料理人として呼んだ従兄弟に、洗濯や掃除なんてのは弟達にやらせたらいいと言ったものの、家事は苦ではないからと返されて以来甘えっぱなしになっている。放ったらかしておけば、男所帯とはこういうものと言う見本のごとき荒廃っぷりを見せるから、つい手が出てしまうのだろう。
その春海が、アイロンをかけている。
弟達の制服のシャツの皺が綺麗に伸びていく。
三人分となればなかなか面倒で、そう言えば亡き母はアイロンかけが苦手だったと思い出す。夏になればポロシャツに切り替わるその季節を待ちわびて、秋冬には山盛りになったシャツと格闘していたが、春海は少し違うらしい。母がどうしても残してしまっていた皺も綺麗に伸びて、買ってきた時と同じ状態に戻ってしまう。
四恩の分、三咲の分、三咲の分、そして父の分。
そして最後に、一臣のシャツがアイロン台に広げられた。後輩の結婚式に呼ばれ、珍しくスーツなんぞを着込んで出かけたのだ。
白いシャツを春海が丁寧に広げていく。その姿を一臣は居間に転がったまま眺めている。
二次会が終わって三次四次会まで新郎新婦が離してくれず、家に辿り着けたのは日も高々と上がって弟達も父親も出かけていった後だった。
それから家業としての送迎やらをこなした後、ようやくうとうとしたつもりがどうやらすっかり熟睡していたらしい。目が覚めたのは洗濯物を取り込んで、アイロンをかける時間と言うことになる。
酒精の抜けた頭でぼんやりと思うのは、果たして新郎新婦は無事に初夜を迎えられただろうかと言う野暮な心配だった。
いらぬ心配は、一臣の覚醒に気付かず、手馴れた動作で一臣のシャツにアイロンをかける春海の姿に見惚れているうちにどこかに消えてしまう。
一際面積の大きなシャツの上にアイロンを滑らせる、その表情には控え目な微笑が浮かんでいる。
獲って食ってしまいたいと思う衝動のまま喉から変な唸り声が出て、その唸りに気付かれてしまった。一臣のシャツを綺麗に仕上げた獲物は驚いて、寝ていると思っていた大男を振り返っている。
今起きたのかと確認するように問おうと口唇が開くより前に、匍匐前進で縁側に近い場所でアイロン台を出している春海に接近した。
春海を捕まえるのは簡単だ。
決して一臣から逃げはしないのだから。
後ろ手をついて押し倒されまいと踏ん張る春海の口唇まであと五センチで止まると、悔しそうに見つめてくる。
もういい加減、長い長い片思いを裏切ってもいいんじゃないか。
お前が俺に背を向けたとしても、必ず追いかけて捕まえてやるから。
「……シャツ……」
至近距離の視線に耐え切れず、春海は二人の体の間で皺を作るシャツに目を落とす。
「どうせ暫く着ないから」
甘えるように額に口付けて顔を覗き込む。
困った顔も可愛い。
「カズちゃんのスーツ姿、好きなのに」
「俺はあれを着ると頭が痛くなる」
「迎えに来てくれた時、スーツ着てた」
「まぁ勝負着には違いない」
離れようとしない一臣に諦めたのか、手を伸ばしてアイロンを危なくないように遠ざける。こういう時の春海は、浜辺の散歩中に出くわした近所の大型犬をあやす時と同じ顔をしている。
本格的に体重をかけて畳みの上に押し倒すと、やんわりと背中に手を回された。
「スーツ着てるのに、ワイルドな感じが隠せなくて、かっこいいんだ」
耳元で囁かれて嫌な気分になる男などいないが、照れ臭い。
「似合ってるから女の子が放っておかない」
いい気になっていると、ギクリとするような発言がくる。
昨夜の二次会三次会で、可愛くおめかしした女の子に適度に年齢を重ねた男達がモテたのは事実で、同席していた幸太が両手に花を侍らせているところを写メで撮って光子に送りつけてやった。どうやら知らぬところで同じ手の報復を食らっていたらしい。
咄嗟に言い訳を見つけることができずに視線を彷徨わせていると、組伏している春海が喉を震わせて笑い出した。
「一々嫉妬なんかしてられないよ」
「それも寂しいな」
「じゃあ、みっちゃんが幸太くんのメールも電話も拒否設定してるみたいに、カズちゃんを締め出そうか」
「いや、寛大な相棒で良かったと、素直に感謝します」
よろしいと笑う顔を可愛いと思うと同時に、敵わないなぁと痛感する。
男女問わず友人が多い一臣の傍には、近すぎる距離で異性が存在することもある。女性客からの人気もある。それに対して春海は嫉妬を覗かせたことがない。
「俺は、お前の昔を思うとちょっと、熱くなるけどな」
額を触れ合わせた至近距離で本音を吐露すれば、怯えるように睫毛を伏せる。一臣を責めることは一切しないくせに、自分の過去に罪悪感を膨らませてしまう。
「馬鹿」
長い別離の時を経て、二十代の後半で再会を遂げられたのは意味があったのだと、運命を論じない一臣でも思うことがある。
過去の自分の言動を冷静に振り返ることができるこの年齢だからこそ、自分が何を失って何を得たのか己の胸を探って正直な答えと向き合える。
独占欲は強い方だと自覚するが、この年齢に差し掛かるとさすがに過去の春海までを独り占めすることが不可能であるとわかっているから、自分のものには決してならない過去に我武者羅に手を伸ばす暇があれば、今目の前で微笑む人を大切にできる。
その思いのままに口唇を重ねる。三つ数えてそっと離れる丁寧で甘ったるいキスに肉欲は薄い。ただただ相手を愛おしむ気持ちを伝えようとすれば、仕草は自然と柔らかくなるものだと、春海を隣に据えるようになって初めて気が付いた。
ゆっくりと睫毛を持ち上げた春海は、恥ずかしそうに頬を染め、幸せを溢れさせるように微笑んだ。
「お前、俺のことが重くなったら逃げていいんだぜ」
愛おしさは時に切なさを生むということも、初めて知った。
そんなことが起こるはずがないのにと首を傾げる春海に告げる。
「絶対に追いかけて追いついて、取り戻すから」
一臣の目が届くところで最期を迎えるのだと言う宣告を受けて、春海はますます嬉しそうに笑う。
2010/9/4更新
たまに着るからかっこいい。