サッカーシリーズで30のお題
16:涙


 バタバタバタバタと、夥しい血が滴った。
「……げ」
 駆けつけたドクターはそんな声を出した。
 流血した選手は出血が止まるまでピッチには入れない。
 治療に時間がかかるとみたのか、審判はゲームを再開する。
 接触した相手チームの選手が、すまんと短く謝ってピッチに戻っていった。
「薫さん、痛いんだけど」
 鼻にタオルを押し付けられて、高山は呻いた。
「はぁ? まさか鼻骨骨折かよ」
「……かもしれない」
 顔を盛大に歪めている高山の前で、同じように矢良の表情も歪む。
「駄目か?」
「……血、止まらない」
「駄目だな。駄目なんだな、こんちくしょう」
 矢良はベンチに向かって手を交差させてバッテンマークを送る。
 いい流れだったのにと言わんばかりの矢良の言葉はドクターらしくはないが、矢良薫らしく、高山は口元だけで笑った。
 ダラダラ流れる血を吸ったタオルを再び鼻の下に当てて、高山はベンチに戻る。
 戻りながら嫌なことを思い出した。
 鼻骨骨折の治療の恐怖を。


 そして試合中のスタジアムを後にして運ばれた病院で、高山は横になるように矢良に言われる。
「震えてるね、ベイビー」
「そこに立っているのが薫さんじゃなかったら、もうちょっと平常心でいられます」
 以前、高校生の時にも経験があるこの状況。
 思い出すと震えずにいられなかった。
 体の下にはビニールシート。
「ぶっちゃけ勘弁してくれって言いたいんですけど」
「そのままの顔だと男前の顔が台無しになるぞ。英介が悲しむ」
「あいつは俺の顔に惚れたんじゃないと思います」
「そりゃそうだが、歪んだ鼻よりは真っ直ぐな方がいいだろう」
 明らかに楽しそうな矢良に、高山はより陰鬱な気分になる。
「痛いんで、さっさとしてください」
 覚悟を決めて天井を見上げた。
 高校生の時にも麻酔は使用できないと言われ、そのまま治療に及ばれた。
 今回もそうなのだろう。
 手足をそれぞれがっちりと掴まれて、矢良が悪魔のような表情で覗き込んでくる。
「ホナ、いきますか」
 クルクルと矢良の手の中で金属の棒が二つ煌めいた。
 さながらホラー映画。
 これから先の選手人生で、英介の鼻の骨が折れませんように。
 もしもそうなっても、矢良の治療だけは避けてやる。
 そんなことを願う高山の口に、タオルが突っ込まれる。
「レディー、ゴゥ」
 目の前が真っ赤になる。
 骨折の痛みをはるかに上回る痛み。
 出血と同じような勢いで溢れる涙は、生理的なものだと思いたい。
「よし、男前に戻ったぞ」
 矢良の満足そうな声が遠くで聞えた。


