大切な貴方へ10の言葉
05:しょうがない人ね



 夜半、一臣の携帯が鳴った。
 背中を暖めてくれていた腕が離れてしまうのを惜しみながら、春海はぼんやり目を開く。
「もしもし」
 眠りの中から抜け出したばかりの掠れ声が応じるのを聞きながら、沸き起こる予感に抗うように身を寄せると電話を持つのとは逆の手が頭を撫でた。
「……いや。わかった。すぐに行く。十五分くらいで着くけど、平気か?」
 一臣が身を起こす。離れてしまうと思って手を伸ばしかけて、止めた。こういうのは、一臣を困らせるだけだと春海は知っている。
 一臣には触れることなく布団の中に手を戻すと、起き上がりかけた一臣がもう一度肘をついて春海の頬に口を寄せてきた。
「わりぃ。呼び出し。ちょっと行ってくるな」
「ん、どこ?」
「竜宮城」
 常連とも言えるラブホテルの名前を告げ、起き上がるとてきぱきと着替えを始める。何時でも客の要望に応じられるようにしているせいか、寝起きはいい。
「酔っ払いが文句言ってるんだと。いいから、寝てろ」
 もそりと起き上がりかけたところ、頭を撫でながら枕に押し付けてしまう。
「大丈夫?」
 されるがままになりながら、目線だけ動かして問うても返ってくるのは、
「大丈夫」
 と言う言葉に決まっている。
「朝までには戻るから」
 言い聞かせるように告げて、静かに部屋を出て行く。
 バイクが動き出すエンジン音が間もなく聞こえてきて、一臣はトラブル処理へと借り出されていく。
温もりの半減した布団の中で春海はもぞもぞと膝を抱えた。
 遠ざかった眠りがようやく戻ってきたのは、夜明けを迎えるほんの少し前のこと。そんな眠りも携帯電話の電子音が奪っていってしまった。



 一臣は信頼できる人物だが、一つだけあいつが口にするフレーズで信頼できないものがある。
「あいつの“大丈夫”にはなんの価値もない」
 と言うのが定説だ。
 まったくその通りだと春海は思う。
 思いながら、病院の廊下を歩いている。
 夜中に呼び出された一臣が、酔っ払い客に殴られて怪我をしたと知らせがあったのは朝日が昇ってからのこと。電話をしてきたのは一臣を呼び出した竜宮城のオーナーで、一臣の後輩にあたる大介だった。申し訳なさそうな声でまず決して重傷ではないことを告げ、若松病院で待っているので保険証を持ってきてくれと言った。ついでに着替えの服も。服に、血が付いちゃったので。
 そこまで聞いた段階で春海は電話を切り、荷物を持って駆け出した。
 白髭先生と呼ばれるとおり真っ白の髭を蓄えた老医師の営む病院に駆け込むと、少ない病室の一つから院長自ら顔を出して春海を手招く。手招き効果空しく春海の足が病室を目前に止まってしまうと、苦味すら感じるような溜息をついた。
「心配させたなぁ。顔が真っ青だ。二人とも」
 二人、と春海が振り向けば、半歩後ろにはいつの間に来たのか元幸が立っていた。
「まぁ、入りなさい」
 促され、先に動き出したのは元幸だった。春海の肩をそっと抱いて、大丈夫と小さく笑った。

