大月家には、“兄の日”と言うのが存在する。
夏の名残を濃厚に引き摺りつつも、朝夕には秋の気配がぴたりとより沿うような、季節の変わり目である九月の真ん中が、長男・一臣の誕生日なのだ。
男兄弟だから可愛らしいプレゼントなどはない。弟三人分の不器用な肩たたき券やひとっ走り券がこれまでの恒例だった。
長細く薄っぺらな封筒が一つ渡された今年もその類だろうと思いながら、この日ばかりは短い礼を言って受け取った。
出てきたのは予想を裏切り、旅行券だった。それも正規の。
「これからは兄の日に、従兄弟の日を兼ねます」
薄っぺらいが貫禄あるペア旅行券を手に思わず固まってしまった兄の前で、弟達はしれっと言ってのけた。肩たたき券が従兄弟の日が加わって温泉地一泊二日二食付に化けるとは出世しすぎではないか。
文句を言う前に追い立てられて、二人は太平洋から日本海へと進路をとった。
『止めた方がいいよ』
と言ったのは光子だった。彼女は可愛らしい顔を歪めて、目の前で蝿でも追い払うように手を振った。
『カズとか幸太とか、あの連中、一緒に旅行とか行ったら本当に面白くないよ』
何故かと問えば、
『隣の芝は青く見えるのかしらないけどさ、ずーっと町の様子とか観察して、美菜浜と比べてるの。真似できるところはないかとか、そういうのばっかり見てさ。難しい顔して、宴会がすっかり町おこし談義よ。そりゃ、私だってそうい言うの、気にならないわけじゃないけどさ。あいつらは異常よ。純粋にその場その時を楽しもうなんてノリになんないの』
普段あんな顔しないくせに、とぷりぷり怒っていた。
それはそれで彼ららしいと思ったし、初めての一臣との旅行に浮かれてもいた。
まさかここまでとは思わなかったよと、忠告してくれた女友達に心の中で念を送る。
一臣が友人に借りたナビとETC付きの普通車での道中は快適で、一臣も他愛のない話題をぽつりぽつりと持ち出し、運転に慣れない春海の教習だと言ってハンドルを握らせてみたりと楽しんでいた。
それが有名な温泉街についてから様子が変わった。
同業の仕事っぷりが気になるのはわかるが、老舗の温泉旅館の隅から隅までを言葉少なく見渡して、チェックインしてからも接客を一歩離れたところから眺めているような妙な緊張感を漂わせた。小さな民宿とは比べ物にならないくらい洗練された空間を演出している宿泊先へ、ライバル心を抱いているわけではなかろうに。
自慢だと言う大浴場は、平日だったせいか人が少ない。心ここにあらずで源泉かけ流しに浸かるのは勿体無い気もするが、二十四時間入浴が可能なのだから明日の朝風呂も悪くない。朝までに一臣が思考を休ませればの話だが。
春海も栄月館の厨房を預かる身として、夕食の膳が気にならないわけではない。部屋に用意された豪華な食事の一品一品を密かにチェックするくらいはしたが、一臣ほど怖い顔もしていないはずだ。
「男二人連れって、最近じゃ珍しくないのかな」
町にも若い男性グループの姿が見受けられたと話題にすれば、生返事が戻ってくる。
確かに想像以上の態度ではあるけれど、これはこれで微笑ましい。ここまで思慮深い顔を見せるのも珍しい。
光子は幸太と旅行に行って同じ態度をとられた時は、大いにキレたらしい
いつも賑やかな食卓な分静か過ぎる夕食ではあったが、無口な連れの変わりに給仕をしてくれた仲居さんに料理についてあれこれと質問できた。実りはあった。
夜散歩でもしようと、川と柳と土産屋とが続く温泉街の風景を眺めながら、下駄を鳴らして歩く。商店に張ってある何気ないポスターや、街灯の形に案内表示。一臣の眼差しがそれらを見渡していく。こうしてこの人の胸には、美菜浜を生かす術が練られていく。
一臣の思考を邪魔しないように家族や友人への土産を吟味しながら、春海は一臣の顔を窺う。いつも自信を湛えたような表情をしているくせに、妙に深刻でとてもじゃないが観光を楽しんでいる様子ではない。真剣で、張り詰めていて、少し近寄りがたい。
でも、かっこいい。
『かまって欲しい時はかまってって言って、手くらい差し伸べてみなさいよ。じゃないとあいつら、調子に乗って自分勝手なことばーっかりしてるわよ。ハルが大人しいからって甘えきっちゃってさ。たまにはカズのすることを許さないって言う強気の姿勢も大切だし、本当はあいつ、そういうの、ちょっと欲しがってるんだよ』
そう苦言を呈してくれる友人の怒り顔が目に浮かぶけれど、かっこいいものはかっこいい。
『ハルはカズ兄がフラダンス踊ってもかっこいいって言うよ、きっと』
年下の可愛い従兄弟達も呆れ返るけれど。
一臣がいれば他に何も要らないと思っていた。でも、そうじゃない。あの美しい浜辺があってこそ、自分は満ち足りる。正確には、美菜浜で生きる一臣の傍で。
そんなことを考えていると、不意にぞくっと体が震えた。耐え切れず、ハックシュン!と大きなくしゃみが飛び出す。
無口な一臣に釣られて考え事をしていたら、いつの間にか随分と時間が経過していたようだ。夏と秋とが押し問答を繰り返すような季節の変わり目だが、今夜あたりから秋の勢力が強まってきたらしい。柳を揺らす風が冷たい。
