「大丈夫だから、体の力抜いてみ?」
従兄弟の声には隠し切れない笑いが含まれている。
「俺が手を持ってるから大丈夫だって」
そう言いながら、一臣はまた一歩沖に出る。
「待って! もうちょっと待ってって!」
少し大きな波が押し寄せ、ふわりふわりと体が浮くこの本能的な恐怖は、海の中を自在に泳ぎまわる地元っ子にはわからないだろう。
肌に当った波飛沫が顔にかかる。思わずぎゅっと目を瞑った間に更にもう一歩、沖へ。春海の足はとうとう、心もとない砂地から離れてしまった。
「ひゃっ、わっ! カ、ズちゃんっ」
溺れる人間を抱えると、その我武者羅な力で救助者までもを巻き込んで海に沈めてしまうと言うが、一臣は笑いながら春海の体を受け止める。
「大丈夫だって。俺は足、ついてるから」
高校生になってぐっと背が伸びた従兄弟の余裕は至極簡単なものだった。
「お前、こんなに水が怖いなら、プールの授業どうしてんの」
「うちの中学にはプールないよ」
「マジで? 面白くねぇ学校だな」
春海を抱えたまままた一歩海へと入るその二の腕までが水に浸かる。
周りでは過ぎ去ろうとしている夏の尻尾を捕まえた海水浴客が思い思いに戯れていて、繁忙期に比べれば遊びやすくなっている。
一臣にとっては泳げない年下の従兄弟を特訓するのも遊びの一つらしい。華奢で生白い従兄弟の体を抱えて、一臣にとっては物足りないであろう浅瀬で過ごす。
「春海はもっと力を抜かないと駄目だ。水を怖がってちゃ泳げるもんか」
余裕で笑い、ふわりふわりと波に実を委ねる。
三つ年上の従兄弟の背は同世代の友人と並んでみても抜きん出ているし、春海を軽々担げるだけの腕力を備えた腕はしっかりと春海を支えてくれている。
「よっと」
掛け声とともに覚束ない足元が払われる。
「わあっ!」
視界が引っくり返り、美菜浜の海の色から空の色へと青が変化する。
仰向けにひっくり返された体が沈み、顔も海水の中へと落ちそうになる。思わず息を止めたが、一臣が後頭部と背中を支えている。
「力抜いたら人間は浮くようにできてるんだ」
真夏の空をバックに春海の顔を覗き込んでくる顔は年々精悍さが増している。男らしい顔付きに似合うだけの逞しさも出てきて、浜辺を歩く彼を振り返る女の子の数も多い。
そんな一臣が、今も変わらず自分の手を引いて遊びまわってくれることが春海は嬉しい。
それだけを支えに、美菜浜以外の場所で生きている時間を耐え忍ぶ。
高校生と中学生、遊びの質も違ってきた。終業式を終えて美菜浜に向かう電車の中で、一臣はまだ自分の相手をしてくれるだろうかと不安になる。そうして改札を抜けた時に、彼が笑顔で手を振ってくれるとそれだけで幸せな気持ちになれる。この人が自分を相手に笑ってくれるだけで、生きていくことを許される気がする。
「そうそう、ちゃんと浮いてる」
兄貴風を吹かせた笑顔に見とれているうちに、体はぷかりと水面に浮かんで波に揺られていた。
一臣の手が頬に張り付いた髪の毛を払おうとする。そんな些細な接触に驚いた体がまた沈む。
それを救ってくれる一臣の手が、恋しくてたまらない。
いっそのこと沈ませてくれたらいい。
海の底深く、この想いごと。
「大丈夫だって。春海には俺がついてるから、何も心配すんな」
「……うん」
終わらせてはくれない想いごと、泡になれたら幸せだろうか。
「ねぇ、本当に行くの?」
店の控え室でロッカーの掃除をしていると、店長の蒼が煙草に火を点けながら声をかけてくる。
東京の小さなダイニングバーを辞めて、母の実家が営む民宿で料理人として働く決意を固めてから毎日、蒼はこの問いかけを繰り返す。
「行きますよ」
従業員を引きとめようとしているのではなく、友人の道ならぬ片恋を心配してくれている。
クールなようで姉御肌の店長には随分と助けられた。
「離れてれば綺麗な思い出だけ時々舐めて耐えられるけど、近くにいると辛い思いするわよ」
「だって、カズちゃんが俺を必要としてくれてる」
「それだけで耐えられるの、あんた」
「うん」
強い響きになるように意識して大きな声を出した。
「俺の我慢が、カズちゃんを幸せにするんです」
これからずっと、死ぬまで、この自己暗示を繰り返して生きていく。そうすれば、彼の傍で生きていくことができるのだ。家族の一員として必要とされて、ずっと。
海の底に沈むよりもずっと建設的な覚悟だと笑うのに、蒼はにこりともしてくれない。
「駄目だと思ったら、いつでも戻ってくるのよ」
頷くと、蒼の悲愴な表情が少しだけ和らいだ。
幸せだと春海は思う。
父親は自分の存在すら知らないだろう。母親は、自分のことを疎んじた。そんな自分に差し伸べられた手に闇雲に縋って、唯一安らげる場所を失った。
ただ日々を淡々と、静かに穏やかに、何も感じずに過ごしていこうと思っていた。綺麗な思い出は尽きることがないから、それを時折啄ばんで。みんな元気にしているだろうかと想像して。それすらも悲しい事故で奪われた。
生まれてきてはいけない存在だったから、幸せが縁遠いのだろうかと諦めの境地で思っていたけれど、そうではないと今なら思える。
生まれてきた意味はあった。世界中で一番大切な人から必要とされている。
それだけで、世界が一変した。
蒼は身内を思うように春海の先を案じてくれるし、店を辞めると告げた常連客や友人も惜しんでくれた。
必要とまでは言わずとも、自分の存在を認めてくれる人は多勢いたのだ。
一臣と再会して美菜浜で生きようと決めた日から、春海は色々なものに気付き始めている。今まで如何に周囲に目をむけていなかったかよくわかった。一臣がいるだけで世界に色がつく自分の現金さにも気付いたけれど。
「かっこよかったでしょう? 俺が好きな人」
「男の良し悪しはイマイチよくわかんないわ。いい人そうなのは認めるけど」
「ちょっとぶっきらぼうだけど、本当はちゃんと優しくて、責任感が強くて、みんなから頼りにされて……」
肩を竦めた蒼に一臣がいかに格好良いか語りだしたら、わかったわかったと遮られてしまう。
「あんたが一途なのは私が一番よくわかってて、心配もしてる。そんな私のために、最後のモーニングを作りなさい」
春海が傷付いて、最初で唯一の恋を失って戻ってきたとしても、蒼は言葉少なに再びこの店に受け入れてくれるだろう。
「はい、店長」
終わらせることのできない想いが気付かせてくれたことがたくさんある。
人生を賭けた初恋を一人誇らしく思いながら、波音に寄り添って生きていく。
プランクトンをパクリパクリと吸い込む魚のように、彼がくれるものならば喜びも悲しみも痛みも、全部飲み込んであの場所を泳ぐのだ。
2010/7/18更新
高校生時代の一臣は鈍くて愚かな若者として書いてみたい。春海は大人。