サンクチュアリ



 久しぶりだなぁと野太い声が受話器から聞こえてくる。
「……お久しぶりです」
 つい背筋が伸びて慎重な声が出たのを、電話を渡した春海が不思議そうに振り返ったが、これは条件反射なので仕方ない。
 電話の相手は高校時代の恩師だった。
 片手間に在籍していたボクシング部の顧問で、今では一発で問題になるような鉄拳制裁を何度も食らった覚えがある。
 背筋が伸びるのはそんな肉体的な痛みを思い出してのことではなく、そうやって振り下ろされた拳に打ちのめされたからこそ今の自分がそれなりの大人になれたと言う自覚があるからだ。当時は相当の反発をしたし抵抗もしたし、随分とみっともない部分を晒してぶつけていた。だからこそ、当時の振る舞いが恥ずかしく、面映い。故の敬語だ。
 きっと顔を会せれば、「垣内センセー老けたねー」くらいのことは笑って言えるのだが。
『お前、今、暇か?』
「えー、やー、ちょっと、忙しくしようかなと、思ったところです」
『手が空いてるなら久しぶりに母校に顔を出さないか?』
「今からですか?」
『まぁ、お前じゃなくてもいいんだが、保護者が迎えにこないことにはうちも問題児を帰宅させるわけにはいかんからな』
「……は?」
『身元引受人になる気分を知るのも一つの勉強だろう。まぁ、早く来てやってくれ。四男坊が待ってるぞ』
 電話は切れた。
 そうして一臣は思い知る。問題を起こしては学校から家庭へと引き渡される子どもを迎えに行っていた親の気持ちを。ガクリと肩が落ちる脱力感を。


 四恩が何かやらかしたらしいから迎えに行ってくると春海に外出の理由を端的に伝えると、春海は明らかに動揺して不安を満面に浮かべた。
 赤点?留年?落第?などと不吉な単語を並べるのに、その方が楽な問題だっただろうと思う。違うらしいと応えれば更に不安そうにしていた。それを置いて家を出て、生活圏内にあるがために懐かしくもなんともない母校の校門前に立つ。
 放課後の雰囲気が渦巻く高校に、部外者として立つことの居心地の悪さを味わうことになろうとは思わなかった。
 二階にある職員室の、隣の部屋。小さな窓。そこが生徒指導室で、一臣は何度もそこに押し込められたことがある。
 思い返せば酷いもので、入学して三ヶ月目で喧嘩をした末の謹慎処分を食らったのを切欠に、高校三年間の春夏秋冬一回ずつはあの部屋に呼び出されていた気がする。母も父もよくぞ懲りずに迎えに来てくれたものだ。
 一臣があそこに呼ばれた理由のほとんどが喧嘩で、擦り傷や打撲で汚れた仏頂面でいた自分を迎えに来た母は、息子の頭や背中や尻を叩きながら教師陣に神妙に頭を下げていた。時には父が何を考えているのか掴みにくいほど穏やかな表情で迎えに来てくれたこともある。
 けれどどちらも、帰り際には必ず一臣の手を握った。
 おそらくは示し合わせていたのだろう。嫌がる一臣の手をしつこくとって、ぎゅっと握り締めていた。
 友人達にニヤニヤ笑われながら帰るのはかなりの苦痛であったのだが、学習能力が乏しい自分はまた同じ過ちを繰り返し、親に手を引かれて帰途につくのだ。本当に、今思えば愚かしい。
 しかし、四恩は馬鹿だが自分のような愚かさを持っていないと思っていた。
 弟達の中で、性格的に自分に一番近いのは四恩だ。負けず嫌いで嬉々として勝負事に挑む。不器用で、力を持て余している。
 けれど四恩は野球と言う真っ当なスポーツに巡り合いのめりこみ、周囲が呆れるほど打ち込んでいる。滾る力のぶつけどころを得ている。
 自分が四恩と同じ歳の頃は自由に遊びまわることに夢中で、美菜浜の隅から隅までを駆け回り、海に飛び込み、高校生になってからは気まぐれにグローブをはめてリングに上がってみた。何か一つに情熱を傾けると言う辛抱強さが欠けていた。だからこそ、一心不乱に素振りを繰り返し、白球を追いかける末弟が眩しくもあり羨ましくもある。
