パラリと静かに新聞を捲る音が似合う朝の風景。
時計は朝六時を示している。
夏の太陽は昇るのが早く、虹明寮の食堂には明るい陽射しが入り込んでいる。
コーヒーの香りが近付いてくる。
「おはよう、富永くん」
寮の管理をしてくれている馬越が、いつものように穏やかな笑顔を向けてくれる。
「おはようございます」
新聞から顔を上げた先に、朝一番に毎日手で挽いているコーヒーを並々注いだコーヒーカップが置かれる。
「ありがとうございます」
入寮してから十年以上が経つが、この寮で最も早く活動を始めるのが富永だ。
新聞受けから新聞をとってきて、食堂のブラウィンドウを開く。
どんなに寒い日でも、大雨の日でもドアを開けて外の空気を感じる。
そして新聞を開き、馬越のコーヒーを待つ。
挨拶を交わし、コーヒーを口にする。
寮で朝を迎える日の、変わらないパターンだ。
新聞の隅から隅まで目を通し、スポーツ面になると身を乗り出すようにする。
いつもの行動だ。
海外リーグの順位、怪我をしていたJリーガーの状況を見る目は、朝の穏やかな時間の一時だけ違う輝き方をする。
「うーん。レアルとうとう単独首位に踊り出たか。これでどんでん返しがあれば面白いんだけど」
思わず独り言も零れるらしい。
野球の記事も見ながら、ファンの球団の情報に笑みを浮かべている。
まだ右も左もわからない新米の頃から、スランプで落ち込んだ中堅の時期を経て、ベテランと呼ばれるようになった今まで。
この一時だけを見ていれば、彼が引退を囁かれている選手から、瞳をキラキラさた青臭さを残してお世話になりますと頭を下げたルーキーに見えてくる。
「今日はいい天気になりそうだねぇ」
「そうですねぇ。これから、しんどいシーズンになります」
「うん。みんなが夏バテしないように、メニューも考えないと」
「ゴーヤって夏バテにいいんでしょう? 俺、ゴーヤチャンプルー好きなんですよ」
ピッチの上ではあまり動かない表情が今は豊かだ。
この時間は、富永にとって昨日のことをリセットする時間。
どんなに情けない負け方をしてもそれを次に引き摺らないために、日々変わらぬ時間を過ごすことで切り離していく。
チームのキャプテンとして、ベテラン勢の一人として、せめて自分だけでも気持ちを切り替えて次へと挑む。
そのために迎える朝。
いつもは賑やかな虹明寮も、このときだけは富永に合わせて静かな時間の中にある。
と思ったら、今日はその時間に加わる者がいた。
「おはようございます」
「おや、おはよう。昴くん、今日は早いねぇ」
「おはよう。本当に早いじゃねぇか。どうした?」
ジャージ姿で現われた昴は、寝乱れて寝癖のついた頭を手櫛で整えようとしている。
挨拶した声はとてもじゃないが爽やかな朝を迎えましたとは言っていない。
今年のJリーグが開幕して、既にスケジュールの半分を消化しようとしている。
ファーストステージも残すところ二試合になった。
しかし、神戸レインボーチャーサーのエースストライカーのゴールは未だ一ゴールも入っていないのだ。
「目ぇ、覚めた」
苦笑うような表情を浮かべて、富永の正面に座る。
馬越がすっと差し出したコーヒーに、ありがとうございますと言って口をつけた。
視線はちょうど広げられていたスポーツ面を眺め、外に移る。
まだ太陽が昇りきっていないこの時間は涼しいが、徐々に暑くなっていくだろう。
今日の練習もきっとかなりハードになる。
パラリと富永がまた新聞を捲る。
驚くほど静かな寮。
昴は寝惚けた顔のままで外から新聞に視線を戻した。
徐々に朝食の準備の音がし始める。
こうして空気は慌しさを増していくのだ。
「……眼鏡」
不意に昴が呟いた。
「ん?」
富永が顔を上げる。
その顔に見慣れない眼鏡がかかっていた。
「老眼鏡デスカ?」
片言めいた口調で尋ねれば、富永は眉間に皺を寄せて嫌な顔をした。
「そうだよ」
けれど本当のことらしい。
「最近、小さな字が読めない」
細い黒縁の眼鏡を軽く押し上げた。
「掛けなくてもいい日もあるんだけどな。今日はちょっと見えにくい」
気が付かなかったと昴は言った。
普段はかけないからなと富永は答える。
「懐かしいな、黒縁眼鏡」
「懐かしい?」
「いや、親父がかけてたのと似てるから」
新聞を捲ろうとしていた手が止まる。
そう言えばそうだったなと、小さな声で言った。
「よく言われてたよな。片岡保の息子は俺じゃなくって真吾なんじゃないかって」
「言われてたなぁ」
「だから、それ似合うよ。ちょっと、親父に似てるわ」
富永は笑いながら眼鏡を外した。
「掛けてみ?」
そして差し出す。
受け取った昴が黒縁の眼鏡をかけて顔を上げた。
その顔を見て富永は噴出す。
「なんだよー」
「まだ早いな」
「まだ若いから」
「でも似てきたよ。親父さんに」
クラクラすると言って返された眼鏡をかける。
「プレーとか、似てきたよ」
「マジでー?」
「マジで。身体能力の高さは、超えたかもな」
「マジで?」
「マジで。親父さんよりも、勇気があるかもな。あそこまで突っ込めねぇよ」
「マジ……」
「無謀とも言うけどな」
今度は昴が笑った。
笑うよりは怒るところだが、そんなツッコミどころも逃して笑っている。
よしよしと思いながら、富永は新聞を閉じた。
昴は笑いに欠伸を混ぜて、コーヒーを飲む。
厨房では準備の音とともにいい匂いが漂ってくる。
富永が眼鏡を外す。
「おはようございます」
そしてまた一人と食堂には寮生が顔を出し始める。
その一人一人の表情を富永は何気なく目にとめていくのだ。
そうしながら、富永真吾の顔はベテランのものになっていく。
「おはよう」
そして、片岡昴の目も少しずつではあるがそれに近付いていく。
「おはよーございまーす! あっれ、昴さん、早い〜。雨降るー」
「おはようさん。そんなこと言ってると、今日の練習で痛い目見るぜ〜?」
「のぞむところ〜」
「うっしゃ、覚えとけよそのセリフ」
眼鏡を変えたのは、一昨日だった。
フレームのないものにしようと思っていた。
でも店でなんとなく目に止まった黒縁。
生きてる年数が一緒にいた年数と同じようなものだから、下手な言葉は火に油。
何も言わず、まるで罠にかけるように、黒縁眼鏡を選んでみた。
五年だけ、富永の方が長く生きてきた。
頭の回転も、昴よりは速いと確信を持って大声で宣言できる。
だから、昴が今最も欲しがっているものを与えることができる。
片岡保に心底憧れた富永だから、片岡昴の傍にい続けている富永だから、それができる。
「うーん。単純明快」
外した眼鏡の柄を畳みテーブルに置く。
カタリという硬い音は雑音に飲み込まれていった。
「さぁ、しっかり飯食えよー」
2003/4/8
黒縁の眼鏡ってなんかレトロ?うちの亡くなった父も黒い縁の眼鏡でした。
昴と富永にとっての懐古という意味で、こんなネタを当てはめてみました。
二人きりにすると、微妙な空気が難しい二人です。
サッカーシリーズも、思い起こせばこの二人のやり取りから始まったんですよねぇ(しみじみ)