恋愛本能(後)



 
 二葉は自宅の門をくぐり、いつもの通り玄関で帰宅を告げた。
 いつも柔らかく応えてくれる声がないことと、玄関に兄の汚れたスニーカーが脱ぎ捨ててあることで二葉は現在のこの自宅内で何が行われているのかをなんとなく悟った。うっかりピロートークでも盗み聞きしてしまう前に近所の幼馴染のところにでも上がりこんで時間を潰そうかと思ったが、風呂場の方から二葉を呼ぶ声を聞きつけて、想像した事態と違ったか?と首を傾げる。呼ばれるままに客用の浴室に向かえば、上半身裸で髪からカーゴパンツからずぶ濡れの兄がいた。
「おかえり。タオル」
 挨拶と単語を並べられて呆れたのが悪かった。呆れついでに言葉も出てきた。
「なにしてんの」
「盛ってた」
「……」
 見えない一臣の背後から、小さな抗議のような悲鳴のような声が聞こえてきた。
 言葉の通りの事態は二葉の想像を裏切らない。ケダモノめとふざけて罵りながら、大月家だけが使う一般家庭用の浴室へ一旦引っ込み、そこからバスタオルを二枚とって投げつけてやった。
 二葉が麦茶を求めて台所に引っ込んでいる間に、腰にバスタオル一枚腰に巻いた一臣がのそりと出てきてそのままの格好で二階の自室へと向かった。暫くすると下半身だけ着替えを身につけた兄が、春海の着替え一式を持って降りてきた。それを脱衣所に置いてぴっちり扉を閉めてから台所にやって来た兄は、二葉が飲み干して空になったグラスを寄越せとジェスチャーで訴える。無言で並々と注いでやった麦茶を、兄はゴクゴクと美味そうに一気飲みした。
 まだ髪の毛からは滴がポタポタと落ちてきて、それを肩にかけたフェイスタオルが吸い込んでいる。その影に控え目な歯型が見えた。労働後の清々しい一服なら男として見惚れるところだが、これが情事の後の一服なのだから弟としては複雑だ。
「どしたの?」
 問うてはならんだろうかと逡巡しつつも、二葉が猫をも殺す好奇心に抗えるわけがない。 
 背後でトトトっと軽い足音が階段を駆け上がって行った。兄の過剰な愛情を一身に受ける従兄に同情するが、彼の場合同罪とも言える。
「あぁ?」
 それを横目で見送った一臣が、質問の意味を聞き返す。相手に質問を繰り返させるところが似てるよねと、頭のいい片割れが長男と二男の共通点を指摘したことがあったのをぼんやり思い出した。その悪癖を末の弟が辿りつつある。三咲曰く、馬鹿だから質問の意味を一回聞いただけじゃ理解できないんだよね?だ。なるほど、と二葉は思ったのだ。だから一臣が理解しやすいように質問を砕く。
「いや、カズ兄がこんな昼間から、あんな場所で盛るのって、珍しい」
 兄の発情具合を把握しているのも悲しい話だが、人間の発情期とも言える十代の頃でさえ、兄はそういう方面に関してがっついた様子を見せたことはない。もてるし、何人もの女の子と付き合っていたようだが、異性と手を繋いでいる場面を目撃したり、長々電話をしているところも見たことがない。兄はいつも男友達か、異性としては見ない女友達に囲まれていた。性的欲求については上手に飼い慣らすことが出来るんだよねぇとは、これまた三咲の言葉だった。帰ったら三咲に報告せねば。長兄もたまには暴走する、と。
「あー、まぁ、色々あんだよ、俺にも」
 これまた珍しく言葉を濁し、罪悪感からかちらりと天井を見やる。
「なに? 喧嘩? まさか、ハルに八つ当たりしたんじゃないよね?」
「ちげーよ。そんな怖ぇ顔するなよ」
「俺が怖い顔なんかできるわけないじゃん。俺は可愛い系で攻めてるんです」
「やめとけ。お前の顔は俺を経由してるから可愛げはない。三咲は親父経由だからいいけどな」
「なにそれ、差別だ」
「区別だろ」
