかな。今回、赤点だったらあいつら卒業できないんだけど」
はぁ、と呆けたように口を開けた菊江は、おもむろに竹ぼうきを胸に抱え両手を合わせた。朝日に向かってぶつぶつと何かしら唱えている。長い祈りの間に太陽はそっくり顔を出し、美菜浜は明るい光を浴びる。
「テツは、東京の大学に行くんか?」
「んー? んー、んー?」
「アメリカか?」
「んーん」
「どっちでぇ?」
曖昧な返事に笑いながら、菊江はせっせと掃除を再開する。
「海の勉強をするんじゃろ?」
海の勉強、と言うだけで途方もない勉学に思えてくる。でも違いない。
「あんた、小さい頃のこと覚えとるか? 満潮の浜でヤドカリ追いかけて、上がれ言うてもちっとも言うこと聞きやせん。しまいにゃばあちゃんが首根っこひっ捕まえて連れて帰ったわ」
そういう逸話はたくさん聞かされてきた。夢中になると人の話を聞かない性質はだいぶ改善されたと思っているのだが、友人たちに言わせれば大して変わってないと笑われる。その集中力を分けてくれとも。
「テツは頭がえぇから、博士になれるわ」
これは励まされているのだと察して、哲史は笑った。
少しばかり口が悪いことで有名な老婆に近寄りたくない者も多くいるが、その根っこからは愛情があふれかえっていることを哲史は知っている。危ないことをすれば容赦なく叱って拳骨を食らったし、愚かな行為には呆れ返ってくれた。褒められることは少なかったけれど。
「俺さ、受験は余裕だと思ってんだよね」
「ほぉ」
「だけどさ、今、すげー不安なことがあんの」
掃除の手を止めた老婆はゆっくりと哲史の言葉を待ってくれた。
怖い、緊張する、不安だ。マイナスの思考を吐露することは格好悪い。友達には聞かせられない。
高校三年生。同じような揺れを抱えながら日々を過ごしているから、先に弱音を吐くわけにはいかない。格好悪くなりたくない。
「ここ離れたら、こんな風にあいつらと気軽に遊べないなぁって」
寂しいなんて感情は、親や同年代に吐露するには恥ずかしすぎる感情だ。
でも哲史は自分の胸の内にあるもやもやしたものが、寂しさであると知っている。
そして菊江なら、少年とも青年とも言い難い男子高校生の本音を茶化したりしないと知っている。
哲史が友人と呼べる連中の多くは生まれ故郷に留まる。家業を継いだり、地元企業に就職したり。それぞれの道に進みながらも、物理的距離の変わらぬ彼らは昨夜のように気軽に集い、馬鹿話に花を咲かせるのだろう。そこに気軽に加われないことが、たまらなく、
「寂しいんか?」
回り道をしない菊江の指摘に、哲史は笑おうとして上手くできず、意味なく足元の小石を蹴った。
孤独を想像するだけで足が竦む自分が、海の勉強をしようとしている。省みる自分がどんどん小さく思えてきて仕方ない。
「あんたらは、井の中のカエルさん」
美菜浜の産婆の説教のはじまりはそんな例えからだった。
「広い世界を見ることもせず、ここが一番じゃと思い込んだお山の大将達。だからな、テツが外を見てきて、教えてあげればえぇ。世界は広くてたくさんの街があるけど、それでもこの浜が一番じゃ言うてな」
十代で隣町から嫁いできた女性の見てきた世界もまた、ずいぶんと狭いだろう。けれど臆面もなく世界一を誇る様は決して滑稽ではない。
およそ八十年、この地に根差した人生から紡ぎだされる言葉だ。
「東京に行ったって、アメリカでもアフリカでも、どこで暮らしたって、あんたの中には美菜浜の血が流れとる。カズ坊や幸太もそう。助けおうたらえぇ。あん
たが外に出とる間、あんたの帰る場所はあの子らがちゃんと守ってくれる。あんたはたくさん勉強して、偉い学者先生になって、戻っておいで。お互いにしゃん
と姿勢正して頑張っとれば、いつでも帰ってこれる」
老婆の目は優しい。
この町を出て行った者、帰ってきた者、新たに流れ着いた者を等しく見つめてきた眼差しだ。肩の力が少し抜ける。
「……ん、行ってくるよ」
「あぁ、行っておいで。どこへでも、どこまでも」
上ったばかりの太陽に照らされた町に漂う潮の匂いを吸い込んで、旅立ちの準備をはじめる。
まずは受験と、友人たちを高校から追い出すための最期の試練を乗り越えさせなければ。
前へと歩を進めながら、ちらりと背後を振り向けば老婆が竹ぼうきを手に仕事を再開するところだった。そうしながら哲史を見やり、ぞんざいに手を振ってくれる。
海外へ行くことができたら土産を送ろうと哲史は思う。
小さな世界で生きてきた老婆の手に、世界の欠片を。
しかめっ面でそれを眺めた菊江はきっと、哲史の故郷にのぼる朝陽にそれをかざして満足げな鼻息一つついて、変わらぬ日々を送ってくれるだろうから。
2013/8/31
すみません……(DOGEZA)
当サイトの12周年の企画で、リクエスト募集をさせていただいた際にいただいていたネタでございます。
菊江ばあさんか哲史の話と言うリクをいただいたので、二人同時に出しちゃおう!と言う結果です。
他にも応募いただいた皆様、ありがとうございました!
すっかり更新が滞ってしまってます。
ちょっと二次創作に浮気してたり、PC買い換えてHP作成ソフト見失ったり、現実に打ちのめされていたりで…。
こんな状態にもかかわらず、時折のぞいてコメントや拍手くださる皆様には本当に感謝です!
いただいたコメントをたまに読み返してはうっはうっはしているのです。
ぐだぐだながらもこのサイトは続けていきたいし、創作もしていきたいと思います。気まぐれも極まるサイトになるかと思いますが、「そんでもいいよ。たまに様子見に来てやるよ」と思っていただけるゲスト様がおられましたら、今後もよろしくお願いいたします。