お兄ちゃんが彼氏を連れて帰ってくるらしい。
……おかしいよね、ちょっとおかしいよね。
文法はあってると思うんだけど、代名詞違うよね。
でもその通りなんだから仕方ない。
ちょっと前に週刊誌にこんな見出しが踊っていた。
『神戸RCの凸凹コンビ、同性愛関係発覚!』
凸凹の凹の方が、私の実の兄、英介だったりする。
凸の方は高山浩二サン。
何度かうちにも来たことがある。
今時珍しい硬派な二枚目。
どっちも正真正銘立派な男性。
でも、同性愛関係が発覚しちゃったんだから仕方ない。
騒がれた当初はうちにも記者なんかが来てたけど、お母さんが追っ払ってた。
あの子が好きって言うんなら好きなんでしょう。
それでいいじゃないですか。
とかなんとか。
で、事実関係を聞こうと電話をすると、
『好きになっちゃった』
とか言うから本当で、連れて帰るのはやっぱり高山サンなんだろう。
えっちゃんは一つ年上のお兄ちゃんだけど、私としては兄なんて感覚が一切ない。
顔もよく似てるから、周りからは『双子なの?』なんて聞かれることはしょっちゅうだった。
明るくて素直で元気で、サッカーばかり追いかけてるえっちゃんは可愛くて、綺麗。
頑張ってる姿はかっこいいし、気を抜いている時はホント犬みたいでかわいい。
妹の私に勝てないとこも、ちょっと馬鹿なところも、鈍いところも、無防備すぎるところも好き。
どっかの馬の骨みたいな女にとられるのは嫌だなぁなんて考えていたら、高山サンが手をつけたらしい。
高山サンなら私的には大賛成。
軽い女がえっちゃんとくっつくのも、年上の女がえっちゃんを弄ぶのも想像するだけで嫌だった。
だいたい、サッカー馬鹿のえっちゃんがまともに恋愛なんてできるわけがない。
だから、高山さんを選んで正解!
サッカー絡めばあの人は本当に大丈夫だから。
それに、高山さんとえっちゃんなら、絵的に綺麗だなと思うんだけど。
「楽しみね〜」
夏の僅かなインターバルを利用して帰るとえっちゃんから連絡があってから、お母さんはそわそわそわそわ。
高山さんが来るのは初めてじゃないけれど、恋人だと宣言されて来るのは初めて。
娘さんを僕にください! じゃないけど、それに近いものがある。
「浩二くんも緊張してるのかもねぇ」
お父さんはのんびりと新聞を読んでいる。
「来なくいいんだけど」
その正面で、困った人が呟いた。
「まぁだ勲はそんなこと言ってるの? いいかげんにしなさいよ。英介が選んだ人じゃない」
「……英介が選んでも選ばなくても、俺は嫌だ」
ガキじゃねぇんだから。
もう一人の兄、勲は私の十一歳上。
えっちゃんと私とは歳が離れている。
そのせいなのかなんなのか。
彼は兄馬鹿で重度のブラザーコンプレックスを患っている。
私に対してはそうでもないのに、えっちゃんに対しては本当にヤバイ。
大手スポーツメーカーに勤めるエリートなのに、ちょっといっちゃってる。
えっちゃんが神戸レインボーチャーサーに入団を希望した瞬間から、転勤を願い出て神戸について行った。
今日もえっちゃんが高山さんを連れて帰ると言うから、わざわざ有給をとって帰省した。
中学生の時にえっちゃんが初めてラブレターをもらってきた時なんかは、このまま何処ぞの女にくれてやってなるものかと実の弟に夜這いをかけた。
私が返り討ちにしてやったんだけど。
ホラーが嫌いなえっちゃんに、怖い話を聞かせて添い寝したこともある。
えっちゃんのファーストキスの相手は両親を差し置いて、兄である彼だ。
高校生になったえっちゃんと一緒にお風呂に入ろうとして、頭から水をかけられて三日寝込んだのも彼だ。
少しでも帰りが遅くなると心配して迎えに行く。
私が迎えに来てよと電話をしたら物凄く嫌々くるくせに、えっちゃんは積極的に迎えに行く。
「いいじゃん。高山さんは絶対に大事にしてくれるよ」
「友里は兄貴がホモでもいいのか」
「勲ちゃんなんかブラコンじゃん」
「いいじゃない。浩二くん、真面目で」
「俺も真面目なんだけど」
「同じ真面目でも、英介は浩二くんみたいな硬派がいいんですって」