 ぽんぽんと馬鹿げたやり取りをしていると、突如第三の声が乱入してきた。父親を経由した柔らかな線で構成されている三咲が台所の入り口に立っている。
「おう、おかえり」
「おかえりー」
「ただいま」
 部活から帰ってきた三男坊は知性を備えた双眸を、暑いと不快さを滲ませて細める。ずいっと一臣の方に手を差し伸べて、空になっていたグラスを奪った。二葉が並々麦茶を注いでやれば、小さく礼を言った。
「カズ兄、さっき観光協会に居た?」
「あー? 居たかもなぁ」
「友達が、カズ兄ちゃんが怒鳴って出て行ってたぞって。藤本監督の車蹴飛ばしてたって本当?」
「……」
 目を逸らしてペロリと舌を出せば、三咲は聞こえるように溜息をついた。
「マジでか。あんた、何歳なの」
「三十路ですー」
「うるせぇ、かわいくねぇんだよ」
「お前は悪態つくと可愛いなぁ」
 優等生然とした三咲が言葉を荒らす様子は可愛らしい。
「二葉は課題広げて唸ってると可愛いぞ」
「ギャップ萌え?」
「そうそう」
 ケラケラと笑い声が上がる。こういう馬鹿げたやり取りが最近増えてきた。仲が良いとも言い切れない兄弟仲だが、こうして言葉のキャッチボールだかドッジボールだかを楽しむ余裕はある。
「ってーことは、カズ兄が珍しく欲に流された原因は、藤本さんってこと?」
 二葉がくるりと目を回して表情を作り、傍らの双子へとアイコンタクトを送る。これで様々な事情が伝わったらしい。秀才三男はしげしげと長兄の風呂上りの様相を眺め、またもやこれ見よがしの溜息をつく。
「あのじいさん、元気だよなー」
「ハルは?」
「泣いてた」
「「あんたが泣かせたんだろ」」
 綺麗に揃った声と胡乱な視線を投げつけられて、一臣はまたそっぽを向きながら舌打ちをするしかない。最近、微妙に弟達が扱いづらい。殊、春海のことになると弟達がムキになるので。
 その時、ぴんぽーんと滅多に鳴らないインターホンが来客を告げた。栄月館の客達は宿泊客も近所の人間も、誰かしら人の気配がする館内へ声をかける。余所余所しく響く機械音に兄弟は視線を交わし、ぞろぞろと玄関へと向かった。




 栄月館の広い玄関には案の定、先ほど悪態をぶつけてきた男が立っていた。昔なじみと言う介添え人まで連れて。
「おぅい、お前ら、塩もってこーい」
 どすどすと不穏な足音をたてて玄関に仁王立ちし、子分の如くついてきた双子に常套句を告げれば心得たとばかりに踵を返しかける。
「カズ」
 引き止めるように、憔悴した藤本の声が一臣を呼ぶ。
「……悪かった」
「あぁー? 聞こえねぇし、意味もわかんねー。俺、頭悪ぃーから」
 背後で「性質悪ぃ……」と呻く声がしたが無視だ。
 ぐっと藤本の不機嫌面が憤怒のそれに変わりかけるが、背後から田代が肩を抑えている。
「年寄りがいつまでも若いもんの生き方に口を出すべきじゃなかった。すまなかった、と言ってる。意味がわかったか、馬鹿野郎!」
「あぁああ? なんだその謝り方! そんなんでよくもまぁスポ少の監督とかやってられんなぁ!」
「人が下手に出てやりゃあその態度か! 年長者を敬えって、ガキの頃から教えてやっただろうが! ほんっとーにお前はモノ覚えが悪い!」
「くっそ、マジで腹立つ! 俺の教育の半分はあんたが手がけたんだろうがっ。クソジジイ、手加減してやっから表ぇ出ろ!」
「上等だぁ! お前みたいなヒヨっこに手加減されちゃあ男が廃らぁ! 本気でかかってこい!」
 藤本を羽交い絞めにする田代も、一臣を二人がかりで止める双子も、本気でこの場を放置したい気持ちにかられたが、ちょっとでも手を緩めれば本当に有言実行で取っ組み合いの喧嘩を始めかねないので常識と理性を必死で手繰り寄せる。あー、誰か助けて。思わず二葉が声に出して呟いたとき、その誰かがバタバタと駆けてきてくれた。
