裁判所から吐き出される人の波に乗って、波先であろう辺りで歩みを止める。
お疲れ様と、自分と父を囲う人達から労いの言葉を受け取り、深く頭を下げた。
母の命を奪った事故の裁判が、終わった。
「……なんつー店に息子を連れて来るんだ」
判決を聞くのに同席してくれた美菜浜の人達に、勝手をするようだが息子と二人で打ち上げをしますと告げた父に連れられてやってきたのは、繁華街の片隅にあるフレンチレストランだった。
あまり父子で来るようなところではない。
ただでさえ肩が凝るスーツ姿で辟易しているところ、カトラリーが整然と並ぶテーブルについた一臣はうんざりした表情を隠せない。
「たまには君と二人で外食って言うのも新鮮でいいねぇ」
借りてきた猫みたいだと朗らかに笑う父は、ワインリストを片手にスムーズにオーダーする。どうにも慣れんと視線すら凝ってしまったような一臣とは大違いだ。
昔むかしと語りだせば亡き母は怒り出すかもしれない過去のこと、父は母とこの店を何度か訪れたらしい。結婚記念日だとか誕生日だとか、そう言った特別な日に。
贅沢を言う母ではなかったが、「映画を見て街を散策して素敵なレストランでディナー」と言う王道に憧れないこともないのよーと零したことがあったらしい。それを丁寧に聞き取った父のエスコートで、両親はこの店で特別な日を過ごしている。
そして今日は、父とその長男が。
運ばれてきたグラスは三つ。
父と一臣の分と、もう一つが二人の間に置かれ、そこにもワインが注がれる。年老いたソムリエが父にやや長い一礼をして、静かに遠ざかっていった。
「ここに来るたびに、朝子が食事にもワインにも感動してね。あの人にあれこれ質問するものだから、お店の人にすっかり覚えられてしまった。葬儀にも来てくれてたみたいだよ」
父の手がグラスの足を持つ。倣って掲げたグラスは、二人の間の一杯に触れ合う。
「おつかれさん」
「お疲れ様」
もう少し付け足したい言葉はあった気もするが、父がゆったりと実に美味そうにワインに口をつけたのを見ると、言葉は不要な気もした。
父が母との思い出の場所で、結婚した年に作られたワインを味わえている。それが今日の慰労会の全てだという気もしたので、一臣もグラスを傾ける。
「……どうも、わからん」
ワインの味はと顔を顰めれば、
「君の日本酒党は僕譲りだね」
と笑われた。
ぎこちなくフォークとナイフを駆使する一臣とは違い、父のテーブルマナーは嫌味なく優雅だ。どことなく洗練された都会の匂いがする父のこうした一面に母は憧れ、近付いて見えてきた素朴さに安心したのだろう。
父のどこを好きになったのかと聞けば、母は子供達がもういいと飽きるまで幾つも好きになった点を上げた。
シャンパンの開け方がかっこよかった。魚の食べ方が綺麗だった。釣餌のミミズを平気で摘むの。英語がちょっとだけできる。生け花を必ず褒めてくれた。苦手な食べ物に一箸つけて、それでもやっぱり苦手だと告げてくれた。手を繋いで欲しい時に繋いでくれた。喧嘩したら黙っちゃうけど、後で手紙をくれたの。失敗した時には決まり悪そうに頭をかく癖がかわいい。
あまりに楽しげに幸せそうに、欠点や短所まで交えて語られるそれを子供達はどのタイミングでストップさせようかと幼いながらに頭を悩ませてきた。
その母の声を奪った出来事の始末がついた。
退廷する被告人の一礼に、父は黙礼した。それが判決文よりもずっとわかりやすい結果だったように思う。
家では弟達と春海が待っている。法廷に駆けつけることができなかった人たちも集まっていると聞いた。まっすぐ帰るべきところ、珍しく我を通した父は前菜の皿を空けたところで静かに切り出した。
「ありがとう」
「……なにが?」
半分本気半分とぼけて問えば、それを予想していたように、
「色々」
と返ってきた。
二人の脳裏には悲劇の瞬間から今日の閉廷までの様々な出来事が蘇り、一臣は思わず眉間に力を入れる。呻いてしまいそうだった。
大月家と親しい人たちは、一臣は外見は父似だが性格は祖父そっくりで、元幸の穏やかで紳士的な長所を一つも受け継いでいないと嘆く。誰の背中を見て育ったのだとからかわれることもしょっちゅうだ。
だが一臣本人は、揺ぎ無さや大らかさに憧れ父の背中を追いかけてきたつもりだった。二十代の後半にさしかかってから、どうやら真反対に突っ走っていたことに気付いたりもしたのだが。
揺るがないと思っていた父が母の棺の前で呆然と心をなくしていた姿は、一臣にもう一つの傷を植え付けた。
言葉を無くし呼びかけにも応えず、まるで母と同じように魂のない器になってしまったかのような姿に、地面が崩れるような恐怖を感じた。
