深夜にも関わらず、古いアパートには灯りが幾つか灯っている。
昼間には静まり返っているが、夜更けには隣室で人が生活している気配がする。
自分と同じような生活サイクルで生きている人がいるのだと思えば、寂しさが僅かだけ緩和されるような気がした。
六畳一間に小さな台所、ユニットバス。家具などほとんどなく、汗を流して眠るだけの空間が十九歳の春海の城だ。
母親と暮らしていた部屋と大して変わりはしない。ただあの部屋には暗くて湿っぽい押入れがあって、そこが春海の部屋だった。そして一人ではなく、自分を持て余しながらも時折ひどく甘やかしてくれる母親がいて、春海が覚えている限り五人の男が出入りしていた。押入れの襖越しに生々しい人の気配をうかがいながら、膝を丸めて眠っていた。
中退した高校で担任だった教師が紹介してくれた、知り合いの小料理屋に勤めだして三年が経つ。人の良い主人は春海の背景を尋ねることなどしなかったが、長年の経験で何か察するところがあったのだろう。一人暮らしをするための手助けをしてくれた。そしてこの部屋が春海の城となり、ここで春海は生きている。
仕事は厳しく忙しく、大変だ。だけど自分の手で稼いで自分の寝食を賄っている安心感はある。職場の人たちは春海よりずっと長く生きてきた人たちで、みんな春海を可愛がってくれる。誰かの手を煩わせるような保護の下で生きていた頃に比べれば、ずっと呼吸は楽になった。
あの夏の美菜浜すら思い出さなければ。
部屋の明かりとクーラーのスイッチを入れ、蒸した室温の不快さに耐えるようにフローリングに横になる。室外機が唸る。首筋を流れた汗ももうすぐ冷やされる。
不快なことは、じっと耐えていれば良かったんだ。
目を閉じれば、十四歳の時の失敗が鮮やかに蘇る。
中学の担任だった若い教師は、春海の立場が平穏ではないと知って手を差し伸べてきた。最初は父性とか慈愛とか、そういうものが動機だったのだろう。それが情欲をまとったのは、自分の業が深かったせいだと春海は思っている。
その教師は、春海の心を長く支配している従兄弟に姿格好が似ていた。春海を甘やかす声のトーンが似ていた。真面目すぎるところは似ておらず、これまで一度も人と喧嘩をしたことがないところも正反対だった。けれど春海はその教師に従兄弟の姿を重ねて、墜落するように何度か大人の手に身を委ねた。
春休みと夏休み、冬休み。三つの季節にだけ足を踏み入れることができる美菜浜は遠く、そこで過ごす季節も短い。日々を生き抜くには春海の周囲は冷たすぎて、贋物の暖でも縋りたかった。
自分の浅はかな姿を、よりにもよって一臣に見られてしまった。美菜浜と言う大事な場所で欲に負けた自分が悪いのだ。課された罰はあまりにも重い。
美菜浜の潮騒が僅かに届く夏の公園で、大人の男の腕の中で一臣の目を見た。あれが最後だ。
思い出す度後悔に身が染まり、動き出せなくなりそうになる。このまま体も心も停止して、壊れてしまえば楽なのに、時間が経てば腹も減るし、働かなければ居場所さえも失ってしまう。
記憶に鍵をかけ、感情を鈍化させ、春海は一日を消化する。早く授業が終わらないかと時計を眺める学生のように、人生が早く終わらないかと世間を眺めている。
もう自分が希望を持つことはない。自分で手放したのだ。
絶望しながらも、春海は何度も思い出す。傷を抉る行為になると知りつつ、脳裏に蘇らせる。
会うたびに伸びていく背。誰よりも親しく春海の肩を抱いた腕の重み。平素は不機嫌に見える顔をしているが、笑うと途端に愛嬌が出る。いつも強気で、自信に溢れている。足が速くて、喧嘩っ早くもある。勇気と正義感があって、乱暴な口調をちょっとした態度でフォローできる優しさを持っている。
背はどのくらい伸びただろうか。もう二十歳を越えた従兄弟の姿を想像する。きっとあれからもっともっと伸びて、さぞかし逞しい青年になっているだろう。きっと相変わらずぶっきらぼうで、優しくて、周囲の人から大切にされて、同じように家族や故郷や友人を大切にしている。
あの町に、自分が訪れようが訪れまいが、関係なく。
自分は彼にとってただの従兄弟だ。彼の人生にどれほどの影響があるだろうか。
同性の、しかも担任だと言う男の腕に囲われていた従兄弟の存在は、彼の中ではなかったことになっているのかもしれない。彼の頭の中で消えると同時、本当に自分が消えてしまえればいいのにと願わずにはいられない。