 成績は劣等生だが、それを除けば真面目でひたむきな、可愛い生徒であることは間違いない。
 校内で同級生を殴ったと言う四恩の行動は、とても彼らしくない。
 明るく天真爛漫な性格だ。友人も多く、チームメイトとの仲も良いと保護者達は思っている。
 だからやっぱり、不可思議な事件だ。




 来客用のスリッパに足を突っ込んで、久しぶりの校舎に踏み込む。
 いい生徒ではなかったが、それなりの卒業生にはなった気はしている。地元のために駆け回る一臣の行動は教育現場も時に巻き込む。
 夏休みに若年会主体で開催する大肝試し大会の折には、この校舎を借りて無理を押し通している。
 頑張るねぇと面白そうに眺められたり、時には迷惑そうに顔を顰められたり、あんな大人になりなさいと身に余る言葉を生徒にかけるのを聞いたこともある。
 職員室に顔を出せば見知った教師達に会釈をされる。自分が生徒であった頃の教師はもう電話を寄越した垣内以外には残っていない。あとは社会人になってから、地元有志として関係を築いてきた職員だ。
 勝手知ったる我が母校。生徒指導室のドアをノックする。そう言えば職員室でもこの部屋でも、ノックして入室するようになったのは卒業してからのことだ。
 来たかと野太い声がするのでドアを開ければ、傾きかけた日の光がブラインド越しに差し込む狭い部屋が広がった。
 入り口に背を向けていた中肉中背の壮年が振り返り、一臣の姿を認めておうと手を挙げた。
 そこに末弟の姿はない。
「まぁ、入れ」
「しつれいしまーす」
「どうぞおかけください」
 にやにやと厳つい顔に笑みを湛えて、垣内は奥のパイプ椅子を勧める。そこがかつての自分の定位置だったことを思い出して、踏み出す足がぎくしゃくする。
「身元引受人になった感想は?」
「これ以上反省したら前に進めなくなりそうです」
「そりゃ困る。まぁ、あんまり苛めないでおくか」
「俺の可愛いかわいーい弟は?」
「反省中だ」
「まぁあいつはしこたま反省すりゃいいんですが……」
 軽口を叩きあって改めて垣内の顔を見る。
 もうすぐ定年退職が近いはずだ。絵に描いたような熱血漢で当時は散々反発もしたが、それでも自分はこの教師が嫌いではない。
 若い女性教師がお茶を運んできた。自分よりも年下だろう若い子が先生をしているのかと改めて自分の年齢と立場を認識する。
「何が、原因だったんですか?」
 短気ではあるけれど、決して人を傷つけようとすることのない拳が何に耐えかねたのか。
 問うと、垣内は目を細めた。
 愛しいものを見る目だ。
 時折こんな風に微笑まれて、その時だけはこの教師に悪態をつくことができず、だけども直視することもできず、ただ鼻を鳴らして背を向けて、信じぬようにした。
 それが生徒と言う生き物の習性だったので。






 末弟は、学校の茶室に軟禁されていた。
 唯一の和室であるその部屋の障子を開くと、そこには和服姿の妙齢の女性と制服姿の女子高校生に囲まれた四恩の姿があった。借りてきた猫状態で顔も体も強張っているのが見ただけでわかる。
「こんちわ。お邪魔します」
 声をかければ、女子高校生から黄色い声が上がった。その中で四恩は驚いた顔をして、その後は不機嫌そうに口を結んだ。
「あら、カズくん。お迎え?」
 妙齢の女性は美菜浜観光協会の協会長の奥方で、そう言えばナントカ流のお茶の先生をしている。高校の茶道部にも協力しているのだろう。仕置きとして突如放り込まれた問題児にもしっかり指導をしていたらしい。四恩の手元には抹茶茶碗が一つ。
