自動販売機がある階は、英介の部屋の上の階。
一つ階を上がったところで、もう帰り道がわからなくなった。
ただでさえ広い合宿所だ。
方向音痴の英介が一人で行って帰れるわけがなかった。
「……あれ?」
宿舎には他の小学校の小学生もうろうろしているが、人見知りの英介が尋ねられるわけもなく。
どうしようと内心おどおどしながら、同じ場所を何度も何度も行き来していた。
まずは下の階への階段を見つけないことにはどうしようもないのだ。
こんなことだったら、どんなに方向音痴とからかわれようが同室の友達を一人でもいいから連れてくればよかった。
冷たかったジュースの水滴が、Tシャツに沁みをつくる。
元々頑丈な方ではない涙腺が、ついにじくじくと痛みだしてしまった。
本当にどうしよう。
「……にぃちゃん」
知らず、自分のピンチには必ず救いの手を差し伸べてくれる兄を呼んでいた。
小学校五年生。
まだまだ甘ったれな英介は人見知りも激しく、すぐにムキになってしまったりと、集団生活に適応しきれない部分がある。
泣き虫で甘えん坊な弟がサッカークラブの全国大会で親元を離れることを、兄は随分と心配していた。
試合は観に行けるが、合宿所まではさすがの兄の手も及ばない。
この状況を勲が見ることが出来ていたなら、すぐにでも駆けつけただろう。
「だいじょうぶ?」
実家から遠く離れた東京の合宿所で英介のピンチに顔を出したのは、兄ではなく、見知らぬ少年だった。
大会に参加しているクラブの子だろう。
やはり英介と同い年くらいの少年だったが、英介よりもずっと体が大きい。
「どうした?」
大きいけれど、優しく問い掛けてくれる。
心配そうに顔を覗き込んで、少年は英介の前に佇んだ。
「部屋……わかんなくなっちゃった」
消え入りそうな声を聞き逃さず、少年は、
「そっか。迷子か」
と言った。
随分大人びている気がする。
六年生だろうか。
「部屋の番号、わかる?」
「……にひゃくはち」
「下の階か。連れてってあげるよ」
おいで、と少年が手を差し伸べる。
極自然に英介はその手をとった。
自分よりも大きな手がぎゅっと握って、引いて歩いてくれる。
温かい手は兄の手よりも小さかったけれど、英介を少しだけ安心させた。
階段はどこからか現われたように英介の前に広がって、二階へ下り、角を一つ曲がると自分の部屋番号のプレートを発見した。
あっと言う間の帰還だった。
「ここ?」
英介が頷けば、よかったねと白い歯を見せて笑って、手を離した。
その笑い方が兄に似ていて、ホームシックに襲われそうだった英介の気持ちはほわりと温かくなる。
「……じゃあ、おやすみ」
手を振って去ろうとする少年に、英介はありがとうと言ってペコンと頭を下げた。
最後にはなんとか笑顔で応えることができたことにほっとして、英介は少年にもらった安堵と缶ジュースを抱えなおした。
小学生でごった返す宿舎は、さながら修学旅行。
今日の友は明日の敵状態ではあったけれど、子供たちはわいわいと夏の思い出をつくっていた。
パタパタと廊下を行き来する少年達の顔はどれも笑顔だが、タカはそうではない少年を前方に発見した。
今にも泣きそうな……女の子?
少年サッカーは女の子も混じるから、ここにいても不思議じゃない。
それにしても小さな子だった。
こんなんでサッカーできるのかよと思うほどに。
大きな瞳から涙が今にも零れそう。
ついつい声をかけてしまった。
途方に暮れたように、迷子であることを告げる。
タカが案内してやると言っても、なかなか表情は晴れなかった。
もう帰りたいよと表情で訴えている。
あまりに頼りなくてつい手を引いた。
女の子かもしれない相手に、こんな風に強引に触れることはないのだけど。
辿り着いた部屋の前。
ほんの少し安堵の色が見えた。
別れ際、なんと言っていいのか迷ってからおやすみと言ってみた。
背中を見せる直前に、勇気を振り絞って告げられた、
「ありがとう」
頬をほんのり染めて、ほわんと笑った。
ものすごく、かわいい笑顔だった。
「……ぅ、ん」
それだけ言うのが精一杯で、何故だか急いで駆け出した。
階段を一段飛ばしで上がっていると、どこかのチームのコーチに転ぶなよと注意された。
それでも駆け足で部屋に戻って、六年生のキャプテンに聞いてみた。
「なぁ、すっげぇ小さい女の子、何県の代表か知らん?」
参加している女の子はそんなに多くはないから。
けれど、あの子に該当する子は見つからなかった。
「……やべぇ」
呆然と、英介は呟いた。
自販機から部屋に帰ろうとしたのに、また自販機の前に戻ってきてしまった。
一度、こうなったら誰かの助けがなければ部屋に戻れない。
その辺の部屋をノックすれば同僚達はいるのだが、笑いものにされるのは必至。
そんなのはプライドが許さない、と英介は案内図の前で古畑任三郎ポーズをとる。
「迷子のお迎えに参りました」
今日こそ自力で生還を、と息巻いていたのに。
振り向けば呆れ顔の高山がいて、やれやれと言うように腰に手を当てた。
「お前は本当に、ほんっとーに方向音痴だな」
「うるせぇな。もう三分待ってりゃ、自力で帰れたんだよ」
「英介を合宿所でパシリに使うのは二度手間だから、やめとけって言ったんだ」
こいこいと手招いて、英介が発見できなかった階段へいとも簡単に導く。
いつだって英介のお迎えは高山で、何故か彼は迷子の発見に長けていた。
「タカ」
「あ?」
先に数段下った高山を呼び、振り向かせた。
「いっつも迎えに来てくれて、ありがとね」
へへっと、可愛い笑顔。
「どーいたしまして」
ちゅっと小さな音を伴った口付けは、口唇ではなく額に触れた。
「どこにいたって迎えに行くよ」
もしかしたら。
もしかしたら。
サッカーで繋がる僕等には、こんな出会いだってあったかもしれない。
2004/4/8
IF編、みたいな感じで。本当にあったかどうかはわからないコンタクト。
英介の成長を書きたかったのかもしれません。