黙っていれば地味な男前で好青年で仕事もできるからもてるはずの勲ちゃんの目つきが悪くなっていく。
ヤバイなぁと思っていたら、ワンワンと庭でリベロが咆えた。
その泣き声はすぐに変化して、遊んでと訴えるものになる。
「あ、帰ってきた」
庭には高山さんのスカイラインが停まったところだった。
ふとリビングを振り返れば、ますます目が据わってきた勲ちゃん。
お母さんはわくわくと玄関へ向い、お父さんは新聞を畳んだ。
「リベロ〜!」
そして庭では、愛される我が家の次男坊の声。
セントバーナードのリベロはいつもは大きな体でのんびり歩くのに、えっちゃんへは駆け寄ってじゃれている。
連れてきたのはやっぱり高山さんで、ジーパンにTシャツ姿と何でもない服装なのにかっこいい。
かっこつけないクールというのか、うちに男どもにはないかっこよさ。
「おかえりー」
玄関でお母さんの嬉しそうな声。
ただいまと言うえっちゃんの声は久々で、私もちょっとわくわくする。
「お邪魔します」
礼儀正しい挨拶は高山さん。
「いらっしゃい。ずっと運転してきたの、疲れたでしょ。ゆっくり休んでいってね」
玄関が賑やかになって、声は近付いてくる。
「勲ちゃん」
「なんだよ」
「久しぶりにえっちゃんに会うのに、その顔はないんじゃないの?」
ちらりと私の方を見て、次にリビングに顔を出したえっちゃんに向けた顔は笑顔だった。
「おかえり〜」
アホめ。
「ただいま。あ、友里、久しぶりー」
「うん。久しぶり。私はテレビで見てるんだけどね」
えっちゃんは変わらない。
相変わらず可愛い。
ファーストステージで残した悔いのせいか、まだ少し戦う顔を残してはいるけど。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げたのは高山さん。
「こんにちは。どうぞ、座ってください」
「あ、これ土産なんだけど」
「なになに?」
「行列のできるケーキ屋のチーズケーキ。マジ美味いぞ、それ」
「やった! お母さん、ケーキだって。お茶入れよう」
「まぁ、悪いわねぇ。コーヒーがいい? 紅茶?」
「あ、コーヒー。タカもコーヒーでいい?」
私たちがわいわいやってる間も、勲ちゃんは面白くなさそうに座ったまんまで、リベロが仕方ないなと言う様子で相手をしてあげている。
「なんだかお嫁に言った兄弟の帰省みたいだね」
その兄の耳元で言ってやると、ざっくざっくと眉間に皺を刻んだ。
ようやくそれぞれリビングのソファーに落ち着いて、お茶とケーキを前にする。
リベロはえっちゃんの足下に座り込んだ。
「あの」
高山さんが固い顔で切り出した。
「週刊誌とかの件で、ご迷惑をかけて本当に申し訳ありませんでした」
そして頭を下げる。
かっこいい。
ドラマみたい。
「まぁまぁ。いいのよ、浩二くん。迷惑って程の迷惑じゃないんだから大丈夫。気にしないで」
「や、でも、ちゃんと挨拶すべきでした。すみません」
高山さんは物凄く真面目な顔で、いや、普段からこの人は真面目そうな顔をしているんだけど、それにも増して真剣な目をして父さんと母さんを見る。
「改めて、言わせてください。俺は英介のことが好きです。男同士だけど、好きになったんです。そのことを、英介の家族にも認めてもらいたいんです」
本当に、ドラマみたいだった。
『タカは潔いんだよ。そこが凄いんだ。そうやって、進んでいけるんだ』
えっちゃんが言っていた、そのままの人。
えっちゃんは、ちょっと驚いた顔をして、すぐに嬉しそうに目を細めた。
あぁ、好きなんだねって思うような顔。
初めてみた。
そんな顔。
それは確かに、特別な人に向ける顔だった。
「かっこいいね、浩二くん」
お母さんがふふっと笑った。
「例え反対したとしても、英介が折れるわけがないからね」
「浩二くん、しっかりしてるから任せられるわ」
騒ぎがあったころ、お母さんが言ってた。
えっちゃんの我侭なんて、嬉しいわと。
リベラルすぎるよ。
もうちょっと悩みなよ。
私が結婚しますって男の人連れてきてもあっさり承諾されそう。