「最近の生徒指導はレベルが高いねぇ。俺らん時は垣内っちゃんの拳骨だった」
「今は訴えられるからなー。俺も真正面向き合って生徒を叱れなくなったよ。でかい声を出そうと思ったら、後ろの親が見えるんだ。つい小声にもなる」
 一臣の背後からついてきた垣内が腹の内を明かせば、うそだーと茶道部員がコロコロ笑う。
「反省したか? 僕ちゃん」
「しません」
 苦笑しながら垣内が問いかけたのに、即答が返った。その瞬間、女子部員達がぴりりと緊張したのが一臣にも伝わった。かつて垣内は校内で最も恐れられた教師だったが、それは今も健在なのだろう。先ほどの言葉に少しばかりがっかりしていた分、この緊張感に嬉しくなる。
 そしてその教師に向かって牙をむく弟の態度も。
「お前が悪いんじゃないからか?」
「はい」
「何一つ?」
「……先に、手を出したのは、悪かったんだと思います」
「反省は?」
「あっちが口を出さなきゃ俺も手を出しませんでした」
 ぶはっと耐え切れずに一臣は噴出した。せっかくの緊迫感を破ってはいかんと我慢していたが、堪え切れなかった。垣内に軽く脛を蹴られながらも、肩が震えるのを止められない。
「くそガキが」
「先生、それこそ訴えられますよ?」
 奥方が上品に笑いながら嗜めれば、
「訴訟を怖がってちゃ教師は務まりません」
 今度は垣内の方がきっぱりと返すものだから、一臣の笑いは酷くなる。
 ひどいやりとりだ。
「四恩」
 笑いを納めて名前を呼べば、今度は末弟が張り詰める。
「謝れ」
 短い言葉に四恩は無言で抗う。
「謝れ。この先生に」
 四恩が顔を上げた。
「お前をどうしてやったらいいのか、一生懸命に考えてくれてるんだ。今日の仕事が終わっても、この先生は一晩中お前のことを考える。老体の肝冷やした分は、ちゃんと謝っとけ」
 老体は余計だと一臣の脇を小突く声は僅かに上擦っていた。
「……心配かけて、すみません、でした」
 そして追い討ちをかけた素直な謝罪に、垣内は慌てて背中を向けていた。
「反省したんならよし。今日から三日間は謹慎だからな。さっき言った注意事項を守って、反省してろよ」
「はい」
「なら、帰ってよろしい」
 教師の責任だけは果たして去って行ったが、動揺した証拠に問題児を押し付けた茶道部師範に礼を言うのを忘れている。けれども彼女も気にした風もなく、クスクスと笑って見送っている。
「四恩くん、もういいわよ。立てるかしらね?」
 にっこり顔を覗き込まれるのに首を傾げながら、四恩が立ち上がろうとする。一体どれくらいの時間この部屋に入れられていたのか知らないが、四恩の体は膝から下が縫いつけられたようになって、上半身だけが前のめりに倒れた。
「大月君、だいじょうぶ?」
「足、痺れちゃった?」
 茶道部員の可愛い気遣いに応えることもできず、むにむにと表情を妙ちくりんに歪めている。
「大丈夫ー?」
「……、平気。だいじょうぶ。ごめん、邪魔した。帰る」
 一臣は、這うようにやってきた弟の脇腹に手を引っ掛けて、ひょいと担ぎ上げてみた。
「うわぁああ!?」
 驚いて動こうとした四恩の体は痺れのために思うようにならず、おまけに和室の低い欄間に頭をぶつけ、ゴンッと言う鈍い音を響かせる。
「大人しくしとけよ。こうやって帰宅するのが大月家の風習なんだから」
「嘘つけ! いいからっ、降ろせよ! 恥ずかしい!」
「これ以上暴れると、後が怖ぇぞ? 四恩」
 低く脅せば抵抗はぴたりと止んだ。
 正直、すくすく育った男子高校生の体を担ぐのは楽ではない。だが手を繋ぐよりはよほどましなので、せめて校門まではと意地を張る。
「あ、カバン忘れてる」
 大人しそうだが地味と言うよりは美人な印象が際立つ少女が、隅っこにおいてあった四恩の野球部揃いのスポーツバッグを渡してくれた。
