それは江口家の思い出話。
江口勲は当時二十歳。
母親に、
「頼むからコンパくらい行って来なさい!」
と言われる大学生。
江口英介は地域のサッカークラブに所属する小学四年生だった。
「家の中でサッカーボール蹴るの止めなさい!」
そんな少年だった。
朝帰りをしてしまった。
まぁ、いろいろと、お年頃ですからそれなりに。
相手も本気ではないけれど、こちらも本気じゃない。
不実な一夜を過ごして早朝、可愛い弟と妹が学校へ行ってしまう前にと帰宅した。
早いわねと母親は驚き、もうちょっと遊びなさいよとおかしな小言を言われた。
「いさおちゃん、おかえりなさぁい」
苺ジャムを塗りたくったトーストを頬張って可愛らしい挨拶をしてくれたのは、友里一人だった。
「ただいまぁ」
ちょっとだけませてきた妹は、この頃はまだ言動も可愛くて可愛くて、口唇の端っこについたジャムをとってやるとあどけなく笑う。
「英介は?」
いつも朝からよく食べるなぁと、呆れる食欲を見せる弟の姿はない。
「あの子、昨日から熱出して寝てるのよ」
「なにぃ!?」
「休まないって言い張ってたんだけど、夜には38度くらい出てたから、さすがに起きれないみたい。今日一日はお休みさせるわ」
「……朝帰りなんてするんじゃなかった……」
「もっと遊んでもらいたいくらいよ。まぁ、でも今回は助かったわ。母さん、今日は出かけなくちゃならないのよ。今日、授業は?」
「ないよ。あっても行かない」
呆れた、と母は盛大な溜息。
それに重なるように、広げた新聞の向こうから父親の溜息も聞えてきた。
「英介のことは任せるわ」
「おう、任せて任せて」
母は呆れを通り越して諦めの表情を見せる。
仕方ない。
貴女が、ものすごく可愛い弟を生んでくれたのだから。
父、母、妹を見送って、英介と自分とで使っている部屋をそっと開いてみた。
眩しい朝の光がカーテンに遮断されて、部屋を薄暗くしている。
いつも二つ並べて眠っている布団は、今は一組だけが敷かれていた。
少し苦しそうな呼吸が聞えてくるのを覗き込むと、眉を顰めた寝顔が見えた。
枕元に冷却シートが落ちてしまっている。
温くなっているそれをゴミ箱に放って、汗ばんだ額に手を当てた。
やはり少し熱い。
「……にいちゃん?」
手首を睫毛が擽った。
熱っぽい目がぼんやりと開かれていた。
「ただいま。しんどいか?」
声のボリュームを落として尋ねると、おかえりと掠れた声が応えた。
「母さんは?」
「今日は用事があってでかけたよ。兄ちゃん、今日は学校ないから」
安心したようにほうっと息をつく。
「お粥あるけど、どうする?」
「食べる」
「食欲があるなら大丈夫だな。ちょっと待ってろ」
立ち上がろうとすると、服の裾をがっしり掴まれた。
「うおっ、とぉ」
危うくこけるところをなんとか踏ん張って振り返ると、罰が悪そうな顔が見上げていた。
「下、降りる」
淋しいから置いていかないで。
本音が易々と見えてしまう。
「あったかくして、毛布にぐるぐるに包まったらな」
「うん」
上着を着込ませて、ブランケットでさらに包むとさすがに熱いと文句を言ったが、よいしょと横抱きに担ぎ上げることには不平は言わなかった。
一人で残されるのはよほど嫌だったらしい。
こういうところが、たまらなく可愛い。
階段を降り、ソファーに座らせて新しい冷却シートを貼り付けてやる。
小さい頃には体が弱くてしょっちゅう風邪をひいていたが、ここ数年は英介が発熱して欠席なんてことはなかった。
温めたお粥に梅干を添えて持っていくと、ぐぅと英介の腹が鳴った。
いついかなる時も食欲は失わないのが英介らしい。
「疲れが溜まってたかな?」
「この前の試合、雨だったからかもしんない」
レンゲに掬った粥を吹いて冷まして、口元に運ぶと素直に口を開いた。
「頑張ってたもんな」
浮かんだはにかみ笑いは、何か思い当たったように消えていった。
眉を八の字に寄せて口唇を尖らせる。
「どうした?」
「練習休んだ」
「そりゃ仕方ないだろ。風邪なんだから」
「でも下手になる」
「一日二日休んだくらいで下手にはなりません」
とろとろの粥を嚥下する英介の表情は晴れない。
どうやらサッカーができないことを残念がるよりも、下手になるんじゃないかと心配する気持ちの方が強いらしい。
「無理して練習したって、上達しないよ」
「でも……」
「こんな状態で練習なんてしたら、肺炎になって入院して、本当に下手になるぞ」
この脅しは効果的だったのか、暫らく拗ねるように睨み付けてきてからレンゲにぱくついた。
熱かったのか、はふはふ言いながらのた打ち回る姿も可愛い。
「でもっ、でも、みんな練習してる」
「じゃあ早く元気になって」
「……ぅん」
「英介が頑張り屋さんなの知ってるけど、頑張りすぎて体壊すのは心配だな」
「……うん」
ほんの少し前まではクラスメートにからかわれたと泣きながら帰ってきていたのに、もうそんな素振りもない。
泥だらけの傷だらけで帰ってくるのが常になっている。
サッカーと出会ってから、英介はどんどん変わっていく。
泣かなくなったし、時々だが自分のことを『俺』というようになった。
背も少し伸びた。