万全であると信じていたものがそうでないと知らさることの残酷さを、初めて知った。
しかし幸いなことなのか、落ち込んだり不安に陥る暇も与えられなかったし、親もまた完璧な存在ではないと言う事実を受けいれられる年齢でもあった。
自分をこの世に生み出した二人のうち最後の人を、守って支えなければと思った。
父がこれから立ち直ることがないとしても、もう生きていてくれるだけでいいと思った。それだけで、自分は安心して頑張れる。成人するにまだ幾年か足りない弟たちを保護することもできると思った。生きていてくれるだけで、その存在は自分を支える。
最悪の覚悟までして過ごしたのは、しかし短い間のことだった。
一臣のこれまでの苦労も覚悟も全てを含め、ありがとうと父は告げてくれる。
感謝してくれる行動を自分がとれていたのなら、それは誇らしくも思えること。ただ素直に喜べる年齢でも性格でもないので、誤魔化すようにワイングラスを傾ける。
もう少し言葉を足したかったのか、父の口が数度動いたがそこから声は発せられることなく、やがて静かで甘い苦笑に変わった。
気恥ずかしい思いをするような話題を一区切りさせる意味も込めて、一臣はスーツのポケットに突っ込んでいた小さな御守りを取り出した。
「そういや、これ、預かってたんだ」
出かける前、二葉と三咲が修学旅行で買い求めていたそれを託された。
小さな亀の刺繍がしてあるそれは長寿の御守りだと言う。
修学旅行から戻ってすぐに渡せなかったのは、父が長生きなんてしたくないと思っていたら嫌味だなぁと妙な心配をしたせいらしい。早く母さんのところにいきたいと思っていたら困るから様子を見て渡してよと、今朝家を出る前に無理矢理持たされたのだ。
手の中に収まる土産を暫く見つめていた父は、また苦笑した。嬉しすぎて困ったなぁと笑う顔が、母が一番好きな表情だった。
「ほんとーに、君達がいてくれて、良かった」
そうして父子の間には沈黙がおり、周りのテーブルから聴こえてくる談笑の声と食器が触れ合う音にしばらく耳を澄ませる。
父は歩き始めたのだ。母と送ってきた日々を噛み締めながら、第二の人生と呼べる余生を。
忘れ形見となった息子四人の姿、誕生日に送られたネクタイ、二人で植えた向日葵、喜んでくれた日曜大工で作った縁台、夫婦茶碗、お手製の梅干、もう誰も使わない化粧品、相方を失った結婚指輪、来年の結婚記念日にと約束していた予定。
思い出はそこかしこに転がっていて、思い出す度に胸は痛み不在に嘆き、恨み、心が軋む。
それでも生きていかねばならぬのだと、父は苦笑する。
嘆くことに飽きたみたいに、どんなに悲しいことがあっても人間は生き続ければ笑える瞬間をまた迎えるようになる。
まるで朝子を裏切っていたみたいだと、葬儀から暫くして父はぽつりと零したことがある。先に裏切って逝ったのは母なのだから、気にしなくてもいいんじゃないのと四恩が呆気羅漢と言った。末子の無邪気な、大人の考えすぎを馬鹿にするような物言いに、そうだよねぇと父は笑ったのだ。
戻ってくる日常にはどうやたって流される。日々を送る中で散りばめられた思い出にぶつかるたび、また悲しんで、繰り返して、今日を迎えているのだ。そしてこれからも、どんなに寂しく恋しい気持ちに焦がれようと、一秒でも長く生きていて欲しいと願いを込めた御守りを子供達から託されて、父は仕方ないなぁと笑う。
「……なぁ」
「うん?」
仕方ないなぁと、これから自分が切り出す話題にも笑ってくれるだろうか。
「親父に一つ、謝んなきゃなんねーなーと、思ってることがある」
言いよどむ間を埋めるように、次の皿が運ばれてくる。白く大きな皿の上、絵を描くように盛られた料理を見つめたまま、視線を合わすことなく口を開いた。
「孫を、見せてやれねぇ」
父は、いつもにこにこしている。どんな時も穏やかに微笑んでいるので、決して表情豊かなタイプではないのだ。
ちらりと上目で盗み見た父は珍しくぽかりと口を開けている。これが鳩が豆鉄砲くらった表情ってやつかと実地で学んで、一臣は次の反応を待つ。
「……気にしてたの?」
「……気にするだろ」
あぁそうなのと、気の抜けた返事だが予想の範囲内ではある。
だが孫の顔を見せてやれない道を選んだことを許すのと息子の幸福を願うのとは、また別の話ではなかろうか。君達がいてよかったと、しみじみ思ってくれる親ならば。
息子なりに、長男なりに、気にしていたし、申し訳ないのではないかとすら思っていた。それを目の前の父親は、クツクツと笑い始めた。
「……なんだよ、気にしてちゃ悪いかよ」
「悪くない……、ちっとも、悪くないよ。ふふっ……、く、あはは! こら、舌打ち、行儀悪……くく……」
