大切な貴方へ10の言葉
07:欲しいものは一つだけ




「カズ! カーズー坊!」
 泊り客を駅まで送り届けたワゴンを駐車場に停め、鍵をかけたところで名前を呼ばれ、一臣は声の主を探す。
 栄月館の三軒向こう、小柄な老婆が大きな身振りで一臣を手招きした。
「どーした、菊江ばあさん」
 御歳八十五歳。長く産婆として活躍していた彼女は、彼女がぎっくり腰を理由に引退した年までに生まれた美菜浜中の赤ん坊をとりあげた、美菜浜の母とも呼ぶべき人物だ。
 一臣の母は勿論のこと、一臣自身も彼女の手によってこの世に取り出された。朝子が病院に行くこともできないほど急に産気づいたせいで、引退を決めていたベテラン産婆にSOSが出されたのだ。菊江ばあさんのおかげで無事に自宅での出産となり、その日居合わせた泊り客も喜んでくれた逸話が残る。
 一臣自身が記憶しているわけもないのだが、菊江さんに感謝しなさいと物心つく前から延々と言い聞かされてきたせいか、一臣はこの老婆に頭が上がらない。
 手招かれるまま、十年以上前に旦那が他界してからずっと一人で暮らしている家に寄る。
 三人の子どもはどれも街中に住んでいて、同居を薦められてはいるらしいが、この地を離れるつもりはないと断っている。彼らはたまに帰省しては近隣に世話になりますと挨拶して回る。一人で嫁入りした地で暮らす老婆の意地を支えるため、一臣もちょくちょく様子伺いはしているつもりだ。
 小奇麗に手入れしてある庭に入ると、菊江が縁側を指差す。
「網戸が外れた」
 直してくれとは言わないが、僅かな手間で一臣が網戸をレールに据えると、ありがとさんと皺を更に増やして笑う。
「おやすいごようで」
「ついでにあれも」
 指差したのは小奇麗な庭の中、やんちゃ坊主にように枝葉を伸ばす一本の庭木だった。菊江が剪定バサミを差し出す。
「どっちがついでだよ」
「どっちでもえぇがな。ほれ」
 受け取った鋏はずしりと重い。遠慮されるよりもずっといいと、伸びすぎた枝を剪定していく。
 背を向けた縁側でカチャカチャと音がする。何をしているのかと振り向けば、一人でお茶の用意をしてシフォンケーキの一片にかぶりついたところだった。
「……俺のは?」
「あんたのは、家に帰ればなんぼでもある」
「あぁ、春海のか」
 柔らかなシフォンケーキは菊江のお気に入りだと、春海から聞かされていた。
 暫くは黙々と剪定を続けていると、こっちが短いあっちが長いと指示が入る。それに一頻り応えた後、ようやく満足してもらえたのか、お茶でも飲みなさいと許しが出る。
 縁側に腰掛けて、自分が整えた庭木を眺める。悪くない。地面に落ちた枝葉は後で弟達にでも片付けに来させよう。
「春海は、明るくなったねぇ」
「そうかもしれない」
「可哀想な子だ」
 菊江は、春海の母も取り上げている。難産だったのだと語ったことがある。頑張って生んでみても、報われるわけじゃないのが人間って動物なんだと、諦めたように呟く。
 美菜浜を出て行った春子が春海を置いてまた、去っていく。その背中を険しい表情で見送って、残された春海を大月家の人たちと同じように可愛がっていた。春海本人に告げることはしなかったが、時折、無邪気に笑う姿を見ては可哀想な子だと呟いた。
「あの子は、誰も恨まない。恨めずに一人で頑張ってきたんだ。偉い子だよ。強い子だ。あんたなんかよりも、よっぽどね」
「知ってる」
「だけど、頑固な子だよ。あぁ言うところは、母親に似てるのかもしれないねぇ」
 春海が頑固など、最も遠い性質に思えた。不思議そうな表情に気付いたのか、
「カズ坊以外の人に、幸せにされることを拒んできたんだろう」
 お茶を啜りながらの説明してくれた。照れていいのか茶化していいのかわからない。
「おや珍しい。ガキ大将が赤くなって」
「うるせー」
「あんたはいつまで経っても子どもだ。馬鹿で、短気で、欲張りだ」
 笑って、二人分のお茶のおかわりを注ぐ。茶柱だと、はしゃいだ声をあげた。
 それから一呼吸置いて発せられた声はトーンが変わっていた。
「今日ねぇ、春海が、謝るんだよ」
 湯のみを包む手の皺がいっそう増えたような気がする。
「なにを?」
「菓子を持ってきてくれた時に、カズの子どもを奪ってしまったって、謝るんだよ」
「……なんだそれ」
「自分じゃいけないってわかってるんだって言ってねぇ」
 一臣が吐き出した溜息は苛立ちを含んでいた。菊江が宥めるようにその膝を摩る。
「美菜浜の連中は、みんなあんたが家庭を作ることを楽しみにしてきたって。それを自分が壊してるって、そう言ったよ、あの子」
 体が重くなり、表情が強張るのが自分でもわかった。
「それでもカズ坊の手を離せないから、ごめんってね」
 それは、美菜浜に多くの命を灯してきた産婆にするに相応しい懺悔だったのかもしれない。
 春海はずっと、謝りたかったのか。
 ぷくぷくした赤ん坊を抱きかかえ、同世代の友人達が家庭を築いていく。おめでとうと告げる一臣の、ありもしない腹の底でも想像して悩んでいたのか。
「言ってやったよ。カズ坊は、当の昔から立派な家族をもってるから、なーんにも思っちゃいないって」
 菊江は、可哀想な子だともう一度繰り返した。だけど強い子だと付け足す。
「あの子は優しい。一生懸命に生きてきた子だ。大事にするんだよ」
「帰って抱きしめてキスしてやろう。そうしたら俺も可愛がってもらえるから」
「こんなババアの前で惚気るんじゃないよ。大きい成りして甘ったれだね。ちょっと、あんた、この枝はいつ片付けてくれるんだい?」
「チビ達が帰ったら来るように言うよ」
 桜を散らした可愛らしい湯のみを置いて立ち上がる。
 いい気分だ。
 この上々の気分は、老いた美菜浜娘が毎日欠かさない祈りから生まれているのかもしれない。



2010/8/22更新
お年寄りを書くのが、実は好きだ。

NOVEL TOP   BACK