 四恩は一臣の肩から渋々それを受け取ったが、途端にずしりと肩が軋む。
「重いんだろー。降ろしてよ」
「痺れがとれたら速攻で言え。それまでは担いでやる」
「どんな意地なの、それは……」
 ぐったりと生意気にも疲れた風を装って、カバンを渡してくれた女の子に素っ気無い礼を告げる。
「お前、足、痺れてないの?」
「慣れてるから。また遊びに来てね」
「遊びに来たんじゃないんだけどな」
「今度はお菓子、出してあげるね。あ、今度、春海さんに料理教わりに行ってもいい?」
「おう」
 なんだ、この甘酸っぱい会話は。
 兄の肩に担がれた男子高校生は幻滅対象にならないのか。女の子の声は甘く丸く、少しばかりのぞく姐さん風が可愛らしい。
 バイバイと四恩に手を振って、一臣にはちょこんと頭を下げる。その拍子に耳にかけた長い黒髪がサラリと零れる様なんかはキュンとする。こう言う子が義妹になるのなら大歓迎だ。是非とも末弟には頑張ってもらいたい。
 しかし既に兄と勝負する気は失せたのか、ぐったりと担がれたままでいる。
 校内ではそりゃあ目立った。
 職員室に顔をのぞかせると、教師達は目を丸くして、垣内だけが瞬間的に噴出し、やがて室内はのどかな笑いに包まれた。
 四恩の仕出かした校内暴力は、この職員室にそれなりの緊張感を生んでいたのだろう。
 三日後の出頭を約束して玄関を出たところで、四恩が再び抵抗を始めた。
「もういいよ。重いんだろ。こんなんで肩壊したら笑い話にもなんねぇし」
「重くねぇって言ってんだろ」
「カズ兄って、ほんっと、びっくりするくらい馬鹿だよな!」
「あぁん?」
「いいから、降ろせよ! ちょっとだけ。部活、謝って来ねぇと……。迷惑かけるから」
 グランドに出る前、まだ校舎の影になる部分で降ろしてやると、馬鹿力だとかぶちぶち文句を垂れていたが、制服の裾をざっと整え、ちょっと待っててと告げて走り出した。
 その背を視線だけで追うと、グランドの脇で練習をしている野球部の群れに突っ込んでいく。四恩の姿を見て自然と集合した部員達に囲まれて、四恩は直立不動で短い言葉を喋って、頭を垂れた。
 おぉ、格好いいな。
 素直にそう思える景色だった。彼は大切な仲間達に対してなら、自然と頭を下げることができるのだ。
『ねぇねぇ、四が付く言葉で良さそうなの、ない?』
 お腹に手をあて、辞書を捲りながら母が自分に問うてきたことがある。
 一臣、二葉、三咲と、呆れるほど単純に連なる数字を冠する兄弟に新たな数字が加わるとわかった晩のこと。
 不吉ともされる四の字にどれだけの愛情と希望が込められるだろうかと、両親は相当頭を悩ませていた。
 四葉のクローバーでいいじゃないかと安直な案を出したのだが、二葉と被るからダメだと却下された。葉の字を温存しておくのだったと揃って嘆く親達は、「しー」「よんー」と念仏のように唱えて続く文字を探していた。
 やがて「紫苑」の花の響きを引っ張り出してきて、そこに「恩」の字を当てた。たくさんの恵みと慈しみを浴びて、すくすく育ち、いつかはそれを返せる人になりますように。
 自分に注がれる愛情を、当然のものと飲み込まず、噛み締めて味わって、そうして立っている子になりますように。
 この姿は、はるか空高く雲の上から見守る眼差しに捉えられているだろうか。
 四恩を囲むチームメイトは赦すように四恩の肩を叩いて、出来た輪からは笑い声が聞こえてきた。
 全ては貴女の思い通りに。



「何発殴った?」
「一発」
「当ったのか」
「避けねぇんだもん。鼻っ柱に当ったから、鼻血が出て大騒ぎになった」
「へぇ」
「うちの常識は他所の非常識だって、わかった」
「いい勉強になったじゃねぇか」