「カズちゃん! 藤本さん!」
 まだ髪の毛が濡れている春海が二人の間に割って入った。悪ガキの形相でいる二人をしばし見比べてから、まずは藤本の方へと向き合った。
「藤本さん、ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げると、このドタバタとした場に似合わない、柑橘系の甘く爽やかな匂いが香った。
「ほんと、ごめんなさい。でも、どうしようもないんです。だから諦めて。諦められないんだったら、俺よりカズちゃんのこと好きでいられる女の子連れてきてください!」
 ぽかんと藤本が口を開き目を見開き、目の前にいる綺麗な顔をした青年を唖然として見上げている。かまわず春海はくるりと振り返り、今度は一臣を睨み付けた。
「カズちゃんは藤本さんに謝って!」
「は? はぁっ? なんで俺が!」
「どんなに腹が立ったからって、言い方がある。藤本さんが心配してくれてるの知ってるのに」
「言い方ってなら、そっちのジジイだってそうだろ。なんで俺が謝らないといけねぇんだよ」
「いいから謝る!」
「……っ」
 ぴしゃりと言いつけられて、一臣が言葉を詰まらせる。実に珍しい光景だ。けれど一臣にとっては、最近増えたなぁと思えるパターンだった。最近、春海は一臣に厳しい。あまりに好き勝手無茶をする男にはブレーキ役が必要なのだと察したらしい。以前は決して一臣に対して声を荒げることがなかった春海だが、この頃は言いたいことをぴしゃりと投げつける。それこそ、亡き母の口調そっくりに。そして母の小言よりも春海に言われる小言の方が何倍も一臣に影響を与えるのだ。春海に叱られると、自分が悪いような気にもなってくる。
「……スンマセンデシター」
 悪い気にはなるが素直でないのは筋金入りなので、謝罪には抑揚など一切つけずせめてもの反抗とした。
 ぎゅっと眉間に似合わない皺を寄せた春海だが、これ以上言っても仕方ないと判断したのかまた藤本に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「口が悪くてごめんなさい」
 春海が顔を上げると、そこにはまだぽかーんとした顔の藤本がいて、今度は春海が戸惑う。その戸惑いを深めるかのように、まず田代が噴出した。つられて双子がゲラゲラと腹を抱えて笑い始める。
「いいね、ハルちゃん、最高だ! この悪ガキに添えるのはハルちゃんしかいない。そうだろ、藤本?」
 しばしばと年寄り臭い瞬きを繰り返した藤本はようやく正気に戻ったように、こくこくと何度か頷いて、やれやれと肩を落とした。
「カズを尻に敷けるんなら、大したもんだ」
 そして一連の反対運動が嘘のように、妙に納得してみせる。
「なんで俺が怒られなきゃいけねぇのか、全然わかんねぇんだけど」
 むっすりとした声を春海の顔を覗き込みながら告げれば、困ったように春海は顎を引いた。怒ったことを申し訳なく思っているようでもあり、近すぎる距離に髪が未だ濡れたままでいるその原因を思い出したようでもあるその表情は、目元にさっと朱を刷いていてそのうえ上目遣いで可愛らしい。
「あぁ、いいねぇ。そういうの。俺も久々に結婚したくなってきた」
 戸籍にバツが三つも輝いている田代のぼやきはしみじみとした響きをもって、栄月館に響いていた笑い声を微妙にトーンダウンさせた。
「たでーまー!」
 澱んだ空気を吹き飛ばす四恩が帰還を告げる声に、六人の声が同時に応えた。
『おかえりー』
「うぉっ、なに? なんの集会?」