春海と、名前を呼ぶ声を心の中で再生する。いつも鮮明に蘇るのに、いつも遠い。遠くて、もう二度と手に入らないものだ。
早く人生なんか終わってしまえばいいのに、積極的に最期の時を迎えに行く気力もない。
フローリングに投げ出された自分の生白い手を見つめ、届かない呼びかけを繰り返す。
元気でいますか? 変わりないですか? 兄弟喧嘩してませんか? 叔母さんも叔父さんも元気ですか? 俺を覚えていますか? 軽蔑していますか? ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
回想はいつだって懺悔になる。
エアコンが送り出す冷たい風に冷やされて汗はすっかり乾いたが、頬を伝う涙は後から後から溢れてフローリングに伝い水溜りを作っていく。
「カズちゃん……」
許して欲しい人の名を繰り返す。何度も何度も。この恋など泡と消えて構わないから、もう一度貴方に名前を呼ばれたいと。
胸が震える感覚に春海はゆっくりと覚醒する。
眠気が重くまとわりつくような目覚めを不思議に思っていると、顔の周りが湿っているのに気付く。
泣いていたのだと気付いて、さっきまで見ていたであろう夢を思い出そうとするがうまくいかない。ただかき回された感情の震えだけが余韻として残っていて、春海は戸惑う。
どんな夢だったっけ?もう一度思い出そうとすると、目元にあたたかく乾いた指が触れた。
背後から伸びてきたそれに驚いて振り向けば、片肘をついて半身を起こした一臣が真剣な顔で春海を見つめていた。
魘されていただろうか。心配をかけたのかもしれない。
起こしてごめんねと伝えようとしたのに、優しい手つきで頬を撫でられ、導かれるように涙が出てきた。感情にはリンクせず、体に沁みた記憶が涙腺から雫を溢れさせる。
一臣の手で拭われることが刺激になるのか余計に涙は流れ出て、一臣の指を濡らし枕を濡らした。
夢の余韻のせいだ。もう少しすれば止まると思った感情の乱れた証は、
「春海」
一臣の呼びかけにいっそう乱れた。
自分がどんな夢を見ていたのか思い出した。夢を見たのではなく、過去を思い出していたのだ。
張り裂けそうな思いが蘇り、ぎゅっと目を閉じる。すかさず一臣が名前を呼ぶ。
「春海」
なんで、あの孤独な時代に春海が最も望んでいたことを知っているのだろう。
「……、カ、ズ、ちゃん……」
くしゃりと顔が歪むのがわかった。
今はもう寂しくも痛くも悲しくもないのに、過去の感情に揺さぶられて嗚咽が漏れる。手を差し伸べた。しっかりと、指を絡めて握り返される。
ふぇっと、子どものような泣き声が出た。
「俺がいるから、もう大丈夫だ」
ゆっくりと一臣の腕の中に抱き寄せられ、あやすように背中を摩られる。一臣のTシャツが涙を吸い込んでいく。
泣き声は、聞いて欲しい人がいるから発せられるのだと聞いたことがある。慰めて欲しい。甘やかしてほしい。あやして欲しい。引き攣ったような呼吸はそう訴えている。
「お前の思い出からも、お前のこと守ってやりたいけど、できねぇわ。ごめんな」
悔しそうにそんなことを言うから、ますます泣けてくる。
零れる涙は指先や乾いた口唇に拭われて、子どもをあやすにしてはきつく抱擁される。
その強さが一臣の痛みだと伝わって、悲鳴を上げたい衝動に駆られて広い背中を闇雲にかき抱いた。
自分の痛みと一臣の痛みはリンクして、今があるのだと気付かされる。あれほど忌まわしかった過去すら大切なものになる。
もういっそのこと貴方の中に融けてしまって一つになれたらいいのに。しゃくりあげながら望みを言葉にしてみれば、それではどこに口付けていいのかわからないから別々の体を持ってる方がいいと啄ばむようなキスをくれる。
「……じゃあ、名前を、呼んで?」
強請れば何度も、丁寧に名前を呼ばれる。
時折、止まらない涙を吸い上げて、口移しで愛情を住み込ませるように。
そうされるうちに波立っていた心はゆっくりと凪いで、ゆっくりと意識が眠りに引き戻される。
その前にと、ありったけの想いを込めて一臣を呼ぶ。
返事は小さな笑い声と、額へのキスと、ぽつりと落ちた熱い滴だった。
2010/12/4
なんの夢を見た見たんだか、朝起きたら枕が濡れてることって、あるよね?