泊まり客が就寝した気配を感じてから眠りにつき、朝食の準備や仕入れのために夜明け前から起き出して働く栄月館の板前に昼寝は必須で、客が観光や海水浴に出払う日中にまどろむのが習慣になっている。
大月家の居住スペースの縁側に藤製のリクライニングチェアーが置いてあり、冬場はそこにモコモコと毛布が敷き詰められて寝床となる。
帰宅した三咲がそこで見つけたのは、ココア色のブランケットに包まって眠る春海の姿だった。
その腕にはイルカのぬいぐるみが抱き枕のかわりにおさまっていて、長兄が目撃したら嫉妬しそうだなと思う光景だ。
確かあのぬいぐるみは、一臣が商工会に連れられて県外出張に出てしまった隙を狙ったのか寂しさを埋める目的だったのか、珍しく父が春海をデートに連れ出した時に美菜浜マリンランドで買ったものだ。
出張から戻った兄はそれを見て、「俺が買ってやろうかって言った時にはいらねぇって言ったくせに」と拗ねていた。大人気ない。
ガラス越しに冬の貴重な日差しを浴びて眠る春海が見る夢は、きっと穏やかなのだろう。あまりにも幸せそうな寝顔に、三咲はつい提げていたカバンの中からノートを取り出しスケッチを始めた。起きている時にすると恥ずかしいと照れてしまうが、春海の整った造作を紙に切り取る作業は三咲の楽しみだ。
栄月館に戻ってきたばかりの頃、春海は消えてしまいそうなくらい儚く見えて、三咲はいつもハラハラしていた。泡と消える人魚姫のイメージばかりが頭に浮かんでいた。
それも最近はすっかり覆された。長兄が春海の手をとったからだ。
人魚姫の尾びれを奪い、声すら取り戻して、すっかり美菜浜の人間にしてしまった。
その姿に三咲は安堵する。
兄が従兄を捕まえて、従兄も兄の手を握る。一般的ではないかもしれない繋がりが三咲の生活を支えていて、それを見る度三咲は安らぐ。
一枚のスケッチを描き終えて、三咲はカバンの中の包みを思い出した。美術部のメンバーで個展を見に行ったのだが、駅の地下街で女子部員が揃ってハンドクリームを購入していた。オーガニックだとか香りがいいのだとか、キャイキャイと騒いでテスターを片っ端から試しているのを男子部員は大人しく眺めていたのだが、その時にふと春海の手を思い出した。
栄月館の厨房を仕切り、家事までしてくれる従兄の手は水仕事で荒れてしまっている。思いついたまま、男子高校生の小遣いにとって安くはないそれを買ってみたのだ。
イルカの流線型の胴体を抱きこんでいる手をとると、起きる気配もなくそれは三咲の手におさまった。容器から掬い上げた白いクリームは、店で女子達が夢中になっていた甘ったるい香りはついていない。そっと手の甲に塗りこむと、指の腹に荒れた肌の感触が伝わってきた。
眠りを妨げないように弱い力でマッサージしながらクリームを塗りこめると、白い手がしっとりとした艶を孕み始める。綺麗な楕円形の爪がおさまる指は細くしなやかだが、ただ繊細な造形をしているだけではなく、ところどころに火傷や古い傷がある。身につけた技術一つで働いてきた人の手だ。
「……ん」
くったりとしていた手に力が入り、三咲の手をきゅっと握った。さすがに起こしてしまっただろうかと様子を覗っていると、静かに睫毛が上がって眠気をたっぷり湛えた綺麗な琥珀色の瞳が現れた。
「ごめん、起こした」
悪戯が見つかってしまったような心境で素直に謝ると、パチパチと数度瞬きを繰り返した春海はまだぼんやりと首を傾げた。
「気持ちいいから、カズちゃんかと思った……」
「……それ、ちょっとセクハラだよ」
何かいかがわしいことをしている気持ちになる。
だんだんと眠りの淵から浮上してきたのか、春海はしっとりした自分の手をかざしてみている。
「このハンドクリーム、いいんだって。今日、女子が騒いでてさ、つられて買ってみた。あげるよ」
もう片方の手をとって同じようにクリームを塗り始めるのを、春海はぼんやりと眺めている。しっとりした手で自分の頬を一撫でし、
「ありがとう」
嬉しそうに微笑んでくれた。
「優しいねぇ、三咲。ちゃんと彼女にも優しくしてる?」
「いないし」
「うそ。この前、二葉が言ってたよ」
「ちがうちがう。あれは告白されたけど、断ったんだよ」
「なんで?」
「好きなタイプじゃなかったんだよ」
「面食いさんだねー」
「ハルより綺麗じゃないとね」
「それはハードル低いなぁ」