 泥だらけのユニホーム姿で飛び込んできた四恩は、みっしりと人が集う玄関に目を丸くして一臣の顔色をまず覗う。
「美菜浜老年会が若年会に喧嘩売りに来たんだよ」
 誤解を招く表現を春海が叱り、藤本が唸り、田代が愉快げに肩を揺らして笑っている。険悪ではないムードに四恩は首を傾げた。
「ハル、目が赤い?」
 そして目ざとく異変を見つけ、表情を変えた。それは先ほど二葉が一臣に対して見せた“怖い顔”に似ている。
「藤本のじいさん、なんかしたの?」
 その顔を藤本に向けて、四恩が遅まきながらの変声期を終えた低音で問うた。思春期真っ只中の少年が怒気を露わにするのはなかなかの迫力だ。理性が簡単に飛びそう、というだけで。
「ハルになんかしたのかって聞いてんだ!」
「しーおーん!」
 まさにあっと言う間に導火線に火花を散らした一番小さな従弟の名前を必死で春海が呼べば、手綱を引かれたように踏みとどまる。そうしながらもふぅふぅと毛を逆立てた猫のような調子で藤本を睨み付けている。
 中学で野球に打ち込む四恩にとって、少年団で教えを受けた藤本はまさに恩師だ。上の兄達とは関わりの深さが違う。それでも春海に害をなしたのであれば容赦なく食ってかかろうとする。
「本当に、兄貴の悪ぃところばっかりもらいやがって……」
 言葉とは裏腹に、興奮する四恩の頭を藤本のゴツゴツした手が無遠慮に撫で回した。
「別にカズ兄の真似して怒ってるわけじゃねぇよ。自分の家族いじめられたら腹立つの当然だろ!」
 畏怖の対象であるはずの藤本の手を払いのけ、体をかわして兄弟の方へと身を置く。そうして兄や春海を守るような立ち位置で藤本と田代を睨み付ける様子は、一臣の小さい頃そっくりだった。
「ハルのこと、とってったら怒るからな!」
 幼い物言いだからこそ必死さも伝わるもの。母親を不慮の事故で亡くした少年の言い分なら尚のこと。
 そうやって必死で従兄を庇う少年の姿や、普段は現代っ子らしく触らぬ神に祟りなしのスタイルでいく双子の珍しく喧嘩腰の態度は健気で老兵達の胸を打つのだが、その中心でどうだみたかと言わんばかりにほくそ笑む大月家長男の表情が気に食わない。気に食わないが、もうこれ以上美菜浜小町の忘れ形見の心を乱すのも大人気ないとわかっている。六十年ちょっと生きてきて培った大人げを、藤本は溜息一つに凝縮して矛を収めた。
「とらんよ。とったら駄目になりそうなヤツがいるって、よぉくわかったからな」
 ちらりと視線が一臣に集中したが、本人はどこ吹く風だ。ふてぶてしい。いっそ清々しい敗者気分の境地に立たされた藤本が田代を見れば、こちらはにんまりと笑っていた。
「騒がせてすまなかったね。さて、藤本よ、ご挨拶してお暇しよう。久々に飲みに行ってもいいな」
「……おぅ。なんか、無駄に疲れた」
「そりゃこっちのセリフだ。それじゃ、どうも、ごちそうさまでした」
「邪魔したなー」
 そして老兵は去り、
『二度と来るな!』
 大月兄弟の高低入り混じった見事なハーモニーが栄月館に響き渡った。
 それでも老兵は美菜浜に君臨し続けるだろうし、若年者はその背中を追いかけ続けるのだ。



おわり



2011/11/11
昼チュンですみません。
あと思いついたままに出した田代さんをノリでバツ3にしましたが、「サンクチュアリ」で観光協会の奥方を登場させてたって今気付いた。時系列では本作より「サンクチュアリ」の方が未来なので、このお話の後にクラブのママさんあたりをゲットしたってことでひとつ!
大月兄弟のチームワークとお姫様な春海と、おじさんが書きたかったのです。

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