「……くそ親父っ」
母と喧嘩は山ほどしたが、この穏やかな父ともそれなりに言い合いをしてきている。一方的に一臣が噛み付くだけではあるが。
「馬鹿だなぁ」
一頻り笑って気が済んだのか、美味そうにワインを一口飲んで父は言った。
「君達は朝子がいなければ存在しない」
はじまりは、大月朝子と言う人と出会い、恋をして、心を通わせ、共に生きることを選んだことから。
「君達は、結果だ」
しれっとそんな表現をしてみせる。
こういうものの言い方が、この男には敵わないと一臣に思わせるのだ。
ゆったりと長い腕が伸び、グラスをそっと掴み、悠然と口に運ぶその態度。揺ぎ無く堂々とした所作。見ているだけで安心する存在は、一臣が目指すものだ。
「あの子と一緒にいられない結果を選んでも君は幸せでいられるか、想像してみればいい」
できるものならやってみな。柔らかな曲線を模る口唇が言いたいのは、つまりはそんなところだろう。
「人と同じことが正しいとは限らないよ」
自分達は信頼を注がれて育ってきた。君らしくもないと笑いを含めて告げられるのは、なんだか褒められた気分だった。
「今度、この店にハルちゃんを連れてきてあげたらいいよ」
「嫌だ」
「どうして?」
「俺のテーブルマナーを見て幻滅される可能性が高い」
「そうかなぁ。僕は、とてもいいと思うけど?」
大月夫妻が清らかだったかどうかはともかくとして、まだ夫婦ではなかった幾度目かのデートでこの店に初めて訪れた際、まだこういった店に不慣れだった母はひどく緊張していてグラスを倒してしまったらしい。自分の失態に慌てふためいて涙目になった母は、真っ赤になった顔を隠すようにして嫌われたくないのだと、小さく震える声で呟いた。
それを聞いた男は、まだ飲酒も許されぬ年下の彼女のありとあらゆる失敗を見てみたいと思い、その数ヵ月後にプロポーズした。
父に母のどこを好きになったのだと聞いて返ってきた答えがそれで、もう二度とこの話題は口にすまいと息子達はそれぞれ胸の中で誓っている。
「親父が、連れてくればいい」
「そうしたら君が拗ねるじゃないか。この前、こっそり水族館に行った後も大変だった。ハルちゃんは悪くないのに、意地悪を言って困らせただろう?」
「拗ねてねぇ。だいたい、こっそり行く必要ねぇだろ」
「拗ねるかなぁと思ったんだよ」
「拗ねてねぇけど、こっそり行くからそうなるんだ。……春海は、親父と出かけるのも楽しみにしてるから、連れてきてやればいい。俺じゃ役にたたない場合もある」
「君も随分大人になった」
三十路も近い息子に言う言葉ではないし、これは決して褒め言葉ではない。馬鹿なことを考えていないで堂々としていなさいという訓告だ。
静かに最後の一皿が運ばれてくる。白い皿の片隅に桃色のムースがちょこんと盛られ、その周囲を果物や不思議な色のソースが取り囲んである。
母や春海が見たら喜ぶであろうそれを、大口の中に放り込む。
「ちゃんと味わって食べてくれよ」
「早く帰って飲みなおしたい」
「ハルちゃんのオツマミ、美味しいものねぇ」
のんびりと苺味だったムースを口に運ぶ父の笑顔を前にわざとらしく溜息をついて、ネクタイを強引に緩めた。
「家に着く前にもう一度締めなおしてあげるよ」
「はぁ? いらねぇよ」
「ハルちゃんは君のスーツ姿が好きだよ」
「……」
「相手が自分のどこを好きなのか、指折り数えてごらん。すっごく幸せな気持ちになれるし、前向きになれるから」
そうだろうよ、あの母が相手であったアンタなら。思ったが、黙っておいた。
「君達が最愛と言う言葉の意味を人生をかけて知ることができたら、これほど嬉しいことはないんだよ」
二葉も三咲も四恩もと、散々頭を悩まして命名した名前を並べる顔は穏やかだ。
いつか、自分達はこの人を見送る。
自分を生み出した、絶対とも呼べる存在がいなくなる。そういう覚悟を少しずつ胸に刻み込んでいかなくてはならない年齢になりつつあると一臣は思う。そしてそれは、自分が伴侶と呼べる人を得たからこそできる覚悟であるとも。
いつのまにコンタクトをとったのか給仕が会計の段取りを携えてやってくる。奢るよと言う言葉には素直に甘えた。
スマートで紳士で、嫌味がなく穏やかで強く優しく、いざと言うときに頼りになって、一人の女性を生涯愛する男。
敵わないと思うことに苦味を覚えるよりも、安堵し始めた変化に戸惑いながらも、この人の息子であることを誇りに明日からの日々をまた始める。
席を立ちながら母への献杯を飲み干して、一臣は自分より面積が小さいくせに不思議と大きい背中の後を追いかけはじめた。
2011/717/19
書けば書くほど大月父が腹黒く、隠れSに目覚める恐怖。