それは、ミスだった。
俺の。
日本代表の。
俺、の。
ミス。
池沢明人の守るゴールに、迫りくる世界のストライカー。
対峙した。
ファンタジスタと呼ばれるミッドフィールダーのクロスがあがる。
呼吸が、あがる。
汗が目に染みた。
背後から、体を押される。
耐えた。
胸でトラップ。
ボールは短く落ちた。
囲まれている。
右サイドに。
パスをした。
右に見えたのは、青いユニフォームのはずだった。
鮮やかな青を遮って現れた、より鮮やかなカナリアンイエロー。
トラップは、その黄色いユニフォームの胸に。
吸い込まれた。
胸が軋んだ。
ゆっくりと弧を描き、ボールは胸から足下へ。
「アキ!!」
止めて。
止めて。
そうすれば、このミスが生涯の傷にならなくてすむから。
池沢の体はコースを読んでシュートコースの方向に飛んだ。
グローブに触れたボールは、そのまま池沢の手を弾き、ネットを揺らした。
『ゴォールッ!!』
歓声と溜息。
溜息。
「ナツキ、ぼうっとしてんな。取り返すぞ」
背中を叩いて、キャプテンマークを巻いた富永さんが走って行く。
「いけるいける! 取り返せるぞ! 集中!」
バンバンとグローブを叩いて池沢が叫んでいる。
「ナツキ!」
「ドンマイ」
明るい声が背中を押す。
だからまた動き出すことができたけれど、体の奥が冷え切っていた。
凍りついたように。
6月のこの国の気候なんて関係なしに、どんどん冷えていく。
涙が、零れそうだった。
そして、4年が経とうとしている。
「調子は?」
「おあっ? 富永さん!」
1月下旬の代表合宿所に、私服姿の富永さんが顔を出していた。
一風呂浴びて、報道陣がうろうろしているロビーに迷い出てしまって、インタビューをちらっと受けていたら突然背後から声をかけられたのだ。
「びびったぁ。どうしたんスか?」
富永真吾は一昔前の日本を代表するミッドフィールダーで、日本のサッカープレーヤーの中でも最も多くW杯の舞台を経験している人だ。
「トレーナーの話が来てるんだよ」
Jリーグでも長くプレーして、引退してからはトレーナーとしてサッカー界に貢献している。
「マジですか?」
「マジで。でもまだ指導者側になって浅いからなぁ。迷ってるとこだ。明日一日見学して、それから答え出すつもりだけど、今の時点で返事はノーだな」
「なんでですか?」
「俺が参加すると、俺が候補になっちまうだろう?」
そんな自信のあるセリフをおどけて言う。
今は出身母体の神戸RCのトレーナーとして日々を送っている。
「確かに。今高山がそれで監督に言われてますよ。お前は富永を越えなくちゃ駄目だとかって」
「そりゃかわいそうに。あとで慰めてやろう」
引退してから富永さんはちょっと砕けたような、冗談をよく言う人になった。
いろいろと重圧や責任感から解放されたせいかもしれない。 俺と富永さんは同じ高校の出身者で、俺が高校サッカーで決勝まで進んだときに富永さんは応援に来てくれた。
それから、お前センスいいねと言ってくれたのだ。
それが、親の反対を押し切ってプロになろうと思わせてくれたきっかけだった。
「4年前のこと、覚えてるか?」
不意に富永さんの声が低くなる。
覚えてる。
忘れようがない。
俺は、大事な大事な一戦で、日本が1点リードしているあの状況で敵にパスを出した。
そして逆転されたのだ。
日本は、その試合に負けた。
いけるかと期待された、一次リーグの敗退が決まった瞬間。
過去の勝利はいずれも奇跡と言われるような、サッカー王国を敗れるかと期待した瞬間。
忘れようがない。
「あんまり気張るなよって、言おうと思ってさ」
「へ?」
「膝の故障、治ったばっかりだろう? テレビで見る限りでも、お前顔つきが燃えすぎ」
笑いながら言ってはいるが、ちょっとそれは切実。
実は膝、時々痛い。
「俺もさ、昔やったんだよ。それ」
「それって?」
「大事な時にとんでもないポカしちまうってヤツ。まぁ、サッカー人生長いからさ、いろいろとミスはあるけど、一番大きいのがアジア予選最終戦でのオウンゴール。」
苦笑いを浮かべながら富永さんは俺を見る。