そりゃその方がいいんだけど、ちょっとは迷ってもらいたい。
「ありがとう、ございます」
ほっとしたのが高山さんの口調に滲む。
「ありがと」
ちょっと照れたように、えっちゃんがお父さんとお母さんに言った。
「も〜、改まった顔して言われるからびっくりしちゃったわ」
うちの誰よりも楽観主義なお母さんは、ニコニコ笑って、
「ねぇ、勲」
よりにもよって勲ちゃんに話を振った。
うちのお母さんは、明るいから若くも見えるし、実際ぱっとした顔をしてるから娘の私が言うのもなんだけど美人なんだけど、えっちゃんを上回る楽観主義。
そんで、ちょっと鈍感。
勲ちゃんはむすっとしたまま、高山さんを一睨み。
高山さんは睨み返すわけにも行かず、ただ物凄く居心地悪そうに勲ちゃんの視線を受け止める。
「……………………」
「……大事に、します」
しどろもどろで高山さんはやっとそれだけ言う。
勲ちゃんは変わらず無言の威圧をかけている。
顔つきが別人になっている。
「大事にされるよ?」
そんな勲ちゃんの顔を覗き込んで、えっちゃんは言う。
いつもいつもそうだった。
勲ちゃんの心配を、えっちゃんは無邪気に跳ね飛ばす。
小学校で女の子みたいだといじめられた時も、えっちゃんよりも一回り大きな子ばっかりのサッカークラブに入った時も、明るすぎる地毛を染めて来いと怒られた高校生の時も、代表に選ばれた時も、遠征も、スランプも、プロ入りも。
どんなに心配しても、最後には一人で踏ん張って乗り越える。
だから勲ちゃんはますます心配を募らせる。
その心配ももうしなくて大丈夫だからと、えっちゃんは言うんだ。
高山さんが傍にいるからって。
勲ちゃんには預けなかったものを、高山さんには簡単に預けて委ねて。
そして、高山さんの背負ってるものも預かって委ねられて、受け入れて。
幸せそうに笑って。
「男同士だし、サッカーして生きていくから離れることもあるかもしれないけど、大丈夫って自信あるし。タカのこと信じてるし、信じてもらえてるよ」
幸せそうで、綺麗な笑顔だった。
恋をしたら人はやっぱり綺麗になる。
でもえっちゃんらしさは健在。
こんな風に、なかなか言えないと思う。
信じてるとは言えるけど、信じてもらえてるなんて言葉。
私には言えない。
えっちゃんと高山さんだから。
恋をして、一緒に戦う仲だから言えるんだろうな。
「……ぅん」
勲ちゃんは、切なくなるような返事をした。
夕食後に高山さんは、うちから車で四十分ほど離れた実家に顔を出してくると行って出て行った。
えっちゃんは勲ちゃんを慰めようと、一緒にリビングでゲームをしている。
私は欲しい雑誌があったから、原付でふらりとコンビニに行った。
そこに高山さんがいた。
「あ」
驚いたらしい。
わかりにくい、この人。
手には歯ブラシとサッカー雑誌。
「どうも」
私も雑誌を手にしてレジに向かう。
こんな機会、もうないかもしれないから声をかけてみた。
「ちょっと、そこで話してもいいですか?」
高山さんは戸惑った顔で頷いた。
ガラガラのコンビニの駐車場の車止めに座って待っていると、小さな袋を下げた高山さんが出てきて、隣の車止めに腰をかけた。
高山サンは恋人で同僚の妹にどう接していいのか戸惑っている。
困惑した顔のまま、どうぞと冷たいカフェオレを差し出した。
えっちゃんが好きなメーカーのそれに、ちょっと笑いが込み上げる。
「勲ちゃんのことなんですけど」
「うん」
「反対してるようで、そうじゃないですから」
高山さんは返事に困っている。
「勲ちゃん、本当にえっちゃんのことが心配なんですよ。ブラコンだから」
笑うかなと思ったら、真面目な顔で聞いている。
「えっちゃんが、中学の時に事故に遭ったの、知ってますよね?」
高山さんは頷いた。
中学生のころ、バイクに轢かれた。
草サッカーの帰り。
公園の前。
解けた靴紐を結ぼうとしゃがみ込んだところに、スピード違反で二人乗りのバイクが突っ込んできて、えっちゃんを跳ねた。
その瞬間を、帰りを心配して迎えに行こうとしていた勲ちゃんは見てしまった。