 むすりと口唇をへの字に結んで、四恩は助手席で黙り込む。
 喧嘩が起きたのはホームルームが終わった直後のことだったと、垣内は一臣に教えてくれた。
 四恩が突如、クラスメイトの胸倉を掴んで立ち上がらせたかと思うと、一発顔面にパンチを炸裂させた。教室から立ち去りかけていた担任が血相を変えて四恩を羽交い絞めにして喧嘩は終わり。喧嘩とも言えない一方的な事件の原因を、四恩は垣内に問われても喋らなかったそうだ。殴られたクラスメイトも話したがらなかった。ただ、自分が余計なことを言ったのだと、それだけ吐露したらしい。
 結局、周囲からの証言でばれた。
 きっかけは、クラスメイトが一臣と春海のことを揶揄したせいなのだと、垣内は言い難そうにしながらも打ち明けた。
 兄と同性である従兄が恋人関係であることを指して男夫婦だとかなんだとか。まぁ、春海には聞かせたくないような内容を悪意を持って囁かれたのだろう。我慢を知らない末っ子が切れた理由だ。
「だけど、うちの常識を、他所の奴にとやかく言われる筋合いもないだろ」
 ぼそり落とされた呟きに一臣は苦く口元を歪ませる。
 彼には彼の理屈と正義があり、彼よりも多くの年月を生きた自分には口を出してもどうしようもないことがある。
 十代には、どんなに大人が咎めて諭して宥めても、聞けないことがある。
 だから言い方を変えてみる。
「春海にはなんて説明する?」
「え、それは、兄貴が言ってよ」
「お前が仕出かしたことだろ」
「だって、カズ兄のことを思ってのことじゃん。褒めてフォローするのが兄貴の役目だろ」
「馬鹿野郎。てめぇの尻くらいてめぇで拭え」
「だって、なんて言ったってハルは心配するじゃん」
「だな」
「……だから……」
「だから?」
「……自分で、言うよ」
 導く、と言う行為は難しい。それと悟られることなく、標をそっと落としていくことは。
 おそらくは母も苦手だったのだろう。大きな声で怒鳴られれば怒鳴られるだけ、子供達の心は固くなって言葉を受け入れない態勢をつくってしまう。
 これが得意なのは、父だった。その父は、学校に到着する前に連絡を入れると相手先への謝罪役を買って出てくれた。それも父の得意分野だろうから、任せておく。
 国道沿いを快走する車内で、四恩は黙り込んだ。おそらくは頭の中で、春海に対する説明文を考えているのだろう。
 自分とよく似た気質を持つ末弟は、十四歳で母を失った。
 その幼さを誰より心配しているのが春海で、どこかで母親代わりを務めなければという義務感も背負っているのかもしれない。
「……。泣かせるなよ」
 助手席で、だいぶ広くなった肩がびくりと揺れて固まった。



 家が近付くにつれて緊張しはじめていた四恩の首根っこを捕まえて、そわそわと帰りを待っていた春海の前に突き出した。
「今日から三日間、自宅謹慎だ。しっかりこき使ってやれ」
 春海は一臣の表情を窺い、次に四恩の顔を覗き込んだ。既に四恩の背丈は春海を越えているから、以前のように俯いて誤魔化すことができない。
 暫く兄弟の表情を比べていた春海は、何度か口をパクパクさせて結局閉じてしまった。
「おかえり」
 代わりに伸びてきた手が四恩のスポーツ刈りの頭をやわやわと撫でて、笑った。
「……ただいま」
 応えに滲んだ後悔は、一臣の舌先にもじわりと伝わってくるようだ。
「宿題、いっぱい出たんでしょ? ご飯までに、ちょっとでも片付けなよ」
「……うん」
「洗濯物、出しといてね」
「うん」
「反省文の書き方なら、カズちゃん詳しいから」
 四恩はもう一度頷いて、するりと春海のての下から抜け出て家に上がっていった。
 それを視線だけで見送って、春海が小さな小さな溜息をついた。
