ルーツ・コンプレックス番外編
大月家小咄(7話)


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編1/7
「大月 二葉(二男)」


「ねー、お姉さん、暇してるの?」
 美菜浜から内陸へ向けて走る電車に乗って三十分。
 若者集う繁華街のショッピングセンターの一階フロアにはクレープ屋やコーヒースタンドが集っていて、ちょっとしたナンパスポットになっている。
 土曜の午後、お洒落な大学生の二人連れに狙いを定めて接近してみると、ニコニコと歓待された。
 年上の美人は遊び上手でいい。
 同級生の女の子はプライドが高くて遊びにくいけど、お姉さんたちなら上手に遊んでくれるし奢ってくれる。
 二葉が年上好きなのにはそんな姑息な理由があった。
「君、高校生?」
「うん。M高の二年生ね。17歳っス」
「かーわいー」
「あれ? 君さぁ……」
 好感触に浮かれていると、不意に一人に顔を覗き込まれる。
 それと同時、
「マキ、お前何してんだよ」
 耳障りのよくない声が背後からかけられた。
 男が嫉妬を滲ませた声と言うのは本当にみっともない。
 なんだよ男連れか。
 引き際は心得ているからそそくさと去ろうとしたのに、みっともない男は更に醜態を重ねる気らしく二葉の腕を掴んだ。
「ガキが、一丁前にナンパかよ」
 見下ろしてくる男は茶髪に日焼けで、お洒落なんだろうけど安っぽい格好だった。
 腰で履いたズボンの裾がフロアを掃除している。
 男は潔癖すぎない清潔感がポイントなんだぜ。
「すんませーん。お兄さんの彼女さんがあんまりに美人さんだったもんで、つい!」
 両手を上げてホールドアップの姿勢をとれば、不機嫌に鼻を鳴らされる。
「そういう態度って、女の人に不評だと思いまーす」
 つい口が滑れば、「あぁん?」なんてすごまれる。
「ユウヤ、止めなよ。その子、カズ先輩の弟だと思うよ?」
「えっ?」
 ぽかりと口を開けた顔は、わざと凄んでみせた時よりよほど男前に見えた。
「ね、大月君だよね? 一臣先輩の弟じゃない? 双子の……えーっと……」
「二葉っす。大月二葉」
「そう! 二葉君。大月兄弟の二番目だよね?」
「マジで? カズ先輩の弟?」
 二葉がナンパしていると時々こういう場面に遭遇する。
 美菜浜から少し離れた場所で出会う長兄の噂は、地元で耳にするのと少し違って聞こえる。
 女誑しで遊び上手で、ちょっと冷たい男前。
「私、カズ先輩の彼女、三ヶ月させてもらったことあんのよ?」
 彼女にしてもらったと誇らしげに口にする女性にもよく出会う。
 その短さにも呆れる。
 面倒見の良さは変わらないが、キャパは明確に狭まっている。
 長兄は地元の女の子を貴重な友人として扱うから、三ヶ月で手放すようなことはしないし、付き合ってもらったなんて関係を築かない。
 そういう、地元とは違った顔を聞き及んでいるであろう自分に対して、長兄は時折共犯者めいた含み笑いを寄越してくる。
「俺もカズ先輩にめっちゃ世話になったんだ。よろしく言っといてくれよな」
 印象の悪かった男が、笑窪を見せて笑う。
 いい顔だと思った。ちょっとだけ、地元で見せる兄の笑い方に似ている。
 ナンパ失敗。