「本気で言ってる? カズ兄が複雑な顔しそうだな」
他愛のない言葉のやり取りの間、摩っていた手は血の巡りがよくなったおかげかじんわりと温もって、再び春海を夢の世界へと引きずり込もうとしている。
「もう少し眠ったら? 仕込みの手伝い、俺もするから」
「……うん。ありがと……」
三咲の言葉につられるようにとろりと目蓋が下がる。
そうしてすぅっとまた穏やかな寝息が聞こえ始めてから、三咲はマッサージを再開する。
柔らかく潤っていく白い手はとても綺麗だ。満足感に浸って三咲はそっと、その手の甲を自分の額に触れさせる。
祈りだと、三咲は思う。
親愛を示すポーズではなく、これは祈りだ。幸せでいてくださいという祈り。聞き届けて欲しいのは神様ではなくて、目の前の人だけ。
ハル。ハル。幸せでいてね。ちゃんと幸せでいて。無理せずに微笑むことができるように。大家族で育った三咲には、一人ぼっちの孤独は想像するしかない。その想像だけで身が竦んでしまいそうになるのだから、春海が味わってきた寂しさは計り知れない。
三咲は春海の笑顔が好きだ。美しい絵画を目にした時にテンションが上がる、その感覚を春海からも与えられることがある。その美しい造形を守りたいと思う。
だから、笑っていて欲しい。
「おい」
それには、無遠慮に声をかけてくるこの男の存在が必要なのだ。
「……なに?」
びくりと肩は跳ねてしまったが、動揺を見せるのは悔しくて振り返りもせずに返事をすると、いつの間に帰宅したのか、長兄がのそりと三咲の隣に腰を降ろしてきた。
「あんまり、脅かすなよ」
「誰を?」
「俺を」
「はぁ?」
「お前はフゥやシィと違って、怖ぇんだよ」
思わずあきれ返った声が出たが、長兄は視線もくれない。
「怖いって、なにが」
「利口だからな、お前は」
「……カズ兄は、ほんっとーに頭悪いよな」
「あぁ?」
「俺がどんなに頭良くて優しくてかっこよくても、カズ兄じゃない限り、どうしようもないよ」
緩く捕まえていた春海の手を離す。
春海が兄に向かって伸ばした手を引っ込めたのを目撃したのが一昨日のこと。
居間に転がって仮眠をとっていた兄の頬に遠慮がちに伸びかけた手は、何かに気付いたように引っ込められた。自分の荒れた手をすり合わせ困ったように握りこんだまま、春海の手は兄に触れようとはしなかった。
だから呆れたように肩を竦めて見せて、大きな手の中に可愛らしいハンドクリームの容器をおさめてやる。
「……そうかよ」
苦笑した兄がそれを受け取った。
弟の横恋慕や春海の心変わりを想像して恐れているわけではないだろう。従兄を母と重ねながら別の存在と戒める三咲と、母の代わりを努めなければと気負う春海の心がぎこちなさに軋んで磨り減ることを心配しているらしい。
気持ちを切り替えるように腕時計に目をやった兄は、身軽な動作で立ち上がる。
「仕込み、手伝ってやってくれ。俺は遅くなる」
「了解」
忙しい兄は、ヘルプの合間に時間が出来ると春海の顔を見に戻る。心配だからと言う理由ではなく、それが兄の気持ちの切り替え方なのだろう。
美菜浜中を駆け回り、ありとあらゆる仕事の手伝いを啄ばむようにこなしていく男は、きちんと軸を栄月館においている。美菜浜のフリーマンである前に、兄は栄月館の主人だ。
再び出動していく前に、名残惜しむような兄の手がぐっすり眠っている春海に伸びた。
兄の手は春海のそれよりもずっとガサガサしていて滑らかなところなど微塵もなく、ゴツゴツしていて硬い。その手で遠慮もせずに春海の柔らかな頬に触れ、くしゃりと髪の毛を一かきした。その大きな手の下で、春海はほぅっと蕩けそうな寝息をついた。
それを見た兄の横顔が恥ずかしくなるくらいに優しくて、三咲は視線を外す。
「頼んだ」
「はーい。いってらっしゃい」
手を振る仕草は追い払うのに似たものとなった。
三咲の頭を軽くはたいた一臣は颯爽と栄月館を出て、町へ向かって駆け出す。
同じ想いを抱える二人のとる行動は正反対だ。それでも必ずそこには幸福な情景が生まれる。
(これは、うらやましい、のかな)
自分の中の感情をそう分析して、三咲は溜息をつく。
それは苦笑よりもそれは甘い音になった。
2011/9/17
三咲と一臣はこんな感じの話になってしまう。弟ズから春海に向ける親愛を、時には大らかな気持ちで眺め、時に子どもっぽく嫉妬してしまう長男を書くのが楽しいです。