「お前はお袋よりもよっぽど子育てが上手なんじゃねぇか?」
「なんで?」
「お袋は、ガミガミうるさかった」
「四恩は大人だから、俺に気を遣ってくれるんだよ」
「そうかよ」
 今度は一臣が春海の頭を撫でる。指に柔らかな髪の毛が絡み、離れていく感触を楽しんで、逡巡して、口を開く。
「友達にな、俺とお前が男夫婦だーとか、からかわれたんだと」
 押し付けたはずの説明を結局してしまっているのは、四恩を信じなかったからじゃない。
 俯こうとする頭を無理矢理仰向けさせて、
「あいつは相手を一発殴った」
 罪悪感や悲しみで揺れる琥珀色の瞳をしっかりと覗き込んで言葉を続ける。
「俺とお前が一緒にいることは、人類のためにはちっともプラスにならないけど、世の中のためにはなってるって、そう言ったんだと」
 四恩が春海に上手く説明できるかどうかを信じなかったから、今口を開いているんじゃない。嬉しくて、伝えたくて、口を開いている。
「婚姻関係にもならないし、子どももできない。子孫を残せない。だけどな、俺はお前と一緒にいれば頑張れるし、お前も俺といれば楽しげに笑って仕事ができる。だから、十分美菜浜の役に立ってるから、いいんだってよ」
 あの馬鹿がよく思いついたよな、こんな啖呵。
 くつくつと笑い混じりのそれを春海が飲み込むまでに数秒。ぱちりと瞬いた瞳がじわっと潤み、くしゃりと笑った。
「――そう」
 感極まったように一臣の胸に飛び込んできて、ぎゅうぎゅうとシャツを掴み体を揺らす。
 悶えるような仕草に一臣も笑いが止まらない。
「反省させるのに、茶道部のお茶会に放り込まれてたんだ。そこに可愛い女の子がいて、ちょっと四恩に気があるみたいだったな」
「知ってる。イチカちゃんって言うんだ。バレンタインにチョコもらってた」
「マジでか」
「四恩もね、好きなんだよね。ホワイトデーに庭の花持ってったんだ」
「……可愛い子だったな」
「でしょ? 大人しそうだけど、ちょっと積極的。お嫁さんに来てくれたらいいな」
「そういや、そのイチカちゃんもお前のこと知ってたな。今度、料理を教わりたいとか言ってた」
「仲良しなんです」
「大月家は安泰だな」
 にっこりと笑い自分を見上げるその顔に、気付かれぬように安堵する。
 繊細なようで、案外こいつは欲深く図太く豪胆なのだ。
「頑張らないとね」
 自分の胸元から顔を上げてにっこり笑う春海の髪を、くしゃくしゃをかき乱す。
 子どもと接する一臣の姿を見て申し訳なさそうに表情を曇らせていた春海が、ここまで開き直ってくれるまで随分かかった。触れたくない話題に敢えて触れて、何度も話し合い、気持ちの折り合いをつけてきた。
 確かに子どもは好きだし、自分の子ができたらと思うことはある。あるけれど、それが叶うことで春海を失うことになるのなら、そこに折り合いをつける。様々な人たちの手を借りて大人になった自分が見つけた生き方の一つだ。
「俺は、四恩に……、二葉にも三咲にも、甘えてるね」
「甘えてやれ。あいつらは、そうしてやった方が喜ぶし、手っ取り早く大人にもなる」
 あいつらも十分甘えてると付け足せば、一つ頷き体を離す。
「さぁ、今日はお祝いだ」
「なんのだよ?」
「四恩に箔がつきました記念!」



 夕食には、四恩の好物がずらりと並んだ。ボリュームある食事なのはけっこうだが、晩酌がし難いメニューでもある。
 いつもより少し遅い時間に帰宅した父の手には美味いと評判の和菓子屋の紙袋があった。四恩が殴った同級生の家に謝罪に行くと言っていたから、てっきり父が持参したものが突き返されたのかと思ったが、逆に相手側から貰ったらしい。どういったやり取りがなされたのか、聞いてみたい気もするが、いつも通りニコニコと笑う父を見ていたらどうでもよくなった。
