ありがとうのお題
03:いつもの笑顔


 将悟の家の近くには、旅館がある。
 栄月館と看板を掲げたその建物は古く、けれど賑やかだ。
 明るいおばちゃんは事故で亡くなってしまったし、優しいおじさんは静かな人だ。
 うるさいのは、怖い一臣と、とにかく賑やかな二葉と、皮肉ばかり言う三咲と、すぐに怒る四恩の四人兄弟だ。
 小学生六年生の将悟と一番年齢が近いのは四恩だが、近いと言っても相手は中学三年生。同じ小学校に通っていた頃はよく遊んでもらっていたが、中学にあがって野球部に入った途端に部活動で忙しくなってしまった。
上の兄貴分たちは将悟を子ども扱いで最初から相手にしてくれないから、賑やかさは遠ざかった。かわりに、穏やかな人と近付いた。

「かえりましたー」
 栄月館の門に小さな一輪挿しが据えられている。その水換えをしに出てきた春海が将悟の声に視線を落とす。
「おかえり」
 指先には新鮮な水を与えられた小さな赤い野花。春海はいつもの笑顔を向けてくれる。
 亡くなってしまった朝子おばさんに似ているけれど、春海の雰囲気はより物静かで控え目だ。
「どうしたの? その膝。転んだ?」
 将悟の膝に張られた大きな絆創膏を見つけてしゃがみこむ。目線が近くなり、紅茶のような瞳の色がよく見えた。午後の日差しを浴びた髪の毛も同じような色で、キラキラしている。肌が白くて、細くて、でも不思議と頼りない印象はない。
 将悟の幼い経験の中で、春海は一番綺麗な人間だ。学校で一番人気の女子も、美人な新任の先生も、テレビで見るアイドルよりも。
 春海と挨拶を交わすだけで、落ち込んだり怒っていた気分が落ち着く。そういう心持にさせてくれる人間が本当の意味で綺麗な人なんだと、大人たちは言っている。だから春海は綺麗な人間なんだと将悟は思う。
「ハードルしてて、引っ掛かった。でも、痛くないよ」
「そっか。将悟は今度の県大会に出るんだったね。すごいね。頑張ってるね」
 すごいねと、大袈裟な抑揚もないのに春海の口調は心地いい。
 春海は苦労してきたんだと、大人たちの会話を聞きかじって将悟は理解している。
 大月兄弟の従兄弟で、今は賑やかな栄月館でコックをしているけど、ずっと小さい頃から寂しい思いや怖い思いをして、でも自分の力で頑張って働いて生きてきた。だから眩しい。春海に褒められることが誇らしい。
「応援、来てくれる?」
 調子に乗ってみれば、春海は正直に顔を曇らせる。栄月館の仕事は忙しいから。
「忙しいよな。じゃあ、優勝したらケーキ作ってよ」
「いいよ。大きいの作ってあげるよ」
「あんまり甘いのは嫌だけど」
「生意気だなー。子どもは甘いものが好きなはずなんだけど」
「決め付けないでよ」
 クスクスと軽やかな笑い声。
 不意打ちで、子どもらしさを発揮した悪戯として、ほっぺに触れたとしても許されるんじゃないかという距離で、将悟は勇気を振り絞ろうかと思案する。
「コラ、将悟。近すぎる」
 ちょうどそこに、ハードルのフォームを訂正するような注意が背後から入り、将悟の下心を後悔させる。
「四恩、おかえり」
 しゃがんでいた春海が立ち上がり、学ラン姿の四恩に顔を向ける。
「ただいま」
 ニカっと白い歯を見せて笑う顔が、最近ますます一臣に似てきた。
「シィくん、部活はっ?」
 いつも日が暮れて暗くなった時間帯にしか帰らないくせに。
「テスト前なんだよ」
 とても嫌そうに顔を顰めるとますます一臣にそっくりで、怖いくらいだ。
「ハルとの距離には気をつけろよ、将悟。カズ兄の拳骨が欲しくなければ」
「仲良くしてるだけじゃん」
「馬鹿。お前なぁ、自分が今よりももっとチビの時に何したか覚えてねぇのかよ。ハルに向かってお嫁さんにしてあげるーって言ったんだぜ。しかもカズ兄の前で」