「私も、すぐに病院に行ったんです。勲ちゃんは先に救急車で行ってたから。手術室の前で、勲ちゃん凄く震えてて、泣いてて。私、そっちにびっくりしちゃったんです。えっちゃんが事故に遭ったっておまわりさんに聞いても、看護婦さんに危ないって聞いても実感してなかったのに、勲ちゃんがえっちゃんの血で汚れた服のままで泣いてるのを見て、本当に事故ったんだって思えたんですよね」
『英介』と、奮える声でずっと呼んでいた。
私の悲しむ分まで勲ちゃんが悲しんでいる気がした。
えっちゃんが死んだら、勲ちゃんも死ぬかもしれないと思った。
「バイクに乗っていた人は公園の植木に突っ込んで骨折で済んだんです。それで謝りにきたんだけど、勲ちゃんがその人たちを殴っちゃって。鼻の骨が折れるくらいに殴って、こんなに怒れるんだってくらいに怒って」
お父さんとお母さんが必死になって止めていた。
人なんか殴ったことがないはずの拳はぶるぶる震えていた。
泣きながら、罵っていた。
英介に何かあったら殺してやるって。
サッカーしか見えない英介から、サッカーさえも奪うのか。
お前らなんかに、英介の将来を奪う権利があるのか。
そのことを、えっちゃんは知らないのかもしれない。
知らないふりをしているのかもしれない。
「リハビリで立つことを怖がったえっちゃんを、慰めて励ましたのも勲ちゃん」
立ちたくないとえっちゃんは泣いた。
立てなかったらどうしようと。
私が聞いた唯一の本気の泣き言。
大丈夫だからと、勲ちゃんは何百回と言っていた。
えっちゃんが立ったのは、日本代表の試合をテレビで観た次の日だった。
俺の励まし意味ねぇじゃん。
嬉しそうに勲ちゃんが茶化したのを覚えている。
「子供みたいなもんなのかもしれないです。勲ちゃんにとっての、えっちゃんって」
高山さんは相槌も打たずに聞いている。
反応はないけど、聞いているとわかる空気。
「でもひょっとしたら真性のブラコンかもしれないです」
やっと喉を振るわせるように笑った。
えっちゃんが好きだと言っていた笑い声は、確かにちょっとドキっとする声だった。
「俺は……勲さんや、友里ちゃんや、英介のお父さん、お母さんに大切にされて育った英介が好きなんだ」
頭を掻きながら照れたように言う。
「英介を生んでくれたご両親や、怪我した英介を支えてくれた勲さんや、勲さんの夜這いから英介守ってくれた友里ちゃんに、感謝してる。これから、俺も……、その、英介の家族に感謝されるような、そういう……存在に、なりたいと、思ってる」
硬派な顔して、一生懸命言葉を紡ぐ。
じん、と胸の奥があったかくなる。
この人に、えっちゃんを幸せにしてもらいたい。
この人だから、えっちゃんは幸せそうに笑えるんだ。
私は、えっちゃんがサッカーするの、本当はそんなに好きじゃなかった。
サッカーにえっちゃんをとられるようで、好きじゃなかった。
サッカーのために、死ねちゃうんじゃないかって思って、好きじゃなかった。
もっと休みなよと思ってた。
サッカーしてないえっちゃんだって、愛されるんだよって言いたかった。
えっちゃんが、サッカーを続けたのは、苦しいリハビリ乗り越えてでもサッカーを続けたのは、この人に会うためなんじゃないかと思った。
これからのえっちゃんには、この人がいるんだ。
フィールドの上でも、そうじゃない場所でも。
家族に向ける信頼と同じくらいの信頼を、託し合えるこの人が。
「えっちゃんのこと、勲ちゃん以上に大切にしてくださいね」
「はい」
「妹の言うことじゃないなぁ、なんか」
また、高山さんは声をあげて笑った。
『なぁ、友里ぃ。俺、独占欲強い方?』
『何言ってんの? えっちゃん、サッカーしか執着しないから独占とかって言う以前の問題だよ』
『えー。って言うかさ、独占欲って何? 自分だけのものにしてたいってこと?』
『そんな感じ。恋人が、他の人と仲良くしてるのとか見てむかってくるのとか』
『俺さ、タカの元カノ見てむかついたんだけど、これって独占欲?』
『立派な独占欲だよ。凄いね。ちゃんと恋してるんだ』