もう一つ、今度は抑えたくしゃみをする。目を閉じて首を竦めていると、項が温もりに覆われた。顔を上げると一臣が心配そうに覗き込んでいる。
「わりぃ。冷えたな」
項に添えた手が、その温度を確かめるように耳朶も撫でる。寒気とは違う身震いに俯きながら平気だと答えるのだが、一臣は既に宿に向けて歩き出そうとしている。
「もういいの?」
「キリがないからな。まぁ、他所は他所、うちはうちだ」
難しい夢から覚めたように軽快に笑う。光子の言う“美菜浜の男子は自分勝手”と言うのはこういうことなのだろう。
もう一度内湯に浸り夜散歩ですっかり冷えた体を温める。温泉の効果は抜群で、しっかり温もれば体の芯からポカポカする。
部屋に戻ると既に布団が敷かれていた。当然のことながらそれなりの距離を持っていたそれを、一臣は無造作に引き寄せ、並べた。
呆然と立っている春海の手を引いて、強引に自分の方へと引き寄せて座らせる。
「浴衣、いいな」
にやにや笑って、春海の浴衣の袷をちょいと引っ張る。
「脱がせたくなる」
さっきまで余所見ばかりしていたくせに今はもう春海に対して意地悪く微笑んでいる。
前触れも遠慮もなく帯に伸ばされた手を思わず拒んだのは、これまで一歩後ろから見守っていた状態から自分だけを見つめてくる、その距離感のギャップに戸惑ったせいだ。
一瞬驚いた顔をした一臣だが、すぐに気を取り直して楽しげに口唇を歪める。その気にならない相手をその気にさせるのもまた一興、とでも思っているのだろう。
さすがに春海もむっとした。
後ずさり、自分の荷物の中から一枚の紙切れを探り出すと一臣に向けて突きつける。
『春海を労わりなさい券』
丸っこい文字とハートマーク溢れる紙切れの端っこには、光子の署名とご丁寧にも彼女の実家が営む染物屋の角印が押してある。最近の美菜浜若年会ではサービス券がブームだ。
「……それは、誰に対してのプレゼントだ」
「カズちゃんに渡してって」
「プレゼントになると思って、今俺に突きつけてんのか? お前は」
そう言われると反論しにくい。黙っていると溜息を一つつかれ、一臣も自分の荷物を漁って何やら取り出した。
未開封のコンドームの箱に、付箋が貼り付けてある。
『宿を清潔に、理性を大切にしましょう券』
幸太の署名に、下手くそな魚のイラストが描かれていた。
「馬鹿ップルめ」
楽しそうに毒づいてビニールを剥がしにかかる。
「……これは?」
労わりなさい券の効果はないのか。
「労わるよ。ちゃんと。理性をもって、優しく優しく、一箱分」
思わず入り数を確認して、一臣の目の前にもう一度労わり券を突きつける。
「じゃあ、譲って半ダース」
「なんでそんな元気なの」
「仕事から解放されて、美味い飯食って、いい湯につかってんだから当然だろ」
「ずっと考え事してたくせに」
ぽんぽんと言葉を交わすうち、言わずにおこうと思っていたことまで口に出た。すぐさま後悔に襲われていると、額を小突かれる。
「言ってくれよ、そういうの。俺は頭悪ぃから、一つのことに集中すると他を忘れる」
「言わないよ」
「なんで? 寂しかったろ? せっかくの新婚旅行なのに、余所見すんなって怒ってくれよ」
見蕩れていたからとも言えず、覗き込んでくる視線に応じることもできない。
もう何度も体を重ねてきたが、何度目だって恥ずかしいし緊張するし、嬉しい。あまり余裕を見せ付けられると辛い。振り切るためには開き直るしかない。
一臣の肩に手を置き、体重をかける。逆に押し倒してしまおうと思ったのに、相手はびくともしない。びくりともしていないが、春海のしようとしていることを察して自ら仰向けに転がった。
驚く春海の体を片手で支えながら、もう片方の手では春海が握っていた紙切れを取り上げた。ぴらりとその裏を自分に向け、にやりと笑う。
「まぁ、言えない場合はこういう伝え方も可愛くていいけどな」
光子の書いた『労わりなさい券』の裏には、春海の字で『何でもします券』が書かれている。
旅行の話をした時に、そういえば一臣の誕生日だとその場で光子がサービス券を書き上げて、春海は何をプレゼントするの? なんて無邪気に尋ねてきた。
幾つか候補はあるけれど迷っているのだと言えば、光子は可愛く笑って、一臣が一番欲しいものを教えてあげると春海に耳打ちした。
その答えがこれだ。
素直に書いた自分も自分だが、それをこっそり一臣にリークする光子も光子。そして一番悪いのは、全て知っていて春海が行動を起こすのをニヤニヤしながら待っている一臣だ。
「顔、真っ赤。かーわいいなぁ」
赤くなった頬も、潤んでいる瞳も、至近距離でじっくりと見つめられる。視線で愛撫されているような感覚に体が火照ってくるのがわかるほど。
「じゃあ、まずはキスからしてくれる?」
上機嫌な眼差しを『何でもします券』で覆ってから、春海はゆっくり背を曲げる。こんな券がなくても、いつだって一臣の求めることなら何でもしたいし、抗えるはずもない。
自分勝手な美菜浜男子の望みを叶えながら、労わりをもらう夜が更ける。
2011/2/11
王道温泉ネタいってみました。前年の秋にKINOSAKI行った時に思いついてみました。