 覚えてる。覚えていて、その思いは日々成長するばかりで、どうしたらいいのかわからないでいる。ただ春海と言葉を交わしたり、笑顔を見るのが心地よくて懐いている。
「カズ兄のデコピン食らってビービー泣いてただろ。うちの長男はな、小せぇ男なんだよ。そのくせめっちゃ怖いんだよ。怒らせるな。とばっちりは勘弁してくれ」
「カズちゃんは小さい男じゃないよ」
「うん、春海にはそう映るだろうけど、それはもう置いといて。ハルも、将悟が可愛いならあんまりくっつかない方がいい」
「なんでシィ君にそんなこと言われないといけないんだよっ」
「カズ兄に言われてるからに決まってんだろ! 将悟は要注意だから、よく言っとけって」
「そんなにカズ兄ちゃんが怖いのかよ!」
「おー、怖ぇよ。めっちゃくっちゃ怖ぇよ」
 一臣は、かっこいい。強くて逞しくて頼りになって、面白くて明るくて、でも怒ることもできる。悲しみを堪えて、意地を張ることだってできる。
 将悟や遊び仲間にとって、一臣は目指す男性像でもある。
 例えば将悟の年齢が春海と釣り合うものだったとしても、同性であることを乗り越えたとしても、一臣が恋敵であるならば勝算は薄い。将悟の中に一臣を尊敬する気持ちがあればなおのこと。
 それでも、春海の笑顔が見たいのだ。それは恋とは少し違う種類のものかもしれないのに、それすらも許してくれないのは酷いじゃないか。
「春海はカズ兄のもんだから、早く初恋卒業して、クラスメイトの可愛い子でも追いかけろ。ほら、散髪屋のミクちゃんとか可愛いだろ。それともクリーニング屋のトモエの方が好みか?」
 まるで将悟から春海を守るように間に立つ四恩を睨み付けるが、効果はない。しっしと手を振ってあしらわれる。
「シィ君、うるさい! 早く勉強しろよな! この野球馬鹿!」
「お前のためを思って忠告してやってんだよ! 頭の悪いガキだな!」
 言い合いを始めた二人の間で春海が困っている。
 その困惑顔が、近付いてくる自動車のエンジン音を聞いて何かを期待する表情に変わっていく。
 一台のバイクが、国道から逸れて狭い生活道路に入ってくる。一臣のバイクだ。
 三人の横を通りすぎ、栄月館の駐車場に滑り込んだそれの重厚なエンジン音がやがて止み、ヘルメットを抱えた一臣が姿を見せた。
「おかえりなさい」
 春海が笑う。いつもの笑顔だ。将悟や四恩に向けるのとは違う、一際幸せそうな笑顔だ。
「ただいま」
 応える一臣の表情も甘い。一臣がこんなに柔らかく笑えるのだと知ったのは、春海が栄月館に来てからだ。
 二人のやり取りを見る度に、将悟は失恋する。
 一臣が春海を好きだというのなら、敵わないまでも挑むくらいの気持ちはもてる。だけど、春海が一臣を好きでいるのなら、挑むことで春海を困らせる。
 こうやって失恋を繰り返していれば、いつかこのあったかいようなざわめくような気持ちは別の人へと向けられる日が来るだろうか。
 春海と一臣が一言二言、言葉を交わす。その間に四恩がこっそりと呟いた。
「カズ兄は将悟を男だって認めてるんだよ。俺はそれ、胸張っていいと思うぜ」
 いつもただただ煩い四恩の言葉にしては深く同情が込められていて、将悟は微かに首を縦に振る。
 将悟の方をちらりと見た一臣は、門前の往来で春海の後ろ頭に手をやって、自分の方へと引き寄せた。
 キスシーンなんて、ドラマでしか見たことがない。
 恥ずかしいやら衝撃を受けるやらでパキンと固まった将悟に見せ付けるため、時間としては瞬き一回分と短いけれど、確かに一臣と春海の口唇は合わさった。真っ赤になって俯く春海と、勝ち誇った笑みを浮かべる一臣の前で将悟は四恩と目をあわせ、同時に天を仰いで口を開いた。
「大人げねぇ……」
 初恋も、理想の男像も見失いそうだ。




2010/11/2
小さな横恋慕。大人気ない一臣を書くのが楽しかったです。ちょっと大人な四恩も。

NOVEL TOP   BACK