 一臣はベッドに腰掛け、向かいのスツールに座る大介と談笑していた。
 その額に大きなガーゼが貼り付けられている。
「酔客がビール瓶を武器に暴れたらしくてな。そいつで殴られて脳震盪と、割れた破片で切ったらしい。一応、検査もしておいたが異常はないよ。切り傷は三針ほど縫っといた。当の昔に傷物だから、痕が残るのはかまわんかな?」
「かまいませんよ」
 白髭先生の医者らしかぬ言葉に即答したのは元幸だった。
 春海の肩をぴくりと強張らせるような迫力は、一臣からは頻繁に感じることはあっても、いつも穏やかな元幸から感じられることなどこれまで一度もなかった。
 怒っているのだと春海が気付き、一臣も気付いたらしい。隣に立つ元幸の表情を見られない春海の代わりに、それを直視した一臣の顔が強張る。
 その眼前にツカツカと歩み寄って、元幸は息子の顔を覗き込む。
「痛そうだねぇ」
 のんびりした声はいつもの元幸の調子なのに、明らかな怒気を感じてしまう。
「君は本当に、呆れるくらいに朝子に似ている」
 硬直する一臣の頬を、元幸の大きな骨ばった手が包んだ。
 これまでガキ大将だった一臣を叱るのは母である朝子の役割で、元幸は見守る役に徹していた。春海も、元幸が怒鳴るところは勿論、苛立ちや怒りを滲ませた場面など目にしたことがない。
 これから何が起きるのか想像もできず、斜め後ろから元幸の横顔を窺っている。
 会社勤めがあるからと民宿業にはなかなか関われない元幸の存在はひっそりしているが、宿泊予約の電話をしてきた客の中には元幸が電話に出ることを楽しみにしている人もいる。あの穏やかな声で応対されると、それだけで体内時計が正常に戻る気がすると。
 元幸本人は流れの早い社会のシステムの一部として毎日勤めに出ているが、どうしてだか忙しさに染められることはない。マイペース過ぎるくせに、案外と頼られる上司として部下に慕われているとも聞く。
「朝子は世界一素敵な女性だと思っているけれど、たった一つだけ恨めしく思っていることもある。それはね、あの事故が起きた時、朝子が僕達よりも子供達を選んだことだ」
 家族に心配をかけるかもしれないことよりも、子供達を守ることを優先して散った妻を、彼女らしいと誇らしく思う気持ちもあるけれど、それ以上にどうして僕らを遺して逝ったのだと恨めしく思う気持ちがあると言う。
「同じ思いをハルちゃんにさせる気かい? いつまでも気ままな独身貴族だと思ってちゃ駄目だよ。今の君にはハルちゃんを幸せにすると言う義務がある。家庭を持つというのは心強い支えを持つことでもあるけれど、臆病にならないといけないこともある」
 目を逸らすことを許されない体勢で、重い言葉を受け止めるため一臣は拳を握り締めた。
「一人前の男になったと思ってたけど、まだまだ甘いなぁ」
 そうして頬に添えられていた優しい手の平は、精悍に削げた頬のただでさえ無い肉を無理矢理に抓み、容赦なく引っ張った。
 暴挙に身を捩ろうにも頬を抓られている状態では身動きできず、一臣は宙を掴むように両手を中途半端な状態に持ち上げて悶絶する。
「たーてたてよーこよこ、まーるかいて、ちょんっ」
 遊び歌を口ずさみ、最後にはまさにちょんっと止めをさした。
 一呼吸、どうにかこうにか酸素を吸い込んで、
「………………、ぃいっっってぇえええっ!!」
 叫んだ。
 両頬を押さえて悶絶する姿を見て満足したとでも言うように一つ頷いて見せた元幸は、傍らで唖然として立ち尽くす大介に向き直り、恐縮の極みにある彼が謝罪を口にするより前に穏やかに告げた。
「これからも頼ってやってくれるかな。一臣がやると決めて怪我をしたのなら、大介くんは気に病むことないからね」
「は、はいっ! お世話になりまっす!」
 そうして春海を振り返り、長子に制裁を加えた大きな手の平で優しく頭を撫でる。
「ごめんね、ハルちゃん」
 春海が抱えていた不満も不安も全て一臣にぶつけてくれた叔父の微笑には、心配をかけられることはこれからも五万とあるだろうが、諦めてやってくれと訴えているようでもあった。大きな手の平の下で春海は首を横に振る。
「これで大人しくなるなんて、カズちゃんらしくないですから」
 春海がようやく笑って見せたのを仕上げとして、元幸は時計を確認した。
 ようやく普段の起床時間になろうとしている。夢の中から覚めようとしている弟達は何も知らないままだ。幸いにも宿への予約は今日の昼のチェックインが二件。
「あ、朝ごはん作ってない……」
「よし、たまには僕がやってみよう」
「え、叔父さんが?」
「ご飯は予約してるから炊けてるだろ? 卵かけご飯くらいなら作れるよ」
 それって作るって言わないと突っ込むことができない優しい笑顔に、じゃあお願いしますと軽く頭を下げた。
「ゆっくり帰っておいで」
 そうして元幸は若松医師に挨拶をして去って行った。
 残されたのは愉快そうに低く笑う若松医師と、ぴしっと直立した大介、ベッドに仰向けに転がり頬を押さえたままの一臣。
「なるほど、朝子ちゃんが惚れた相手だ。おもしろい」
「カズさんの親父さん、けっこうすげぇんスね……」
 それぞれ大月元幸評を口にして、消えた気配の名残を辿るように病室の出口に視線をやった。
 春海はベッドに一歩近付いて、未だ仰向けの従兄弟の表情を見下ろした。みんなが頼りにする男は頬を抑えたまま、口をへの字に結んで天井を睨んでいた。まるで叱られた小学生のような表情に、春海は思わず噴出した。
 大人の本気を浴びた子供は、怯えるしかないのだ。その強さや無敵さに、自分の小ささを噛み締めて情けなく縮こまる。別方向から伸びる慰めの手に縋り、ようやく立ち上がる。それを成長と言うのだと、誰の口から聞いただろうか。
 じっと天井を睨んで、春海のことを見ないようにしている。そのふてたような態度は肝が冷えるほどに心配した春海にとって腹立たしいものだが、制裁を受けたガキ大将にこれ以上の罰を与えるほど春海は子育てに長けていない。
 思い切ったように起き上がり、そのままの勢いで春海の胸元に顔を埋めて抱きついてきた駄々っ子を跳ね除けることもできず、やんわりと抱きしめる。ごめんと、衣擦れの音に掻き消されそうなほど小さな謝罪ごと。
「反省しましたか?」
「しました」
「それでも、また同じことするんだろうなぁ」
「……」
「しょうがないね、カズちゃんは」
 しょうがないねと諦めの溜息をつけるうちは幸せだ。
 懲りない便利屋の旋毛を見下ろして思う。
 もうどうしようもないと、空を見上げる切なさに比べれば、耐えられる。
 生き生きとこの町を駆け回る彼の背中を眺めることは春海にとっての喜びでもある。大丈夫だと気軽な返答を聞いて、大丈夫じゃなかったと知る度に心臓を震わせて、寄り添って生きていくのだ。そう覚悟して、ここにいる。
 けれども、こちらこそ生きた心地のしない不安を味わった時間に対する慰謝料は頂いても良いだろう。
 巻きついたままの大男の、赤く抓られた痕の残る頬をバチンと両手で挟みこむ。
 美菜浜のフリーマンは体も心も痛いと悲鳴を上げた。



2010/4/15更新
実は黒幕的な父親像を書くのが楽しいです。

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