『恋、なんかね? なんか自然すぎて、よくわかんない』
それは、恋。
高山さんは車で、私は原付で家に戻ると、居間ではえっちゃんと勲ちゃんがテレビを見ていた。
何故か勲ちゃんはえっちゃんの膝枕。
わけわからん、この兄貴。
真性ブラコン説はもう笑いのネタにはできないのかもしれない。
「あ、おかえり〜」
えっちゃんは高山さんを見つけると、膝の上の頭を押し退けて立ち上がった。
ごとりと鈍い音がする。
「おじさん、会えた?」
「いや。会社の人と飲み会だって。手紙置いて、犬に餌やって、ついでだから風呂入ってきた」
高山サンがえっちゃんに向ける表情は優しい。
「タカ、運転して疲れたろ? 布団、客間に敷いてるから、寝る?」
えっちゃんが高山さんに向ける笑顔も優しい。
その表情を、勲ちゃんは転がった状態で見上げていた。
どっか諦めたような、そんな目で。
「どうしたの、勲ちゃん」
「……英介がな、惚気るんだ」
「へぇ」
「好きなんだってさ」
「そう言ってたじゃん」
「優しいんだってさ」
「見るかぎりそうでしょ」
「キスが上手いんだって」
「はぁ」
「俺も上手いけど、実証するの、我慢した」
「よく我慢したねぇ。今度、一緒にカラオケ行こうか。さだまさしの妹よ、フルで歌っていいよ」
「……ありがと」
きっと、もうずっと前から譲る気でいたんだと思う。
勲ちゃんは誰よりも真剣に、長い間えっちゃんを見てきたから。
えっちゃんが自覚するよりも前から、高山サンがえっちゃんにとって特別な存在だったこととか、わかっていたのかもしれない。
家族全員で見てたえっちゃんのプロ入り初ゴール。
アシストをした高山さんを見て、勲ちゃんは『この子すげぇな』と呟いていた。
そろそろ勲ちゃんも、潮時かなと思ってるはず。
「……お役御免か……」
「そろそろいい人見つけなよ。自分のために生きなよ」
「……お前の彼氏ってどんなんだったっけ?」
「いや、私のことはマジで放っておいて」
うちの兄はまともなのがいない。
あぁ、でも、高山サンがえっちゃんとケッコンしたら高山さんは私の義理の兄になるわけだから、唯一まともな兄ができるわけじゃん。
まぁ、ホモなんだけどね。
「……コージくん」
「はい」
転がったまま、勲ちゃんが高山さんを呼んだ。
高山さんは緊張した顔で振り返る。
「今日は、お義兄さんと一杯飲もうや」
「じゃあ、俺も飲む」
「英介は駄目。これは兄と婿とのお話なの。お前はいい子で寝てなさい」
「タカのこと虐める気だろ」
「いじめません。そこまで卑屈じゃありません。俺の大事な弟を託すに当っての心構えを伝授するだけ」
兄たちは、それぞれに巣立とうとしているらしい。
『やっぱり、俺が送って行くって』
えっちゃんが事故に遭ってから半年。
補助がなくても立てるようになって、初めての登校の日。
玄関で勲ちゃんは泣きそうな顔をして、えっちゃんの手を引いた。
『いいって。大丈夫だよ』
えっちゃんは困ったような顔をして、その場でぽんぽんと飛んで見せた。
ね、と首を傾げた。
『でも、また事故なんかに遭ったら……』
『大丈夫。気をつけるから』
腕を掴む勲ちゃんの手をやんわりと引き剥がし、小さな体で爪先立ちになって勲ちゃんの頭をポンポン撫でた。
『もう平気だから』
無邪気に笑って、私に行こうと声をかけて踵を返した。
『いってきまーす』
元気な声でそう告げて。
うちの角を曲がる前に、一度だけ勲ちゃんを振り向くと、勲ちゃんはどこかが痛そうな顔をして、手を振った。
甘やかしたくて、大事にしたい勲ちゃん。
心配をかけたくなくて、強くなっていくえっちゃん。
そんなえっちゃんの強さを勲ちゃんは尊敬しているから、胸の痛みを我慢して追いかけようとする足をその場に縫い付けてきた。
物凄く情けない男のようで、勲ちゃんは実は底なしの優しさと許容力を持っている。
その優しさとキャパで、大事なえっちゃんを託すんだ。
それに応えるために、えっちゃんは走るんだ。
夏のインターバルは本当に短い。
翌日の昼には、えっちゃんと高山さんは神戸に向かうことになっている。