あとがき>下手をしたらアナ兄弟にもなりかねない長男と二男の遍歴。


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編2/7
「大月 三咲(三男)」


 十歳も歳の離れた兄がいる。
 長男の一臣がお酒飲んで、煙草を堂々と吸えるようになった頃、僕と二葉はまだたったの十歳だった。
 見上げる兄は頼もしく、それと同じくらいに恐い存在だった。
 父は静かな人なのに、すぐに怒鳴るしうるさいし偉そうで、よく二葉と揃って拳骨を食らってはぶちぶちと文句を言ったり、母に泣きついたりしていた。
 ランドセルを背負っていた頃の僕らは、兄のことが嫌いだった。
 その兄の、誇りでありたいと思ったのは十歳の秋。
 夏休みの宿題で描いた、実家・栄月館の絵が絵画コンクールで金賞をとった。
 両親が喜んでお祝いしてくれる中、長兄は興味なさそうに頬杖ついていつもより豪華な夕食をつついていたはずだった。
 小学校からの帰り道、たくさんの友人に囲まれている兄を見つけた。
 兄の周りにはいつも人がいて、それは同年代の友人たちであったり、女の人であったり、近所の漁師さんであったり、老若男女を問わない。
 浜辺でゲラゲラ笑いながら戯れる兄貴分達はただ柄悪く群れているのではなく、何やら書類を手に打ち合わせをしているらしかった。
 栄月館の常連である桐沢画伯がアートイベントを開催するのだと話していたから、きっとその準備なのだろうと通りすぎようとした時、
「三咲の絵、すごいらしいな」
 自分の名前が話題に上って思わず足を止めた。
「あ、私も広報誌に載ってたの見た!」
「ねー。三咲って大月兄弟の中じゃクールなのに、絵はすごく可愛いのね。あれ見て三咲と話すると愛くるしいわー」
「つまみ食いすんなよ?」
「馬鹿。もうちょっと大きくなるまで待ってます」
 笑い声が弾ける。
「あいつはすげぇんだよ。持って帰るテストはほとんど花丸がついてるな」
「マジでか! おいおい、大月兄弟に有るまじき頭脳だな」
「だろ。俺もびっくりした。まぁ、その分、二葉が壊滅的だ」
「上手い具合にできてるもんだな、双子って」
 長兄は仲間に囲まれて楽しそうに笑う。
 家の中で自分達に見せるのは怒ったような顔だけなのに。
「三咲は、兄弟の中じゃ一番気持ちが優しい」
 あんな穏やかな顔を、家じゃ見せないくせに。
「いつか三咲の絵でイベントするからな。頼んだぜ」
 了解と、あちらこちらから笑いの混じった声が上がる。
 兄がその輪の中心で、笑っている。
 耳が熱くなるのを自覚した。
 兄を誇らしく思った、十歳の夏のこと。

あとがき>三男は兄弟の中で一番、長男の凄さをわかっていたりする。


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編3/7
「大月 四恩(四男)」


 体育の授業が好きで、得意だ。
 小学校一年生の時から、体育だけで言うならオール5。
 高校の野球部でも投手で盗塁王。
 そんなスポーツ万能な俺が一人だけ敵わない相手がいる。
 体育の先生に見せてもらった運動能力テストのランキング。
 学校創立から今日までの記録が残されているのを見ると、どれもこれも自分と同じ苗字が一位に輝いている。
 中学の時だってそうだった。
 大月一臣。
 結局中学の3年間、長兄の名前の上に自分の四の字を輝かせたことは一度もない。
「一番を追い越すことを、二番も三番も早々に諦めたが、四番目はどうかな? 大月四恩くん」
 中学時代の野球部顧問に指摘されたそれが、いつしか俺の目標となっていた。
 十四も歳の離れた兄はいつ見上げても逞しくて強くて恐い。
 だけど、同じ高校一年生だった兄になら及ぶかもしれないと、それをずっと追いかけている。
 野球部一本に打ち込む俺と違って、カズ兄は家業の手伝いに支障のないようにとボクシング部やら空手部やらあちこちを助っ人入部していた。
 野球部で一勝上げるたび、カズ兄は偉そうに「よくやった」なんて言う。
 その人の後姿を追いかけて、トラックのスタートラインに立つ。
 カズ兄は、正義の味方みたいだ。
 逞しくて、強くて、厳しくて、優しい。
 俺は喧嘩なんか真っ平ゴメンだけど、カズ兄は平気だ。
 カズ兄が喧嘩で傷を作って帰ってくるとき、その背後では必ず誰かが護られている。
 真似したいと思うのに、ふと気付けば俺は自分のことばかり考えてしまう。
 野球のことや宿題のことばかり。
 家業で忙しくしている母のことも、うるさい双子の兄のことも、海のことも忘れてしまう。
 どうしたら、あの兄のように、長い腕を持ってたくさんのものを囲えるのだろう。
 スタートの構え。
 俺が走るコースにはいつも兄貴の大きな背中が先行する。
 敵わない。
 いつか俺が、トラックを疾走する兄の背中の幻影を追い越したとしても、カズ兄は笑うだけだろう。
 やったな、なんて気軽に敗北を認める。
 だって俺は俺のことしか考えられないけど、カズ兄はそうじゃない。
「カズ兄には、敵わない」
 いつだったか、今はもういない母さんに聞いて欲しくて呟いたことがある。
 母さんは馬鹿ねと笑って、
「カズはね、お兄ちゃんだから、一生懸命人を助けてあげる子なの。四恩はね、自分のことに一生懸命になって、それを見た周りの人が幸せになれる子。お兄ちゃんと比べてなんかいないで、四恩がやりたいことを一生懸命頑張りなさい。四恩が野球がんばってるのを見ると、母さんも父さんも、カズだってドキドキして楽しくて、嬉しいの」
 焦燥感を紛らわす言葉をくれた。
 カズ兄が知れば、
「当然だろ。俺はお前の兄貴だぜ」
 そんな答えが返ってくるだろう。
 この世で一番強いのは、意地っ張り兄貴のプライドだと思う。