「うわぉ、フェイスガード!」
「バッドマンだー」
「怪傑ゾロだって」
「変態仮面ー」
「触らないでください!」
 無遠慮なチームメイトは、鼻を覆うフェイスガードをつけている高山を話題の中心にぶち込んで、下手をすれば鼻に手を伸ばしてくる。
 骨折よりもフェイスガードの方が話題になっているのはどうだろう。
 ちょっとは心配もしてもらいたい。
「こっちは骨折してるんですよ」
「だって面白いじゃん。ソレ」
「面白くねぇですよ。治療は冗談みたいに痛いし、視界も狭まってやり辛いし」
 忌まわしそうにフェイスガードのずれを直した。
 治療後には熱が出て、一晩中うなされた。
 悪夢に出てきたのは、我が神戸RCの誇るマッドドクターだった。
 血の海の中で高笑いする矢良薫の映像はなかなか壮絶だった。
「おはよーございまーす」
 そんな挨拶とともにやって来た英介は、既に練習着姿だった。
「おはよー。早いなぁ。もうひとっ走りしてきたのか?」
「うぃーす。軽くアップ程度で」
 汗を吸ったアンダーシャツを脱いで、給水する。
 汗を拭っていた英介の視線が高山を見つけた。
「うわぁ」
 奇妙な声が上がった。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「だって昨日、薫さんが電話してきて、タカ泣いてたんだぞ〜って言ってたけど?」
 あのマッドドクターはマッドなだけじゃなく、人間としてバッドだ。
「麻酔なしで折れた鼻をまた無理に曲げるんだぞ。痛くて当然。涙も出てくる」
「げ、マジで?」
「マジマジ。俺も昔やったけど、鼻に棒突っ込んでゴキって言わせるの。俺も泣いた」
 英介は自分の鼻を押さえた。
 前線に飛び込んでいくプレースタイルを持つ英介は自然とマークもつきやすい。
 だが幸いなことに、今までのサッカー人生で鼻骨骨折という地獄だけは味わっていないらしい。
「でもタカは得だよな」
「何がですか」
「男前は何をしても似合う」
「……またそういうことを」
 揶揄の攻勢に既にうんざりしている高山は、フェイスガードで大半が隠れた顔を歪めた。
 もともと表情の変化が少ないうえにフェイスガードでは、鉄火面に近い。
 負傷者をこれ以上からかうのもかわいそうだと思ったのか、話題は別の方向にむき選手は着替えを終えてゾロゾロとロッカーを出て行く。
「大丈夫? マジで」
「大丈夫だって。暫らくヘディングは勘弁願いたいけど」
 残っている英介はアップで流した汗を拭って、新しいアンダーシャツを着込んでいる。
 フェイスガードをつけているとはいえ、威力のあるボールを受ければせっかく治した骨がまたぺしゃんこだ。
 それに恐怖心を克服するのにじかんが掛かる。
「……心配してんの?」
 二度も同じことを聞く英介をからかうつもりはなく、ただ単に珍しいと思って尋ねてみる。
「してねぇよ、ばぁか。あんなんしょっちゅうじゃねぇか。一々心配なんてしてたらサッカーできません」
 辛辣な言い方は逆に何か隠しているようで、高山は胸中で笑う。
 サッカー選手だからな、と思う。
「でも泣くほど痛いのはかわいそうだったかな」
「あー泣いた泣いた」
 あの時の痛みを思い出すとそれだけで泣けてくる。
「なんてったって目の前には薫さんだからな」
 英介が笑った。
「俺の前だと泣かないだろうな」
「勿論って言いたいけど、それも自信ないくらい痛いんだって」
 思わず苦笑が浮かぶ。
 そんなに、と英介は再び自分の鼻を押さえている。
「無茶しないようにしよう」
 そして、できない決意をする。
 ジャージのジッパーをしっかり引き上げて、練習再開の準備は万端。
 ロッカールームを出ようと踵を返しかけた英介は、思い出したように立ち止まって高山の前に戻ってくると、悪戯っぽく目を輝かせた。
「キスしても大丈夫?」
 今度の大丈夫? には前書きがあった。
 それが聞きたかったのか。
「平気」
 笑って、高山は屈み込むが、フェイスガードの違和感は拭えない。
 上手く距離と角度をとれないでいると、
「待って、タカ、そのまんま」
 小さな声で英介が囁く。
 閉じかけた目を開くと、いつもよりも狭い視界の中で自分を見つめてくる英介が背伸びをしたところだった。
 首を少し傾げて鼻をよけ、軽く口唇を触れ合わせる。
 一瞬の口付け。
 さぁ、今日も怪我しないように頑張ろう。
 さっさと身を翻しスパイクを手にロッカールームを出て行く英介は、高山にこんなことを呟かせた。
「鼻折るのも悪くねぇな」


2003/6/3
鼻の骨折の治療については、資料が宮本ツネさんのエピソードを拾ってきただけなので、適当です。フェイスガードとか、サッカー小説ならではの小話かなと思って。
流血して、ピッチサイドで治療して包帯巻いた状態でピッチに立つ選手は視覚的にかっこいいと思う。
涙っていうお題だけど、色気のない話だ(苦笑)

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