今年は春海が帰省しないと幸太が知ったのは、毎年彼が美菜浜を訪れていた海の日から七日を経過してからだった。
受験勉強で忙しいんだって。
一臣の母は寂しげに呟いていた。
それは嘘だと幸太は知っている。つい一臣の方に視線をやれば、頑なに視線を合わせず母親の呟きも黙殺した。
去年の夏、可愛がっていた従兄弟が大人の男の腕に抱擁されるのを目撃した。その足で幸太の家までやって来た一臣は酷く混乱していて、目にした事実をポツリポツリと話して聞かせた。そして幸太にどんな共感も忠告も求めはしなかった。
春海が美菜浜にやって来ようが来まいが、夏は美菜浜を覆っていく。春海がいない夏を、幸太も一臣も知らなかった。
美菜浜駅は小さい。
潮風に晒された駅舎は赴きがあると、わざわざ訪れるマニアもいるらしい。
夏休み、市街地の体育館で行われた一臣のボクシングの試合を数人の友人と冷やかしに行って、一緒に浜まで帰ってきた時には腹の虫が騒ぎ出す時間帯だった。
一臣は無言だ。
あまり熱心ではなかったボクシング部最後の試合で、この友人は準決勝反則負けと言う記録を残した。
溜まりに溜まった鬱憤を発散せんと、顧問が唖然とするくらい熱心にパンチを繰り出し、最後には蹴りまで出した。我を失っているように見えて、ちゃんと相手の攻撃を避け、的確なタイミングでパンチを繰り出す程度には冷静だった分、反則技はより悪質に見られた。
故意の反則なので、どれほど非難されようが仕方ないことだが。
リングから引き摺り下ろされた友人は、それ以上暴れることもなく大人しく下がり、顧問に散々叱られた後、三年間の部活動を締めくくった。
最近の一臣は機嫌が悪い。
大人げある性格ではないが、幸太たち昔なじみも少々持て余すほど、最近の素行は酷い。
賑やかな市街地を歩いていれば、わざと喧嘩を吹っかけるような態度をとり、お買い上げいただいた喧嘩に嬉々として挑む。体格が抜き出て良いのと場慣れしているのとで、大概の場合は無傷で事を済ませてしまうのだが、それでも今年に入って既に二度の補導を受けている。それ付かず離れず見守っていたからこそ、今日の試合だってわざわざ午前中の補講をサボってまで応援しに行ったのだ。
ぞろぞろと冷やかし組が改札を抜け、最後尾にいた一臣を振り返る。ずっと俯き加減でいた一臣が顔を上げる。その口の端が切れているのは、顧問に殴られたからだ。体罰と言うよりは教育的指導だなぁと、生徒である幸太たちも納得できる状況だった。一臣も反撃したりはしなかった。大人しく痛みを持ち帰っている。
自業自得だ。二度の補導のうち、一度はとばっちりで一緒くたに生徒指導室送りになった友人達の共通の思いだ。
駅前にある小さな民家の端、ずっと昔から続いているたこ焼き屋に足を向ける一行の後を一臣は機械的についてくる。“氷”と赤字ででかでかかかれた旗が風に揺れている。
「あら、おかえりー。今日はどうしたの? ナンパにでも行ってたの?」
代々駅前で人々の小腹を満たしてきたたこ焼き屋の主は、十年前におばあちゃんから嫁さんのおばちゃんに交代している。夏の暑い時期にはかき氷が一時の涼を与えてくれる。
「かえりましたー。今日はねー、カズのボクシングの試合、応援してきたんだよ」
「まー、友達思いねー。でぇ? カズは試合、勝ったの?」
「引退試合で反則負け! また武勇伝が増えたから、アナウンスよろしくねー」
「人をオシャベリみたいに言うんじゃないよ」
「違うって思ってるぜ」
「時々、たこ焼きにかかってるのがソース違いだって噂ですけど」
「聞こえてるよ!」
そんな朗らかなやり取りの間も、一臣は黙っている。口をへの字に結んで、自分の足元を睨み付ける。
今日の試合を悔いているわけではないだろう。幸太は友人の胸中を想像する。
進路希望を親に尋ねられ、実家の民宿業を手伝うと一臣が答えたというのが夏休みに入る前のこと。本当にいいの? よく考えなさいと、母親の思いやりに胸を貫かれたまま、長い長い最後の夏休みに突入した。
思いやりや愛情は、時に人を傷つける。発した側と受け取る側の気持ちが通じ合ってこその思いやりなのだと幸太は第三者の目線でそれを知る。
同じように幸太が漁師になるのだと両親に告げた時、幸太の両親はそうかと笑ってくれた。父親がいつもより酒を過ごし、母親が仏壇に手を合わせた。それを素直に嬉しいと思えた。
華やかとは言いがたい家業を継がせることを申し訳ないと思う気持ちも、嬉しいと思う気持ちも、どちらもが愛情から生まれている。
それは一臣もわかっている。
ガリガリと削られていく氷は、滅多に見ることのない雪のようで、海辺で生まれ育った高校男子の視線を奪う。大人びた顔をしてみても中身はまだまだ子どもだよと、先代のばあちゃんはニコニコしながら氷を削ってくれた。
「でぇ? カズは負けちゃって、不貞腐れてんのかい?」
そして先代から店とも呼べない小さな場所を受け継いだおばちゃんも、自分達を子ども扱いして笑うのだ。
そこにあるのも愛情だとわかっている。わかっていても、それを受け取っている証拠の笑顔を見せられないこともある。子どもであるが故に。
無言でいる一臣を気にした様子もなく、おばちゃんは笑った。
