夕食を一緒に食べようと勲から電話が入った。
そう言えばここのところ、お互いに多忙で会っていない。
いいよと答えると間髪おかず、浩二くんは呼ばなくていいぞと言われた。
たまには兄弟水入らずも悪くない。
一人で行くよと告げると、電話の向こうで兄が満面の笑みを浮かべるのが目蓋の裏に浮かんだ。
相変わらず勲の部屋は慎ましい。
日本が世界に誇るスポーツメーカーに勤め、その中でもエリートとして扱われる敏腕コーディネーターの稼ぎは充実しているだろうに、勲は2DKの質素な部屋に暮らし続ける。
質素ではあるが、広さは一人暮らしには十分だし立地もいい。家具もシンプルだけど、名の知れたメーカーの物らしい。嫌味なく光るセンスを持っている。
特別な趣味があるわけでもなく、貢ぐ女性の影があるわけでもない。さぞかし魅惑的な貯金通帳を持っていることだろうと思うけれど、自分もあまり人のことを言えないと口を噤む。
「英介、何飲む? ビールか?」
「お茶」
一人暮らしには十分な広さのあるキッチンで、勲は買ってきた惣菜を皿に移し変えている。パックのままでいいと言ったのだが、せっかくの会食なのだからと言って手間を惜しまない。
勲がいそいそと動き回っている間、英介は遠慮なく柔らかなラグの上に転がった。
身内のいる空間は安らぐ。すっと胸が軽くなるのを自覚しながら、手足を思い切り伸ばしてみる。
泳ぐように腕を回すと、指先がソファーの下の何かに当たった。ソファーの足ではない。
何を隠しているのやらと好奇心もあって視線をやって、英介は微かな衝撃に息を飲んだ。
ソファーの下に隠してあったのは、白い灰皿と煙草とライター。
それを見ると、不意に煙草の匂いが嗅覚に触れた気がした。
直感する。
これは、この部屋を訪れた自分の知らない誰かが忘れていった物ではなくて、兄の物だ。
兄は父親似で、受け継いだのはその面立ちだけではなく嗜好もよく似通っている。
酒は好きだが、度を越えて飲むことはない。食べ物は魚を中心とした和食が好きで、丼物よりは盆の上に細々と皿が並んでいる定食の方が喜ばしい。
そして煙草は吸わない。
そう思っていた。
自分の知らない兄がいる。
自分の前で甘ったるく笑う兄が、この部屋で一人煙草に火を点ける姿を想像した。
何を考えるんだろう。
仕事のこと?
将来のこと?
それとも、俺のこと?
「えーすけ。できたぞー」
自分の分のビールと英介のためのウーロン茶をテーブルに置いて勲が食卓へ誘う。
一呼吸置いて起き上がり、見慣れた甘い表情を浮かべる兄に笑いかけた。
「うまそー」
「飯はがっつり炊いてある。たんとお食べ」
「いっただっきまーす」
席についてまずご飯をかきこむと、勲はまずビールを飲む。
ニコニコした顔に疲れや鬱屈は見て取れないけれど、人間関係をスムーズにやり過ごす術を心得ているコーディネーターは何かを隠し持っている可能性もある。
「この前の試合のボレー、見た?」
「見た見た。丁度打ち合わせが入ってたから、録画になっちゃったんだけどな。解説は片岡さんのヘッドはパスだって言ってたけど、本当のところは?」
「シュートミスでしょ。昴さんはあれはシュートに見せかけたパスだって言い張ってるけど、俺のこと振り返って悔しそうな顔してたから」
「俺もそう思った」
満足そうに笑われると、英介は安心する。
自分に憂いを見せない兄がどのくらいのペースでタールを肺に流し込んでいるのかはわからないし想像もできないけれど、自分にできることなどサッカーしかないのだ。何か悩んでいることはないのかと、問うことすらできない。
「この惣菜、美味しいけど母さんの料理の方が美味いよな」
「あー、そろそろ母さんの肉じゃが食べたいな」
「友里、教わってないかな」
「無理だろ。無理」
他愛もない会話をしながら、英介は願う。
自分のシュートがゴールネットを揺らす瞬間が、この兄の抱える重荷を消し去るものとして兄の身に降りかかればいいと。
それは英介が力を振り絞ってピッチを駆けるのに、十分な理由となる。
2010/02/20
喫煙者な勲兄が書きたかったのです。