サッカーシリーズで30のお題
10:ドクター


 話があるんだけど。

 珍しく前置きをしてみて、これから行くからと連絡した。
 いつも理由もなく会って飲んで喋って眠って、そう言う付き合い方ができる仲だったから、その改まった前置きを薫は不審がっただろう。
 この頃、薫はスポーツドクターとしての第二の人生に慣れてきた頃。
 いつものように自分の分のアルコールと、薫の分の煙草を手土産にインターホンを鳴らせばすぐに扉は開く。
 だるそうな、いつもの面がのぞいた。
「おう」
「よう」
 そんな素っ気のないやり取りをして上がり込む。
 神戸のチームドクターとして復帰した薫の部屋はまだ雑然としていて、部屋の隅にはダンボールが積んである。
 難しそうな本が積み上げられ、そこからは付箋が無数にのぞいている。
 散らばるレポートと洗濯物。
 床に置かれたペットボトル。
 吸殻が山積みになった灰皿。
 相変わらず薫らしい部屋だった。
「どうした。しけた面してるな」
「やっぱりチームドクター様だ」
 まだまだペーペーだよと、頼りなく笑った。
「なんか飲む?」
「コーヒー」
「あれ、アルコールじゃねぇの? ウッチ―らしくないな」
 咥え煙草で台所に向った薫の背中を見ても、痩せたなと思う。
 肉が落ちた。
 歩くたびに、コツコツという固い足音が混じる。

 俺達は、年をとった。
 俺の神戸RCの同期は、薫と市井。
 市井は一昨年の暮れに引退を決意した。
 同い年の連中は、少しずつ、Jリーグから削り取られるようにじわじわと引退していった。
 残った俺は、最年長選手になってしまっていた。

「話って?」
 苦いコーヒーを一口飲んだ。
 最後の最後に、もう一度考える。
 この話をすべきなのは、薫だろうかと。
 家族は好きにやれと昔から言ってくれていた。
 結婚もいまいちピンとこないまま、三十七を迎えた。
 こういう話ができる人は、限られている。
「俺は、まだ、プロ選手としてサッカーしてていいと思うか?」
 薫が一瞬、凍りついたように見えた。

「経験だけが取り得になったら、俺は終わろうと思ってきた」
 言葉を続けても、薫は反応を示さなかった。
 目を見開いて、煙草を指先に挟んだまま固まっている。
 こんなリアクションは予想外だった。
「俺は今、どんなプレーしてる?」
 出場機会は減った。
 途中出場が常になり、スタメンはここ半年なかった。
 飛び交う引退の噂。
 薫は目をそらしたまま、灰皿にまだ長い煙草を押し付けた。
「俺の返事次第か?」
「いや。もう、だいたいの腹は決まってる。お前のせいにはしないから、安心しろよ」
 言ってやると、薫はやっと口の端に笑みを乗せた。
 ただ、双眸はちらりとも笑わなかったが。
「お前は……いいフォワードだ」
「質問の答えになってねぇよ。お前らしくない」
「いじめるなよ。こんな状況、想定外だ」
 くしゃくしゃと髪をかき回して、彼らしくもないうろうろと視線を彷徨わせる。
「俺の体のことは、お前の方が詳しい気がする」
 一つ怪我をして薫の前に患部を晒す度、薫の顔色を窺うようになった。
 まだやれるかどうか。
 俺の限界に最初に気付くのは、きっと俺じゃなくて薫だと思っていた。
 そして、きっとそれが告げられることはないのだろうとも。