あとがき>兄にライバル心を燃やす末っ子は、実は長男大好きっ子。


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編4/7
「大月 元幸(父)」


 産婦人科に行ってきた妻が、隠しきれない喜びを言葉にしたのは夕食の時だった。
 双子なの。
 まだ目立たない腹部を撫でて、幸福そうに笑ってくれた。
「見分けつくかな」
 小学校中学年、生意気盛りに逞しさも垣間見せることが多くなった一臣が、心配そうにしている。
「女の子かなー。男の子かなー」
「男がいいよ」
「どうして?」
「女はメンドーくさい」
「ま、生意気っ」
 いつ生まれるの? 入院するの?
 他愛のない問いかけの中に、兄になる不安と喜びが滲んでいた。
 もう十年ほど前になるのか。
 一臣が朝子の胎内に宿ったのだと知った時、自分は単純に喜んだ。
 可愛くて、美しくて明るくて柔らかいこの女性と添うて、そうしてようやく一つの家庭を築くのだと思って嬉しかった。
 だが彼女は酷く怯えた顔をしていた。
 大丈夫かなと顔を上げた時、朝子は普段の快活さが嘘のような、迷子の子どものような顔をしていた。
 私、お母さんになるんだよ。大丈夫かな。育てられるかな。
 彼女の長所の一つが面倒見の良さで、民宿の仕事だって完璧にこなしている。
 中には子連れのお客もいて、まるで一人二人生んだ女性のような堂にいった手つきで赤ん坊をあやしていることもある。
 そんな子が、母親になるのを恐いというのが意外だった。
「だって、だってね、わたしが、よ? 私がお母さんになるのよ?」
 大丈夫かしらと、膝の上に置いた自分の手をじっと見ていた。
 意外さが、じわりと溶けて幸福を増大させる。
 責任をもって、覚悟をもって、愛情をもって、僕達は親になるのだ。
 不安はいつかきっと強い絆を持った家庭を作る。
「覚悟しよう」
「……かくご」
「僕達は親になる」
「はい」
「君は母親、僕は父親。二人合わせて、この子の親だよ」
 握った手は柔らかく、あたたかく、さらりとしていた。
 ずっとずっと、この手を繋いで。
 歳をとって、孫達に囲まれて、そんなこともあったわねと笑って。
 みんなでこの土地で生きていこうと覚悟したあの日からもう十年近くの時が経ち、君は二人目三人目が宿った身で幸福そうに笑う。
 母は、強い。