その時、聴覚に妙な音が引っ掛かった。若者にしか聞こえないと言う音なのか、おばちゃんは相変わらずガリガリとかき氷機を回しているが、友人達は開け放った入り口から駅舎に視線をやる。
駅員の沢村さんが、慌てたように飛び出した。
「キセル……」
増えてて困るんだと、沢村さんは大きな犯罪抑止を唱える看板を設置しながら嘆いていた。
大声で何か叫びながら走る定年退職間近の駅員は、ぎっくり腰を抱えながらその看板を設置していて、それを幸太が手助けしたのがつい先週の話だ。
先陣を切って走り出したのは一臣だった。
「やべーかなー? カズ止めねぇと、やっべぇかなぁ?」
「はっ? キセルじゃなくて?」
「ダチが殺人犯になってもいいか?」
「そりゃ困る」
小さな店の土間にはアンティークショップに持っていけば高く売れそうな年代物の扇風機が一台だけ。けれどもないよりましだなぁと、炎天下に飛び出した少年達は思い知る。
一臣の長身を探せば、ホームの端っこのフェンスから飛び降りたばかりだったらしい、自分達と同じくらいの年代の私服姿の若者が二人、一臣の足の下にいた。よくよく見れば美菜浜中学出身の、一つ年上の先輩達だった。
一臣のスニーカーの底が、尻をついた先輩の鳩尾に沈む。
数時間前のリングの上で暴れておいて、よくもまぁ地元の先輩を容赦なく足蹴にできるもんだ。
先輩方は既に戦意喪失で、化け物でも見るかのような目つきで、自分達を見下ろす後輩に恐れ戦いている。警察官が駆けつけたとしても彼らはここまで悄然としないだろう。
幸太の目の前で、拳が持ち上がった。ボクシングのフォームだと気付いた瞬間、その腕にしがみついていた。
「ストーップ! ストップ! カズ! 落ち着け! お前が捕まる!」
友人三人がかりで暴れる獣を拘束する。ガキ大将っぷりは今まで散々見てきたし、時には害を被ったりもしたし、やったらやり返されることがあると教えてやったこともある。
それにしてもここまで派手に立ち回るのは久しぶりだ。犬が唸るような音が喉で鳴っている。手を放したら本当にこの幼馴染は人を殺してしまいそうだと、襟足のあたりがちりちりするほどの危機感を覚える。
不正が許せないのではなく、己の鬱憤を晴らすために暴力を振るう友人は痛ましくも見えた。リング上で暴れ、顧問による制裁を受けた。本来の大月一臣であれば、自分の浅慮を反省することができているはずだ。それを、傷口に塩を塗りたくるようにまた拳を振るう。持っているはずの良心や正義を自分の足で踏みにじっている。
痛いだろうと想像し、同情した。
「一臣!」
耳元で叫べば、一臣はさすがに体の力を抜いた。
「逃げんなよ」
「……あ?」
「逃げるな。お前がここで生きてれば、また、会える」
「……なんの話だ、幸太」
「春海の話だ」
去年の夏から、人魚姫を彷彿とさせる少年のことを話題にしていない。
自分を睨み付ける親友の目は、いつにない色をしていた。
爽快なくらい馬鹿で自信満々の双眸が、どこか怯えた気配を見せて、臆病であるが故に幸太を威嚇しているような、そういう小ささを感じ取って幸太は寂しさを覚える。
「お前が栄月館で若旦那やってりゃ、春海は迷子にならない」
「あいつは、もう来ない」
「いつか来る」
「いつかっていつだよ!」
「お前っ、面倒くせぇな!」
幸太もキレた。ぶんっと腕を振って、一臣の顔を殴りつけた。
幼い頃は数え切れないほど取っ組み合いの喧嘩をしたが、体格に差が出てきた高校生になった頃から、本気で手を出す喧嘩はしなかった。友人からの久々の攻撃をまともに食らって、さすがの一臣も見るからに悄然として戦闘意欲を消滅させた。
「そうやって八つ当たりでもなんでもしてさっさとブタ箱入っちまえ! そんなにイライラするんだったら、春海にも朝子さんにも言いたいことをちゃんと言ってやりゃ済む話だろうが! うじうじうじうじ、お前らしくもねぇし、だいたい超めんどくせー!」
もう一発おまけをつけようとした幸太が、今度は周りの友人に止められる。
「……なにを」
「あぁっ?」
「なにを、……伝えたら、間違わなかったんだよ」
教えてくれよと付け加わりそうな、情けない顔だった。
今度は幸太が脱力する。
そんなに傷付いていたのかと、また同情を深める。
ふぅふぅ言いながらようやく駆けつけた沢村さんが、事態を把握しきれず尻餅をついたままの犯人と、対峙する一臣と幸太をきょろきょろと眺めている。
本音が出た。
「……マジ、めんどくせー」
高校最後の夏空を仰ぐ。
大月朝子の葬儀の受付で、幸太はふと顔を上げた。
人魚姫が、立っていた。
「見ろよ。いつかってのはいつかのことなんだよ」
こんなに悲しい勝鬨があるかよと思い、受付のテントを離れる。
一歩近付くたびに、頬を濡らす涙の形まで見えてきた。
青臭かったあの頃、一臣にとって思いを晴らす方法の一つが正義を騙った暴力だった。家業を背負いこの町の未来を背負ってからは、手が届くものを守ることにそれを代えた。それから、今度はなんだ。
発散しなければならぬほどの鬱屈を、丸ごと飲み込んでくれる人魚姫が陸へと上がった。
「久しぶり」
あとはカズ、お前が、この子の失くした声を取り戻すんだ。
2010/10/9
高校生を書くのは楽しい。特に夏の風景を。そんでアップは秋なのな!