「痛かったなぁ。あれは。かなり叩かれたし、嫌がらせもけっこうあったし」
オウンゴール。
それは、痛い。
たぶん、自分よりも。
「取り返そうと思って、躍起になってた。でもな、その時に監督が言ってくれたんだ」
富永さんの手が、がしっと頭を鷲掴んだかと思うと、ぐりっと回される。
周りにいたのは多くの取材陣と、それを受けている選手達。
「サッカーやんのは一人じゃねぇぞ。11人だ。ピッチにはお前のほかにあと10人もいる。お前の仇をとろうと思ってる人間が、あと10人いる。それを忘れるなよ。ピッチを降りてもだ」
丁度、風呂あがりなのか同期の高山と江口が顔を出して俺に気が付いた。
俺にというよりは富永さんにだろうが。
「富永さん、どうしたんスかー? ナツキいじめー?」
「お、ちょっと説教」
説教というにはあまりに短い言葉だったけれど、説教というものが人に説き教えるものであるならそれは正解。
ほんの少しだけ、心が軽くなる。
やらなくちゃと思っていたことが、少しだけ溶ける。
誰よりも多く世界との戦いを繰り広げてきた人の言葉だから。
「さぁて、今度はタカだ。ちょっと顔貸せ」
「げっ」
富永さんはそう言うと、タカの肩に腕を回して引き摺るようにして外に出て行く。
取材陣の中には気にした人もいるようだが、富永さんが片手をあげて謝るようにすると黙認したようだ。
「ナツキさ」
残された江口が話し掛けてくる。
がしがしと乱暴に茶色い頭をタオルで拭きながら。
「この前、市井さんの番組のインタビュー受けてたろ」
「あ? あぁ」
ムードメーカーの天真爛漫とも言える双眸が、にやっと笑って俺を見る。
「4年前の借りって」
代表候補へのインタビュー特集の一つで、市井さんが俺のもとに訪れた。
見透かしたように話題にあげた、4年前のクリアミス。
市井さんの話術にのって、本音を口にしてしまったのだ。
確か放送は深夜。
「お前、起きてたわけか?」
「起きてた。面白そうだと思って」
持っていたパックの牛乳にストローを刺して銜え、またにやりと笑う。
悪戯小僧のような顔を、江口はよく浮かべてみせる。
くそ、恥ずかしい。
「俺もこないかなー、そういう取材」
「お前、わざわざ取材する必要ねぇくらい普段から喋ってるからこねぇんだよ」
「あー、なるほどー」
こいつ、馬鹿。
「どうせ、富永さんの説教もそれだろ。なんとなく、あの人が言いそうなことも検討がつくから言うんだけどさ」
ストローを噛むのは江口の癖。
白い歯を見せながら彼は言う。
「得点は、俺らに任せてよ。お前、きっと点とりにきにくいだろうから」
うちの、最終ラインの守護神だから。
江口がにやにやと笑うときはろくでもない悪戯をしかけるときか、度肝をぬかれる言葉をぽつんと吐かれるか。
「まっ、何にせよ代表に選ばれないと意味ないけどな」
きししと笑って江口は同い年にしては幼い表情を見せる。
「がんばろ」
ポンと背中を叩いて、
「サッカーをね」
高山と富永さんの後を追うように走り去った。
わっけ、わかんねぇ。
けど、救われる。
「サッカーを、ね」
呟く。
確かめる。
取り返すのは、ミスじゃなかった。
勝利と、自分のサッカー。
江口の着ている黄色いTシャツが、あのカナリアの色にも見えて眩しかった。
『センターバックには樋口夏木が入りました。前回W杯でのミスをこの4年間抱えてきた選手です。借りを返すのだと何度も口にしていました』
ピッチに根付いた芝の感触を確かめる。
センターサークルに江口と高山が立っている。
自分の他にピッチにはあと10人。
リザーブ、スタッフ。
スタンドにサポーター。
ブラウン管越しにも、幾千の視線と願い。
「うっしゃー、気合いれていこー!」
ドラマは始まった。
天国も地獄も、ここに共存している。
天国を見ることができるかもしれない。
また、地獄を見ることになるかもしれない。
それでも。
することは一つ。
『今、キックオフです!!』
自分たちのサッカーだ。
わかる人には一発でわかる、ナツキ=名波さんです(笑)ちょっと性格の悪い子を書こうと思って書きました。
しかし、だんだんと年齢差が曖昧になっていく……