 四人の息子と、もう息子と呼んでもいい存在になっている甥とに囲まれた銀婚式。
 君の姿はないけれど、毎年結婚記念日には華やかな生花が仏壇に供えられ、ささやかな酒宴が催される。
 祝いの言葉は特に無い。
 男所帯はそろいも揃って照れ屋ばかりだ。
 それでも長男はぶっきらぼうに乾杯の音頭をとった。
「父さんが美菜浜小町をものにして美菜浜中の男を敵に回した日に、乾杯」


あとがき>大月家で一番すごいのはお父さん。


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編5/7
「大月 朝子(母)」


 伸びやかな手足はこんがりと日焼けして、そのあちこちに擦過傷やら打ち身やら、男の勲章が刻まれている。すぅすぅと健やかな寝息をたてる我が子の額には薄っすらと汗が滲んでいるが、ちょっと目を離すと冷たいものばかりガブ飲みするから、蹴飛ばされたタオルケットをおなかの上にかけておく。
 子守唄がわりに、縁側に吊るした風鈴が時折可愛い音を奏でる。
 生意気で意地っ張りで、人の言うことに一々逆らって見せるようになった。なんでも自分でできるのだと無茶をしがちで、そのくせ優しい一面をちらちらと垣間見せる一番目の子。
 ぶっきらぼうな顔して女房の手を引くのが美菜浜の男だと言われているが、一臣はまさに美菜浜育ちらしい芯を持って育っている。
 大の字に転がる長男の洗いざらしたタンクトップの裾は、小さな手にしっかりと掴まれている。ただでさえヨレヨレの遊び着がまた伸びてしまうと思いながらも、その小さな手を離してしまえないのは一臣の傍でくるりと体を丸めて眠る甥の寝顔があまりにも安らかだからだ。
 体がくっつかない程度の距離を保っているのは、単に暑いからじゃない。いじらしくなるほど遠慮する彼のこと、どんなに懐いている一臣にも心身を投げ出すように甘えることはできないのだ。
 だけど自分に一生懸命ついてまわる三つ年下の従兄弟を、一臣はちゃんと守ってあげる。春海春海と、くすぐったくなるような声で呼んで面倒を見ている。実は面倒を見られている場面の方が多いのだけど。
 ゆっくりと団扇で送った風が、子供達の柔らかい前髪を揺らしていく。
 もうすぐここに双子が加わって、あと何人足してみようか。
 賑やかな風景を思い描くと同時、姉の姿を思い出す。この縁側で二人、買ってもらった着せ替え人形で描いた小さな家庭。それが今、朝子にとっては現実になっている。
 姉にとってはどうだろうと、学校が長期休暇に入るたびに預けられる甥を見て思うのだ。
 甥の名前が春海だと知った時、この町を捨てて煌びやかな都会で暮らしてきた姉の心に、美菜浜の風景が根付いているのだと感じて嬉しかった。
 また厄介者を押し付けに来たわよと、春海の手を引いて故郷に戻り、わが子を置いて間髪おかずに踵を返す背中に失望した。
 過去を思い出せばそればかりが愛しくなる。
 今を霞ませないでと言うように、大きくなったお腹の中から訴えるような振動が伝わってきた。
 物思いから我に返って見上げた時計は三時を過ぎる頃。散々遊びまわった子供達が空腹で目を覚ますのももうすぐだ。
 台所に向かおうとした時、春海がもぞもぞと起き出した。
「あら、春ちゃん、もう目が覚めたの? これからおやつ作るからね」
 眠気を引き摺る目を幼い仕草でこすった甥は、一臣にも見習わせたい寝起きの良さですっかり覚醒したらしい。
「手伝っても、いい?」
 台所まで点いて来ると、控え目な申し出をしてくれる。
「いいの? 助かるわ」
「あのね、さっきね、カズちゃんに、コックさんになればいいよって言われたの」
「春ちゃんならきっとなれるわ。器用だもの。でもカズに言われたからって無理にしなくてもいいのよ? 春ちゃんは春ちゃんのしたいことをしなさいね」
「ううん。ぼく、おばさんの手伝いするの好き。お手伝いの中でね、料理が一番好きなの。それでね、コックさんになって、おいしいのが作れるようになったら、カズちゃんと栄月館のお手伝い、してもいい?」
 真っ直ぐに向けられていた琥珀色の瞳は、朝子の返事を待たずに床に向けられてしまった。
「もちろんよ」
 柔らかい髪の毛をかき混ぜれば、小さな体で精一杯に幸せを掴もうとしている甥っ子は花のように笑ってくれた。
 あなたが幸福に満たされる場所がこの町であればいい。
 この家であればいい。
 わが子の隣であればいい。
 輝く先を祈るばかりでも今は霞んでしまうけれど、願わずにはいられない。
「春ちゃんは、笑うと本当に可愛いわねぇ」
 けれど未来を築き上げるのは、今この瞬間、笑顔でいられる刹那の積み重ね。