寮の皆さんにお土産にと、お母さんの実家から送られてきた桃をトランクに運んでいる。
リベロはえっちゃんが帰ってしまうことを察しているのか、えっちゃんの傍を離れない。
「リベロ〜、また戻ってくるからな〜。元気にしとけよ〜」
額を摺り寄せてえっちゃんが抱き締めると、パタパタと尻尾が地面を掃いた。
「英介、焦らずにな。じっくりいけじっくり」
「うん」
「チャンピオンシップのチケットが送られてくるの、待ってるからな」
「うん」
「しっかり食べなさいよ。最近痩せたんじゃないの?」
「うん。食べる」
「まだまだ暑いからね、夏バテには気をつけなさいよ」
「うん」
毎回のお父さんとお母さんのアドバイスなのかなんなのかわからない言葉を、えっちゃんは素直に聞いている。
「浩二くんも、夏バテしないでね」
「はい」
「正月には帰ってこないように。国立に呼んでくれや」
「はい」
「次に帰ってくるときには、私らのことはお父さん、お母さんって呼んでね」
「は、い」
おいおい。
「浩二くんのお父さんもね、英介にはお父さんって呼んでもらいたいんですって」
「は?」
「お父さんと浩二くんのお父さん、今じゃすっかり釣り仲間なのよ?」
「……初耳、です」
「あら? あの記事が載った頃に、わざわざ挨拶に来てくださってね。その時から意気投合しちゃって」
高山さんは難しい顔をして、父がお世話になっていますと言った。
律儀な人だ。
「じゃあ、そろそろ」
「気を付けてね。怪我しないでね」
「わかってるよ」
車のドアを開ける。
勲ちゃんは庭の縁台に腰を掛けたまま、風景を眺めるみたいにしている。
ハーフパンツにTシャツで、ツッカケ引っ掛けて。
置いてけぼりを食らう子供みたいな顔をしてる。
「兄ちゃん、いつ神戸行くんだっけ?」
ふと、思い出したようにえっちゃんが駆け寄ってきた。
「……明日」
「じゃ、あっちでまたご飯食べよう。試合も見に来て」
「……ぅん」
なんでこの人の返事はこんなに切ないかなぁ。
えっちゃんは、困ったように笑った。
大人びた笑い方だった。
「今年の兄ちゃんの誕生日」
「ん?」
「バースデーゴール入れるから」
「……英介」
「見てて」
自信に満ち溢れた笑顔を浮かべた。
普段、口には出さないけれどえっちゃんは、物凄く勲ちゃんのことが好き。
物凄く、感謝している。
動かなくなるかもしれなかった足を、蘇らせたのは勲ちゃんだと言うことを知っている。
えっちゃんがピッチに向かう理由の何パーセントかは、勲ちゃんが独占している。
「見ててね、ずっと」
えっちゃんは永遠に勲ちゃんの大事な弟。
自慢の弟。
窓から身を乗り出してえっちゃんが手を振る。
追いかけようとするリベロのリードを、お父さんがしっかり握っている。
スカイラインが角を曲がった。
私は、勲ちゃんの横顔を見た。
そこに痛みはなくて、でも清々しくもなくて、困ったような暖かいような、そんな笑みが浮かんでいた。
「がんばれ」
小さな声が呟いた。
聞えないふりをした。
汗を拭う仕草が、別のものを拭っているように見えてしまったから。
「なぁ、昨日、兄ちゃんと何話してたんだよ」
「思い出話を自慢された。お前が生まれた時のことから入寮まで、ずっと」
「……」
「アルバムも見せてもらった。赤ん坊の時とか、幼稚園の時とか」
「うそ!」
「友里ちゃんの浴衣着てたのは高校生の時か?」
「なんで、そんなん見てるんだよ!」
「寝顔がやたらと多いアルバムだったけどな」
「全部盗み撮りだよ! あの兄貴!」
「五、六冊はあったぞ」
「もう知らねぇ、あの変態兄貴!」
英介兄、江口勲登場。噂の兄貴ですが、今回は英介妹、江口友里視点でお届けしました。
まだまだ大人しめな兄。託すと言いつつも、そのうち本領発揮する予定。
兄馬鹿って書いてて楽しいんですよね。なんでだろう。しかも報われていない兄馬鹿が楽しい。不思議な魅力を感じます(笑)
息子さんを僕にくださいっていう状況も書いてて楽しかったです。息子婿と英介父と英介兄の会話とかも面白そう。怪我してるときの英介と勲の話とかも書きたいと思ってます。