大切な貴方へ10の言葉
03:誰にも言わないから



 カズ兄は、帰ってもいいと言った。
 斎場で、美しいカラーの花束を乗せた棺が見えなくなってからのことだ。
 体を終わらせるための火を灯すボタンを押したのは、長兄だった。絶望に震える父の指の代わりを務めたのだ。
 母の体が消えようとしている。
 その現実を目にしなくてもいいのだと、兄は珍しく穏やかに、三人の弟に告げた。母の骨を見なくてもいいと言うのなら、そうしたかった。
「十分、見送ってあげただろう」
 そう言って背中を押そうとする兄は、これから魂の抜けたような父と一緒に母の骨を拾うのか。どんな気持ちでと思えば立ち去ることはできず、残るよと告げた声は三咲のものと重なった。後に続いた四恩の声は震えていて、振り返ると反抗期真っ盛りの弟は久々に再会した従兄弟のコートの裾を掴んでいた。
 カズ兄は一瞬、顔を歪めた。
 泣きそうだと思ってドキッとしたけど、それはすぐにしかめっ面になって、わかったと短く応えた。三人の弟の頭を順番に撫でた手は大きい。成人した男の、骨ばった逞しい手だった。大きな手の平に頭を撫でてもらうだけで、不安が吸い上げられる気がする。
 同じ母から生まれた四兄弟が背負わねばならない悲しみや苦しみは等しいはずなのに、ただ一人二十歳を越えていると言う理由だけで、長男は涙を流せない。
 カズ、と声がかかる。近所のじいさん達の呼びかけに兄は踵を返す。
 葬儀は長い。その段取りをしきるのはカズ兄だ。相手に必要以上の気を遣わせないよう、草臥れた雰囲気も悲しみに暮れる表情も表にださずに応対している。
 その兄が振り返る。
「控え室で待ってろ」
 自分達の身の置き所を心配する兄の気丈さが不憫で、もう水分など出尽くしたと思っていた体から新たな涙が溢れ出してくる。
 一緒に泣いてくれたなら、頑張ろうなんて思わなくて済むのに。


 控え室のソファに腰掛けて暫くすると、四恩が眠そうに目を擦り始めた。昨日からずっと泣きっぱなしだったから無理もない。
 くらりと傾いだ体を、隣に座っていた春海が自分の膝に受け止めた。
 久しぶりに姿を見た従兄弟は、男にしては優しい顔立ちがますます際立って、母に似ていた。すぐに怒る兄と対称的な従兄弟が好きで、幼い頃はたまの休みに彼がやって来るのを心待ちにしていた。春海が高校に上がる前くらいから帰省は途絶え、それを寂しく思っていた。
 何か事情があるのだろうと察したが、事情に関わるのであろう長兄のただならぬ気配に話題にすることも躊躇われていた。
 もう切れてしまった縁なのだろうかと、宛先不明で戻ってくるようになった年賀状を見てなんとも言えない気持になっていたけれど、遠く離れたところで母が巻き込まれた事故のニュースを目にして、駆けつけてくれた。この従兄弟と自分達家族の繋がりは切れてはいないのだ。
 三咲がトイレに立って、二葉は何度も口に出しかけた言葉を発音してみた。
「ハルの連絡先、教えてくれないかな」
 地元から離れた賑やかな市街地の駅前で、何度も女の子に対して投げかけた言葉をこれほど苦労して声にしたことはない。
 あんなに美菜浜での生活を楽しんでいた春海が姿を消した事情を、二葉は知らない。よほどのことがあったのだろう。もう二度とこの町を訪れまいとした彼に、もう一度深い繋がりを求めるのは迷惑な話だろうか。
 誰にも言わないからと約束すれば彼の躊躇いは消えるのかもしれないけれど、春海へと繋がる情報を一番に告げたいのは春海と気まずい事情を持っているらしい兄だ。
「カズ兄が、立ち直れなかったら、ハルを呼んでもいい?」
 それでも、春海がどれほど長兄のことを慕っていたか覚えている。二人の間に袂を分かつ決定的な出来事があったとしても、春海の手を引く兄の手は誰に対する仕草よりも優しかったし、兄が名前を呼んでそれに応える春海の表情は幸福そうだった。そういう思い出は、母の肉体のように消えてしまうわけじゃない。思い出は事実だ。
 最終手段を早々に出してしまった二葉は、目線を自分の汚れたスニーカーに落として返事を待つ。
「俺、携帯持ってないし、家の電話もないんだけど……」
 拒絶をオブラートで包んだ返事に、弱っている涙腺がまた緩んだ。
 そうなんだ? 残念。
 ナンパの場合はそうやってあっさり諦める。けれど今は、諦めるわけにはいかないと、気のきいた二言目を頭の中で必死に練る。
「働いてるお店の電話。小さな店だし、店長も気さくな人だから、遠慮せずに、困ったことがあったらいつでもかけてきて」
 滲んだ視界に小さなカードが差し出された。東京のダイニングバーのインフォメーションカードは、今の二葉の生活にはあまりに縁遠い。
 でもこれで確かに繋がったと、安堵が押し寄せる。
「……いいの?」
 受け取ったのは薄っぺらい、小さな小さな紙片だ。
 春海は小さく頷いた。
 春海が何で美菜浜を離れたのか知れない。だけど、もう近づかないと決めただけの傷を負っているはずなのに、自分達兄弟を想ってくれている。
 昨日から、絶望しか見えていなかった。
 大丈夫だ。
 消えてしないものをちゃんと見つけたから、自分は明日を生きていける。
 嗚咽する顔なんてみっともないけど、ちゃんと前を向いて春海を見た。
「ごめん。ありがとう、ハル」
 自分達を繋ぐ縁を作った母と似た顔で、春海は優しく微笑んだ。
 その頬を涙が伝う。
 拭ってあげたいと思ったけれど、それは兄の役目だとも思った。
 控え室のガラス窓の向こう、煙草を吹かす兄の背中が見えた。
 悲しんでいる素振りを見せない背中だ。
 自分達のために、我慢している背中だ。
 春海の視線がそれを捉えている。
 時が満ちたら、必ず連絡しよう。
 二人の距離を昔と同じものにすれば、兄の背中が負っているものも軽くなるような気がする。




2010/5/23更新
私のカキモノには葬儀の描写が、何でか多いような気がします。

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