あとがき>肝っ玉母さんの憂いと希望。


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編6/7
「大月 春海(従兄弟)」


 カズちゃんが、風邪をひいた。
 いつも、圧倒されるくらいのパワーに満ちた人なので、こうして病人ですと言う風で横たわられると例えそれが37度8分の発熱であろうが重病患者のように見えてしまう。
 それは本人にとっても同じらしく、体が思うように動かないとその苦痛は人一倍大きなものになるらしい。
「滅多に風邪なんかひかないから、慣れてないんだよ」
 ある朝、起き上がれないと訴える長男の様子を見た叔父さんは苦笑しながらそう告げた。
「……か、ゼ? ひいた、か? 俺が?」
 ぜぇぜぇと聞いている方が苦しくなるような息の下、それでも自覚がないカズちゃんは浮かせようとしていた頭を枕に沈めた。
「……心当たりが、ない」
「それは妊娠検査の結果を突きつけられた男のセリフだよ、カズ兄」
「二葉がその例えを口にするとシャレにならない」
「なんとかは風邪ひかないって言うのになー」
「四恩のソレもあんまり笑えない」
 通学直前、それぞれあまり時間に余裕があるとは言い難い状況なのに、弟達は律儀にも長兄の部屋へと弱った姿を拝みに来る。
「とっとと学校、行って、来いっ」
 それも気力を振り絞って一睨みされれば、一目散に逃げ出してしまった。
「ハルちゃんが看てくれるから安心だけど、あんまり熱が上がるようだったら若松先生のところに電話してくれるかい? あの先生なら面白がって往診に来てくれるだろうから」
 叔父さんもそう言い残して出勤した。
 言葉だけ聞けば心配しているように思えないが、鬼の霍乱にそれぞれ困惑しているのは事実だろう。みんながみんな、お弁当を忘れて行った。
「ちくしょ……、人の不幸を、楽しみやがって……」
 当のカズちゃんは毒づく声にも力がなく、ゴホゴホと重い咳をつく。
 普段が健康すぎるほど健康で頑丈な分、体の不具合に苦しむ姿は見る者の不安を駆り立てる。弱ったところを見せたがらない人だから、こうして起き上がれない状態を晒しているのは本当にしんどい証拠だ。
「大丈夫? 若松先生、電話しようか?」
 額に貼る冷却シートを半分剥がした状態で聞いた声は、自分が思っていた以上に不安いっぱいの声になった。気だるげに見上げてきたカズちゃんは、らしくなく潤んだ目をふっと和ませて苦笑した。
「熱は、大したことないんだ。だいじょーぶ」
 ぺちりと、景気付けでもするように頬を軽く叩いた手の平はいつもよりずっと熱いのに、人の不安を拭おうと強がるところは変わらない。
「お粥、食べられそう?」
「おぉ、食うぞ」
 食欲はないだろうに、食べないと回復しないからと自分に言い聞かせている。
「……ほんと、カズちゃんって……」
 こういう時くらいは、素直にしんどいと言って、へばってくれればいいのに。
「なんだよ」
「意地っ張り」
 ひんやりしたシートを汗の滲む額に貼り付けてやった。