 父は四恩のバツが悪そうな顔を暫く眺めて、心臓が縮んだよと笑った。実に嘘くさい。
 家庭での指導がされたのかされていないのか、和やかな夕食を終え、風呂から上がった一臣は居間に立ち入る前に挑発的な光景を発見して思わず足を止めた。
 居間のテーブルに帳簿を広げた春海が一臣に背を向けるように座っており、その背中に自分とよく似た体格のものがへばりついている。
「なんで怒んないの?」
 随分と甘ったれた声を出す四恩に懐かれながら、春海は電卓を叩いていた。
「反省してる子を叱るのは逆効果なんだって」
「育児書でも読んでんの?」
「この前のPTAの集まりで聞いた」
「……反省、してねぇから」
 ぎゅうぎゅうと背後から春海を抱きこんだ状態でその肩甲骨辺りに額を押し付け、四恩は往生際悪く言った。一臣が入浴している間に、事情を自ら説明したのだろう。
「そう?」
 軽く流してしまう春海の返事が不満なのか、顔を上げ、肩に顎を乗せる。
「ハルミが嫌な気持ちになるなら、反省する」
「そんな反省の仕方はしなくていいです」
「ちゃんと育ててよー、俺のこと」
「育ってるじゃない。四恩は。カズちゃんの教育を受けてスクスクと」
 高校に上がってから、四恩は春海をハルミと呼び出した。それまではハルと愛称を呼んでいたし、双子もずっとそう呼んでいる。四恩だけが、長兄に倣うようにハルミと呼ぶ。
 それを一番に指摘したのは三咲だった。宣戦布告でもされたの?などと茶化すように尋ねてきた。
 十歳も年下の従弟に呼び捨てにされることを春海本人は気にしない。だから一臣も指摘しにくい。呼び名一つ自由にさせないことは、あまりに狭量なことに思えたので。
「俺さー」
「んー?」
「ハルミがうちに来てから暫くの間は、またハルミ、どっかに行くんじゃないかって心配だった」
 背後から眺めていた一臣には、四恩が春海を背後から抱きしめる腕に力がこもったのも、その視線がちらりと仏壇の遺影を向いたのも見てとれた。
「でも、もう、どこにも行かないんだろうなって思ってるから、大丈夫」
 いつまでも幼いと思っていた末弟は、幼いなりに大好きな従兄の心情を計り、守ろうとしていたのかもしれない。
 春海が美菜浜を訪れなくなったきっかけを、恐らく四恩は朧気にしか知らないはずだ。それも言葉で聞いたのではなく、一臣と春海の間にある空気を嗅いで察したのだろう。
 誰より敏感に二人の間にある気持ちの流れを観察し、不安になり、今は安心していると言う。
 心配をかけたとは一生言ってやれないだろう一臣は、目の前の抱擁を許してやる。
「いかないよ。いけないし、いきたくもない。だから四恩は、もう少しの間、俺に面倒見られてね」
 ことりと春海が首を傾けた。それが四恩の額に触れる。触れて、甘えさせて、信じていると伝えて、慈しみが四恩に降り注ぐ。
 自分には、そういう触れ合いをしてやることができない。父の役割もまた違うだろう。
 そして四恩の役割はまだ未熟な従弟であることを理由に、春海から愛されることなのかもしれない。
「ひゃっ、わっ! し、四恩!」
 末弟の成長に思いを馳せていた一臣の思考を引き戻したのは、春海の慌てた声だった。
「ちょっ、何してんの! 怒るよ!」
「あまえてんのー」
 四恩の腕が不穏な動きを見せている。
 仕舞いだと居間に踏み込み、四恩の首根っこを思いっきり引っ張ってやる。
 驚愕に目を見開くその額に自分の額を思い切りぶつける。互いに石頭なのは承知なので、一臣の視界にも僅かながら星が散った。
 だがそれ以上のダメージを食らった四恩は、頭を抑えて畳みの上を転がっている。
「カズちゃんっ、手加減して!」
 兄を咎める春海の声が留めをさす。
