バイクが地面に倒れたまま滑っていく。
奇妙な光景のその先に、大切にしてきた存在が呆然としゃがみ込んでいた。
『英介!』
叫ぶこの声は既に手遅れで、英介の体はバイクと公園の花壇との間に挟まれて、一瞬視界から消えた。
嘘だと思った。
夢だと思った。
時間を巻き戻したいと思った。
動かない小さな体。
アスファルトに流れ出した血。
視界の端に、赤く汚れたサッカーボールが転がっていた。
「兄ちゃんっ、兄ちゃん、起きろよ!」
何よりも大切な人の声が、苛立ったように自分を呼んでいる。
怒らせている。
起きなきゃな、と勲は意識を浮上させる。
「……ぉう、起きたぞ」
「起きたぞじゃねぇよ。目ぇ、開けて」
目蓋を持ち上げると、不機嫌顔の英介がいた。
「どうした?」
寝起きの掠れた声がでる。
英介はますます不機嫌になっていく。
顔に出るからすぐわかる。
「どーしたじゃねぇ、馬鹿兄貴! 兄ちゃんがうなされてるから心配になって起こしたんだよ」
怒鳴り声を聞きながら起き上がって状況を確認してみる。
そうそう、ここは自分のアパートだ。
そんで、自分が寝たのはリビングのソファーだ。
可愛い弟が遊びに来ていて、嬉しいことに夕飯を作ってくれることになった。
寛いでいろと言うからちょっと横になったつもりが、眠りこけていたらしい。
「心配してくれたのかー。嬉しいなー」
目の前の腰に抱きつくと、小さい頃から変わらない反応で押し退けようとする。
「いい匂いがするー。晩御飯は何ですか? 新妻さん」
「誰が新妻だ。飯は炒飯とサラダと中華スープだよ」
「で、お前は何してんの?」
「だから、兄ちゃんが変な声出してるから心配になって来てみたんだって」
台所からはトントンと包丁を使う音がしている。
あぁ、忘れていた。
可愛い弟にはツレがいたのだ。
そのツレが、甲斐甲斐しく恋人の兄の部屋の台所で夕飯の支度に励んでいるわけだ。
「変な夢見た?」
怒ってはいるけれど、それよりも心配してくれているのだろう。
「怖い夢見たよ」
「どんなの?」
抱きついたままの勲の頭を、英介はあやすようにポンポン叩いている。
案外その手付きが優しくて、勲は嬉しくなる。
ブラコンのレッテルなんてどんとこいだ。
「昔の夢」
ポンポンと叩くリズムが変わった。
その夢に、自分が絡んでいるとわかったのだろう。
鈍いようで鋭いところがあるから。
「ん〜、英介かわいい〜」
自分にとっても辛い記憶だが、英介は当人だ。
病院のベッドの上で、ぼんやりと外を眺めていた横顔を忘れない。
あんな顔を、もう二度とさせてはいけないと思ってきた。
リハビリを怖がってベッドから降りようとしなかった英介が、ある日を境に突然歩こうとし始めた。
痛みも焦りも我慢して、歯を食いしばりながら歩こうとする姿を忘れない。
頑張った先に再びピッチに戻れるという保証があるとは限らない。
恐怖もあっただろうに、英介は決して弱音を吐かなかった。
今ではそんな過去を背負っている面影なんて微塵も感じさせない。
明るく笑って、ピッチの上で大活躍している。
緑の芝生に根を張るがごとく堂々と立っている。
かっこいい奴だと心底思う。
可愛い弟だと、永遠に思い続けるだろう。
「ぎゃー、ケツ触んな! セクハラ兄貴!」
「昔は触りたい放題だったのにー! 一緒に風呂も入ってたのにー!」
兄弟喧嘩のようなものを聞きつけて、台所から高山が顔を出した。
「おやすみのチューとか、おはようのチューとかもしてくれたのにー」
「幾つの時の話だよ!」
「怖いテレビ見た時、泣きべそで兄ちゃん一緒に寝てもいぃいぃ? なぁんて言ってくれたのになぁあああ」
「ぎゃー!」
「女の子に生まれてたら兄ちゃんのお嫁さんになれたのにぃとか」
「言ってねぇよ、そんなこと! 語尾伸ばすな、気持ちわりぃ!」
「俺が友里だけ風呂に入れたらヤキモチ妬いて、友里と喧嘩したこともあったのにぃ」
「もう、うるさい! その口閉じろ!」
兄弟のスキンシップにしては多少過剰なのは江口家にとって日常茶飯事だが、高山にとっては例え兄弟だとしても面白くない接触。
「兄弟仲睦まじいところ申し訳ありませんが」
彼にしては、やや大きめな声が飛び込んでくる。
台所に背を向けていた英介は驚いて振り返る。
「飯、なんスけど」
高山と親しくない者にでもわかるだろう。
今の彼の機嫌が決して良くはないことを。
さっきまでの会話を聞かれた英介は赤くなり、一方的にしろなんにしろ兄弟愛を見せつけることに成功した勲はニヤリと笑う。
一度強く頭をはたいて、英介は怒りながら台所に引っ込んだ高山を追う。
誰よりも記憶にこだわりつづけているのは自分じゃない。
友里がここにいれば、呆れた声でそう言うだろう。
そうかもしれない。
きっと、そうなんだろう。
あの忌まわしい事故の記憶は、しっかりと勲のトラウマになっているらしい。
英介の寝顔を見るのが苦手になった。
あの寝顔を見ていると、思わず手を口元に翳して呼吸を確かめてしまう。
触れて、心臓の鼓動を感じたくなる。
それを英介も察しているのかもしれない。
だから溢れんばかりの生命力を勲に示そうと、頑張ってくれているのかもしれない。
そうすることで、勲が安心することを知っているのかもしれない。
絶望の淵から、少しずつ記憶は塗り替えられて、希望の光に。
カウンターの向こうに笑顔がのぞく。
俺は幸せだ。
2005/3/26
英介の過去話にしようかと思ったのですが、兄視点で。