 お粥を作って部屋に戻ると、病人は布団に包まって大人しくしている。
 三十路目前まで生きてきて、こうして寝込むほど具合を悪くしたことは数えるほどしかないんじゃないだろうか。
「カズちゃん?」
 眠ってしまっただろうか。こっそり声をかけると、ぱちりと目が開いた。
 ずびっと鼻を鳴らして寝返りを打ち、のろのろと起き上がろうとする。
 その背中に自分の折りたたまれたままの布団を挟んで支えにして、レンゲに掬ったお粥を吹き冷まして差し出すと、カズちゃんは目を丸くしてされるがままに口を開いて一口食べた。
 二口目を出すと、視線をちらりと寄越しながらも大人しく口を開ける。
「さっき、幸太君が来たよ。差し入れって、烏賊とアサリ持ってきてくれた」
「それを、病人に食わせろってか」
「ううん。弟達に食べさせろって」
「ありがたくて、涙が出る」
 カズちゃんの親友は、
『カズが強がるようなら、先手を打って春海が思いっきり甘やかしてやりゃいいんだよ』
 魚介と一緒にそんなアドバイスも差し入れしてくれた。さすがに有効。
 お粥が半分になったところで、ご馳走様を言われた。薬を口に放り込むようにして飲んで、俺に背を向けるようにまた横になる。
 向けられた背中に、ポン……ポン……とゆったりしたリズムで手を置く。子どもを寝かしつけるような仕草に、カズちゃんが困ったように仰向いて参ったと小さく呟いた。
 今度はこちらに寝返りをうってくれた。
「……春海……」
 か細い声で呼ばれて、きゅぅっと胸が締め付けられた。
「はい」
 汗で湿った髪を梳くと、照れたように視線を彷徨わせて、結局そのまま目を閉じてしまった。
 安心、してくれたのかな。
 昨日の夜から具合が悪かったカズちゃんは、夜中に魘されていた。カズちゃんにとって、最も辛い記憶を悪夢として見たんだろう。堪りかねて起こした俺の、朝子叔母さんに似ていると言われる顔を見て驚いていた。
 辛い夢を見ないように、俺が小さかった頃に朝子叔母さんがしてくれた、子どもを寝かしつけるためのリズムでポンポンと布団を叩く。
 寝顔に苦痛の色はなく、安らかなもので安心した。
 みんなのヒーローを、俺だけが甘やかすことができる。この喜びを簡単には与えてくれない。
「意地っ張り」
 もう一度呟くと同時、にゅっと腕が伸びてきた。驚く間もなく布団の中に引きずり込まれ、熱い胸の中に囲われてしまった。
「もっと、甘やかしてくれよ」
 苦しい息に笑いを含ませる俺の大好きなヒーローは、ほんの少し性根が曲がっている。