風邪も引かなくなった。
いじめっ子を殴ったと、問題になったこともあった。
試合中の目つきは、もう一人前だ。
俺なんかよりもずっと闘志や根性がある。
困難を回避する道を模索するのではなく、真っ直ぐに頭から突っ込んでいく。
そうやって英介は日々逞しくなっていく。
この子がサッカーを職として笑っていられる確率はどのくらいだろう。
将来は絶対にサッカー選手になるんだと、宿題の作文に書いていた。
Jリーガーになって、日本代表になって、ワールドカップで優勝します大きな字で書いていた。
その夢は、いったいどこまで叶うだろう。
まだ、夢が実現する可能性を計算できる歳じゃない。
自分はもうそういう歳で、英介が描く夢がいかに難しいかを考えてしまう。
願った夢の全てが実現できるわけではないと、知ってしまっているから。
ただ、今しばらくは英介の羽ばたきを見守ってやりたい。
飛んでいくというのなら、最大限の力で援助してやる。
考えたくはないけれど、もしも挫折の時が訪れれば支えてやりたい。
喜びも苦しみも、可能性をいっぱいに秘めた存在。
成長が楽しみでもあり不安でもあるなんて言えば、また母親に溜息をつかれるだろう。
あーん、と餌付けを急かすように大きく開いた口に零さないようにお粥を運ぶと、満足そうに全て平らげてしまった。
「薬も飲んどけよ」
子供用の風邪薬の無理矢理な甘さを嫌がりながらも、さほどぐずらずにそれを飲み干す。
これもサッカーのためなんだろう。
「飲んだ?」
「ん。飲んだ」
「じゃあご褒美」
皿にひっくり返したプリンを差し出すと、歓声をあげる。
この分だと明日にはすっかり元気になるだろう。
プリンは自分で食べると言い出して、スプーンをぎゅっと握っている。
あぁ、本当に可愛い。
「明日は学校行っていい?」
「今日一日、ゆっくり休んだらな。……人にうつすと早く治るって言うから、兄ちゃんにうつしてみるか?」
「?」
口唇の端っこについたカラメルソース。
「ぎゃ!」
直接舌で舐め取ったら、真っ赤になって殴られた。
「この前まではチューもし放題だったのに」
「もうしないの!」
だんだんと、こういう羞恥心も芽生えているらしい。
高校生あたりになれば、彼女なんかできて連れてきたりするのかもしれない。
それは……かなり、辛いけど。
……かなり、想像するだけでも辛いけど。
「おっきくなったら兄ちゃんのお嫁さんになってくれるんじゃないの?」
「男どーしは結婚できないんだよ。それに、オレはお嫁さんじゃなくてサッカー選手になるの。それで、可愛いお嫁さんにご飯作ってもらうの」
「そっかぁ、残念」
「兄ちゃんも好きだよ?」
抱き締め倒したいと思ったけれど、そこにタイミングよくコホコホと咳をされてぐっと堪える。
「ありがとよ。飯も食ったし、しっかり寝よう」
「うん」
当然のように自分の腕に抱かれる姿も可愛らしい。
まだ軽々と抱き上げられる体が、独り立ちするのはもうちょっと先だろうか。
嬉しくもあり、切なくもあり。
「今日は兄ちゃんがずっと一緒にいてやるからな」
「うん」
まだまだ甘えたがりで淋しがり屋なところは抜けないらしい。
布団に転がしてしっかり肩まで布団をかけてやると、その隙間からおずおずと手を伸ばしてきた。
「ちょっと待ってろよ。兄ちゃんもちょい寝るから、布団敷く」
朝帰りが応える歳ではないが、幾らでも眠れる年齢ではある。
仕度して隣に転がってから、伸ばされたままの手を握った。
あたたかく柔らかい手でぎゅっと握り返される。
満足そうに目を細める。
「今度ね、また試合があるんだ」
「そうか」
「レギュラーになれるように頑張るんだ」
「なれるさ、きっと」
「最初はさ、オレのこと女の子みたいだって言う奴を負かしたり、すげぇじゃんって言わせるのが嬉しかったんだ」
「うん」
「最近は、違うんだよ。もっと上手くなりたくて、オレより上手な奴がいたら、そいつに負けたくなくて頑張ろうって思うんだ。オレがゴール入れたら、兄ちゃんもみんなも喜んでくれるでしょ? それがね、すっごく嬉しい」
「今度の試合も見に行くよ。お前、どんどん上手くなってるもんな」
「ほんと?」
「本当に。でもな、小さい頃から一つのスポーツばっかりするよりは、いろいろ試してみた方がいいんだってさ。いろんなスポーツをして、いろんな筋肉を使ってだな、まずは基礎体力を……」
握っていた小さな手の力が、くたりと抜けていく。
すぅすぅと小さな寝息をたてて、英介は眠っていた。
しっかり食べたのと薬が効いたのだろう。
顔色も悪くない。
安心して、頬にかかる髪の毛を払ってやる。
ずりずりと擦り寄ってくる姿は小動物のようで、庇護欲を駆り立てる。
俺の手なんか振り払って、走り出す日がいつか来る。
きっと、そう遠くない未来に。
いろんな苦しみや悲しみも味わうだろう。
それを避ける術はない。
できるだけ笑っていてと願う。
綺麗で可愛い、キラキラした笑顔を忘れないで。
お決まりのように江口家長男が風邪をひいて寝込むことはなかった。
何故なら彼は、
「救いようのない馬鹿だからよ」
と、成長した江口家の末っ子は言い切った。
エロネタとどっちにするか悩んだ末にこんな。