「調子に乗るからだ」
 足で四恩を押しのけて、それまで四恩が座っていた場所に腰を下ろす。
「俺が止めなきゃ、どうするつもりだったんだよ? イチカの予行演習か?」
「ばっ、なんでそこであいつが出てくるんだよ!」
「ありゃ? 付き合ってるわけじゃねぇの?」
 春海に向かって問うと、シャツの裾を押さえたまま春海は苦笑して首を横に振った。
 明確な答えは互いに出さぬまま、曖昧でくすぐったい関係が続いているらしい。まぁそれも悪くはないだろう。何せ末弟は青春の真っ只中。時間はある。
「根性なしめ。お前は俺の弟じゃなくて、幸太の弟だったのか」
「だから、そういうんじゃねぇし! 幸太くんと一緒にすんなよ!」
 四恩の喚く声を聞き流す長兄の手が、遠慮なしに春海の小さな顎を掴んだ。
 春海の静止が言葉になる前に、強引な口付けが交わされる。
 四恩にとってはやや今更な光景でもあるのだが、呆然とする四恩の視界で一臣の手がさらに不埒な動きを見せる。先ほど四恩が仕出かした悪戯を辿るように、一臣の手が春海のシャツの中へと入り込み蠢いている。
 抵抗する体を難なく抑え込み、まるで柔道の寝技の如く自然と春海を畳みの上に転がし、その上に口唇を塞いだまま圧し掛かる。シャツが捲れ上がって、象牙色の肌が露わになる。
 どんどんと目の前で濃度を増す色めいた気配にさすがにぎょっとした。
「……ちょ、まさか、ここでヤる気じゃ……」
 それは自分の教育上よろしくないと訴える未成年の耳には、舌が絡み合う濃厚な口付けの濡れた音と、春海の唸るような抗議の声とが聴こえている。
 春海は暫くは懸命な抗議として、一臣の肩口や触れられる場所を拳で叩いていたが、それもすぐに繊細な指先で二の腕あたりに縋るものとなった。
 十三年も先に生まれたはずの兄は驚異的に大人気なかった。四恩を見上げて、にやりと目だけで笑う。
 硬直する四恩の窮地脱出には春海の抵抗が不可欠であったが、それもくたりと脱力してしまった。
(ハル、カズ兄のこと好きすぎ……!)
 どうやったって長兄にも従兄にも敵わないのだと諦めて、自室に逃げようとした。
 そこに天の助けなのか、電話の呼び出し音が鳴り響く。
 もう少し早く鳴っててくれたらと四恩がとった受話器からは、遠慮がちな声がした。
 いつもより高く緊張した声が自分の名前を呼ぶ。
「おう、俺」
 応えると、ほっとしたようについた息が電波に乗った。
 会話を続けようとした四恩は、絡みつく視線に気付いて斜め後ろの畳の上を振り返る。
 半ば絡まりあったまま、兄と従兄が自分を見つめていた。
「……っ、ヤるんなら自分の部屋でヤれ! カズ兄はどこででも盛るな! ハルは時と場合によってはカズ兄を拒むこと!」
 思わず叫んだ四恩の説教に、大人二人は揃って、
「「はーい」」
 と返事をして起き上がると、素直に居間を出て行く。
 どうしたの?と小首傾げる様子が目に浮かぶように尋ねられ、慌てて言い訳をする四恩は知らない。
 好奇心に目を輝かせた長兄と従兄が、瑞々しい会話に聞き耳を立てて楽しんでいたことを。




2011/4/17
春海に迫る四恩が書きたかった。
あと四恩と同級生女子とか。四恩は母に見てた姐さん肌と春海に見てる清楚な印象が混ざり合った子が理想で、流れで登場させたイチカちゃんはまさにそれを満たしてて、イチカちゃんも四恩の不器用さと強さと末っ子気質に惹かれていて、高校二年の冬くらいから将来に思いを馳せて焦って付き合っちゃえばいい。でも素直じゃない四恩に何度も悲しまされたりして、それを長兄と従兄が慰めて、外堀から埋まればいいね。

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