大切な貴方へ10の言葉
09:”許して”なんて言えないけど


 お姉ちゃんは春の海が好きだった。
 誰に聞かせるでもなく独白した母のいない美菜浜に、黒いコートがはためいている。ふっと目が引き寄せられる後姿だ。すらっと伸びた背は海風に縮むことも揺らされることもない。まるで挑むようだ。 
 黒いワンピースに黒いブーツ。喪の色を選んだのだろうかと思いながら、一臣は砂を踏み進む。
 緩く波打つ長い髪が風に踊り、煙草の香りが流れてきた。
 真っ直ぐに近付いてくる足音に気付いたのか、浜辺に立つ女性が振り返った。
 春海が美菜浜を離れて以降顔を合わすことがなく、消息すら途絶えた伯母は記憶にある姿と大きく変わることなく、相変わらずに美しかった。強い光を湛えた瞳が一臣を捉え、グロスを重ねた口唇の端が持ち上がる。
 朝子と姉の春子。よく似た姉妹だったと聞いていた。
 大人になればそれぞれの特徴が伸びることを、一卵性双生児の弟を持つ一臣は身に沁みてわかっているが、それにしてもこの姉妹には共通したところが少ない。
 母は幾つになっても可愛らしい人だった。化粧などは滅多にしなかったが、いつも血色が良い顔に笑顔を浮かべていたせいか、美しかった。夏には汗を滲ませて、冬には鼻の頭を真っ赤にしていても、可愛かった。
 伯母は、女性として美しい。年齢に見合いつつも決して老け込んでは見えない色で彩られた目元がきらりと輝いた。この女性は、自信を持って生きているのだ。老いに逆らうのではなく、自覚して綺麗に寄り添っている。
 故郷と家族から離れ、子供の手を離し、自分の根本と縁を切って一人で生きてきたのだ。一臣には想像できない孤独を味方に生きてきた。
「大きくなったのね」
 海風に遮られることなく届いた声が耳に懐かしかった。
 朝方、栄月館に一本の電話が入った。
 久しぶりね。あなたの伯母さんよ。ちょっと、浜辺まで出てきなさいよ。ブランクを感じさせない気安さで呼び出され、今、再会を果たしている。
 ちょっと出てくるよと春海に伝えた時、彼は洗濯かごを抱えたところだった。
「もう俺も三十です」
「私も老けるはずね」
 からっとした声には自分の老いを嘆く匂いは微塵もない。
 祖父母と母に心配をかけて姿を消した人。幼い春海を愛さなかった人。母との別れの儀式に駆けつけてはくれなかった人。
 会えばもっと恨み言が溢れ出すのだと思っていたが、こうして顔を合わせて見れば全て吹き飛んでしまった。しゃんと立つその姿に安堵すらしている。
「墓参りしてきたわ」
 母親と父親と妹の墓のことを口にする。長子である一臣にはその存在を認めることすら耐えがたいような気がするが、寄り道をしてきたかのような口ぶりで春子は報告した。
 海に溶けた父、待ち続けたが再会することなく逝った母、妬み遠ざけたままとなった妹が眠る墓の前で何を思ったのか、想像すらできない。
「あんたに言い訳するつもりはないけど、生まれて初めて、人生上手くいかないものねって思ったわ」
 空に向かって吐き出された煙は、彼女の胸の内に似ている。捉えられないようにと、風に向かって吐き出された。だから一臣もそれには応えないでおく。
「あんなに、嫌いだったのにね」
 風に乱れる髪を抑える仕草を横目に見ながら、一臣も自分の煙草に火を点けた。
「あんなにこの町が嫌いで、出て行って、振り返りもしなかった。今もここで暮らすなんてぞっとする。でも、今だから、懐かしいって、思うのよね」
 何もかも過去になってしまった。幸せだったかもしれない記憶も、胸苦しい記憶も。
 一臣には懐かしいと振り返る場所などありはしないから、やはり彼女の気持ちを想像することは難しかった。
「春海は元気にしてる?」
 彼女の口からその名前を聞いて、こんなにも平然としていられる自分に一臣は驚く。
 十代の頃、春海が美菜浜を離れるのと同じくして用はないとばかりにぱたりと姿を見せなくなった伯母に対し、心の中で恨み言を募らせていた。いつか醜い言葉の数々を、叩きつけるようにして聞かせてやろうと思っていた。
「元気ですよ」
「そう」
 それがこんなにも穏やかな気持ちで言葉を交わすことができる。当の春海が自分の傍で生きているからだろうか。
「幸せそうにしてますよ」
「あんたが言うの、それ」
 生意気よと、伸びてきた人差し指が頭を突いた。
 幼い頃、いい男になりなさいと瞳を覗き込まれながら会う度に言われていた。
「俺は、伯母さんのこと、好きじゃねぇけど」
 目を合わせずに言ったのは、目を見てしまえば、そこに母の面影を見つけてしまうかもしれないからだ。
「春海を生んでくれたことには感謝してます」
 伯母は陳腐なセリフを吹き飛ばすように鼻で笑った。
「俺には、親に感謝できる思い出がある。弟達が赤ん坊の頃を知ってるから、ガキを育てることがどれほど大変か、知らないわけじゃない。どんな親でも、三つまででも命繋げれたらそりゃすげぇことじゃねぇのかって思う。だけど……」
 息を吸う。潮の匂いが混じる海風を、胸いっぱいに。
 親の愛情を否定するため、脳裏にちらつく母の顔を一時黙殺する。
「春海は俺のもんだ」
 自分の放った言葉の傲慢さにこみ上げる嫌悪を飲み込んで覚悟に変えて、
 真っ直ぐ見つめた先、春子が微笑んだ。
「あげるわ。あの子は、たぶん、もうずっと、あんたのものよ」
 春海がこの人に愛されて育っていれば、今の関係はなかっただろう。そう思えば、この人が春海を厭う気持ちにすら感謝しそうになる。
 清濁併せ呑んで、人一人を自分のものにする。
 重い覚悟だが、飲み込んで腹の底まで落ちたそれに足元を支えられている気もする。
 水平線が弾いた光を目を眇めることなく見つめていると、春子が踵を返す気配があった。
「気が向いたから寄ってみただけ。行くわ。それで、また気が向いたら寄ってみる。じゃあね。元気でやんなさい」
 帰ってきたとも、帰るとも言わなかったことが、彼女が立っていた場所に残る吸殻三本と一緒に一臣の胸をじりっと焼く。
 また寄ってみると、決別を口にできなかった言葉には安堵を。
「……元気で」
 しゃがみ込んで拾い上げた吸殻に残る、赤い口紅の痕に告げた。

 


2010/3/21更新
シリアスに爽やかに。春子さんのイメージは萬/田/久/子さんとか杉/本/彩さんとか。

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