「……お前は、いいフォワードだよ。前へ前へ行くタイプじゃないけど、視野が広くてチャンスを逃さないいいストライカーだった。今は、ストライカーって言うよりはフォワードだけどな」
 いい答えだ。
 往生際の悪い俺は足掻いて足掻いて、いつか向上心を無くして経験だけを武器にこの世界にしがみ付いてしまいかねないから、正直なこの友人の言葉が必要だった。
「俺はお前のプレーが好きだった」
 俺だって、薫のプレーが好きだった。
 自信満々に敵陣の前に立ちふさがる鉄壁があるだけで、安心できた。
 だけど、どんなプレーにも終わりがある。
 引退は、選手にとっていつだって誰にだって辛い決断。
 そして、それを取り巻く人々にとっても辛い決断だ。
「お前のプレーが経験だけとは言わない。でも」
 でも、昔の精彩はどうしても見えないよと、薫は言った。
 それでも、お前のプレーが好きだと言った。
 そして、
「まだ、時期じゃないだろ」
 顰めた顔で言われて、相談相手を間違ったかもしれないと思った。
 薫は本当にサッカーが好きで、海外の有名なスター選手を好きだと言うのと同じ感覚で俺のプレーも好きだと言う男だから。
 好きな選手の引退をむずがる気持ちは俺にもわかる。
「サッカー馬鹿だなぁ」
 思わず呆れて言えば、薫は気付くのが遅いよとやはり苦く笑った。
 その笑みもすぐに消え失せた。
「足、おかしいか?」
 二年ほど前から右足の調子がおかしい。
 重く、ひどい倦怠感が抜けないときがある。
「使い古したからな」
 俺の笑みにつられることはなかった。
 ドクターの手が、胡座を組んだ膝にぽんと置かれる。
 薫は俯いた。
「もっと早くに、戻ってくればよかった」
 その声が震えた。
 空気が震えた。
 心臓を鷲掴みにされるような衝撃に襲われた。
「俺は左足に踏ん切りつけてなんかねぇよ。チームに戻れば、あの頃に戻れるんだと思ってた。そうして、あの頃みたいに必至になってサッカーして、馬鹿話して過ごしていけるんだと思ってたんだ」
 使い古した膝頭を掴んで、薫は呻いた。
「イチもウッチ―もいなくなったチームで、俺は何すりゃいいんだ」
「馬鹿。お前、ちょっと下降思考すぎ。お前はチームドクターだろ。神戸の選手は俺とイチだけじゃねぇよ。まだまだ自分の体のことわかんねぇでいる若手もいるし、無茶しやすい選手もいる。足に爆弾抱えて不安がりながらプレーしてる奴もいるんだ。お前がすることはたくさんあって、何すりゃいいんだってのは俺のセリフだ、馬鹿」
 俯いた頭を叩くと、薫はやはり震えた声で痛いなと怒った。
「とりあえずは、指導者の道を考えてるんだ。暫らくは留学とかしてコーチ術勉強して、それから空きがありゃ神戸に戻ってきたいと思ってる。サッカーには携わっていきたいと思ってるよ」

 ただ、

「このセカンドが終わったら、引退しようと思う」

 その気持ちは変わらなかった。
 薫に電話したときには、もう腹は決まっていた。
 今季の引退は決めていた。
 ただ、背中を押して欲しかったから。
「わりぃな。泣かせちまって」
 それが薫なら、俺はきっと納得できると思った。
 あぁ、やるだけやったぞ、悔いはねぇぞと思えるだろうから。
 薫は顔を上げようとはしなかったが、俺の膝にポタポタと雫が落ちた。
 こいつが、意外にも涙もろいことを、俺は知っている。
 内田京介という選手の引退を惜しんでくれる人がいるのなら、俺は次の人生をまだ歩けると思ったから、ココへきたんだ。
 震えている、薄くなった肩に額を押し付けてみた。
 薫は何も言わず、ただ嗚咽を噛み殺すことで一生懸命だった。
 普段は、意地が悪くて口が悪くて性格も悪くて。
 扱いにくい奴だけど、情に厚いことは知っている。
 なくした左足のかわりになる技術を手に、フィールドに帰ってきた凄い奴だ。
 そして、大切な友人。
「わりぃな」
 世界を無くしてしまいそうな不安が、少しずつ癒される。
 お前が泣くから、俺は先に進める。
 お前が俺がスパイクを脱ぐことを惜しむから、俺はこの選手としての肉体を、休めることができるんだ。
「ありがとな。ドクター」
「スポーツドクターやってく自信なくなるじゃねぇか、馬鹿」
「やめられないくせに」


2003/8/31
ドクターという素晴らしいーお題に迷いに迷って、株急上昇中のウッチ―引退決意話になりました。
ちょっと弱い薫センセイと友情に厚いウッチ―。もうちょっとウッチ―の性格が出てくればなぁー。

NOVEL TOP   BACK