あとがき>長男の甘えっこ気質を引き出せる唯一の存在。


■ルーツ・コンプレックス小咄 大月家編7/7
「大月 一臣(長男)」


 ぐるりと巻いた包帯をきつく縛り留める。白い包帯に包まれた手を握って開くを繰り返す。動きを制約することなく、ダメージだけを和らげるために巻いた包帯。
 顔を上げると幸太がいいかと目で問いかけてくる。頷き、もう一度拳を作って開く。
「痛てぇのは、ゴメンだなぁ」
「無理な注文だろうな。あっちは二十人くらい集まってるらしいぜ」
「肝心の井川は来てるか?」
「来てる」
「なら作戦決行だ」
 よしと防波堤の影から立ち上がる。
 眼下に広がる砂浜には強烈なヘッドライトの閃光が縦横無尽に走っている。波音を掻き消すエンジン音にクラクション。
「おう、来てる来てる。しっかし、うるせーな」
「彼らは世の中に抵抗してるんだよ。言葉が上手く見つけられないから、あぁやってバイクのエンジンを響かせるわけ」
「なるほど、同じ理由で幸太はボロ舟のエンジンを軋ませるわけだな。広い海の上を走る分、被害はなくていいやね」
「ほっとけ。カズだって言葉が上手く見つからない人だからこれから拳で会話をするわけだろうが」
 毎夜毎夜、美菜浜の浜辺はバイクと暴走少年達に占拠され、波音が届かなくなってしまった。
 月夜の砂浜を散歩することもできないし、ならばと朝を狙って出てみればジャンクフードの食べカスとそれをつつくカラスの群れに出くわすだけ。
 こりゃあいかんと結成された住民パトロール隊が返り討ちにあったのが春先のこと。
 親父達には任せておけんと高校卒業を待って機を待って、誰もが活気を得る夏。じわじわと浜辺が騒がしくなってきた。
 地元に残った友人達の顔を見渡せばどいつもこいつも頷いて、夜の浜辺。
「やべぇと思ったら手ぇ出すからな」
「死なないうちに助けてくれよ」
「まぁ、お前は負けねぇだろうけど」
「俺らの出番はなくても、説教は一緒に聞いてやるぜ、カズ」
「あたりまえ」
 半端に太った月の下、砂を踏む。
「こーんばーんは」
 心地よい月夜の乱痴気騒ぎに水を差す乱入者に、集会は殺気立つ。
 先制攻撃と言う責任は箔付きの悪を全身全霊で自称して歩く先方に譲って、俺もようやく拳を固める。
 久々に他人の体を殴りつけた感触と衝撃に、背筋がぞわぞわと震えだす。
 腹に重たいものが湧き出て、重心を沈ませる。馬乗りになって人の顔を殴りつけることへの躊躇いも吹き飛んで、消えろと願う。
 消えろ、消えてしまえ。
 ざわざわと、生まれ育った町を不穏に揺らす原因。
 ここは俺達の縄張りだ。踏み込むな。来訪者は、自分のものを奪っていく。
 返せと思うままに振り上げた拳が、横から伸びてきた手に止められた。別の体が自分の上に圧し掛かってくる。砂上に顔面を押し付けられる、暗い視界の中に一度だけ見た教師の姿が浮かんできた。
 大人の男の腕に囲われた従兄弟の、自分の知らなかった横顔が。
 もう随分と、会っていない。もう二度と、会えないかもしれない。
 ちくしょう。
 叫びだしたい衝動を噛み締め四肢を跳ねさせる。
 起き上がったらそこは既に乱闘で、怒声が轟々と聞こえてくる。
 八つ当たりだったなと頭の片隅で冷静な自分が呟く声が聞こえたが、こうなってしまったものはやるしかない。
 仕方ねぇよな。
 この町には目を奪うほど綺麗な海と砂浜があって、美味い飯食わせる場所がたくさんあって、とびきり活きのいい魚があがって、由緒正しき神社もあって、誰もが訪れたくなる魅力に溢れている。どいつもこいつもこの町に来たくて仕方が無い。そういう町を、自分達が作っていくんだ。そういう覚悟を決めたんだ。
 この町にとって一番の臣になれとつけられた、この名前に相応しい男になれるように。
 パトカーのサイレン音が妙に近くに聞こえる。あれ?と思った時には顔見知りの駐在署員の背負い投げを食らっていた。
「こんの、馬鹿たれが!」
 思いつめて突っ走って、それが間違いだとしてもこうして怒鳴ってくれる人たちがいる。
 守ってるつもりで守られて、過剰な自意識ごと抱きしめてくれる人もいる。
 同じ目線でものみて熱くなって冷めて、同じ時間軸で生きてくれる仲間がいる。
 自分に恵まれたものを指折り数え、
「カズちゃん」
 どこかでひっそりと吐息のような声で自分を呼ぶ従兄弟の不在に指戻す。
 この先、何を壊したって何を大事にしたって何を頑張ったって、どう祈ったって。
 彼を取り戻すことは、できない。

あとがき>長男のやんちゃ時代。喪失感が満たされるのはもう少し先のこと。


2009年夏〜秋のWeb拍手お礼SS

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