01.始まりの朝(江口家)
02.桜吹雪(英介高校時代)
03.ひざまくら(神戸RC)
■お借りしたのはコチラ……COUNT TEN.
トントンと、ひどく遠慮がちな足音が階段を下る軽い音が目覚ましの変わりだった。
その音がないことが、今日の目覚ましだった。
毎朝彼は早起きして野菜ジュースを飲んで、スニーカーの靴紐を締める。
セントバーナードのリベロが一緒に玄関を出る。
朝のロードワークへと出かける兄の気配を感じながら意識が浮上して、それから起きるのが友里の日常だった。
今朝から、その日常は存在しなくなってしまった。
昨日の昼、新幹線で神戸に向かう兄を見送った。
今日から兄は、神戸レインボーチャーサーの一員として寮生活を始めたのだ。
笑って見送ることはできたけど、不在を実感するとじんわりと涙が出てくる。
このまま泣くのは嫌で、少し時間は早いが起きることにする。
カリカリとドアを引っかく音がして廊下に出てみると、隣の兄の部屋をリベロが前足で引っかいていた。
「リベ」
呼ぶと、賢い愛犬は友里の方へとやって来る。
「えっちゃんはね、今日からちょっとお出かけなんだよー。だからねー、朝のお散歩は私としようね」
頭を撫でて言い聞かすと、リベロは理解したのか友里の着替えを大人しく待つ。
昨夜からこの家に小さな主人の気配がないことはわかっていたのだろう。
今日から江口家の日常は、ちょっとずつ変わっていく。
彼の不在を軸に変化する。
着替えを終えて階段を下りると、食卓で母が物憂げ顔をして頬杖をついていた。
「おはよう」
友里が声を掛ければ、ぼんやりと顔を上げた。
「ちょっとー、空の巣症候群とかならないでよー。まだ私いるんだから」
「もう、何言ってるの。ちょっと寂しいなぁって思ってたの。あの子、賑やかだったから。ちゃーんと友里ちゃんのお弁当は作ってあります」
「今日から春休みですけど」
「……あら」
「もー、みんなしっかりしてよねー。こんなんじゃ、えっちゃん、あっちで頑張れないでしょ」
友里が呆れて見せると、母はごめんなさいと謝って、次には笑顔になった。
「おはよう」
改めての朝の挨拶。
もう母の笑顔に翳りはなく、紆余曲折を得たJリーガーをしっかり育て上げた母親の顔をしていた。
「リベロの散歩、行ってくれるの?」
「えっちゃんが帰ってきた時に、リベロが運動不足でブヨブヨだったら悲しむからね」
「友里がブヨブヨでも悲しむと思うなぁ」
「急に元気になってきたな。リベロ、行こう」
ニコニコと笑顔が輝きだしたのを見届けて、愛犬に声を掛けると、リベロは既にリードを銜えて待っていた。
パタパタと尻尾が揺れている。
「ついでだから靖さん、起こしてこようっと。それで、今日はみんなで英介の応援幕作ろう」
グッドアイディア、と自画自賛した母はスリッパの軽やかな足音を響かせて寝室へと向かう。
えっちゃんも、今頃はじまりの朝を迎えている。
帰ってくる場所はこの家だってことはずーっと変わらないから、私は愛息の不在に溜め息をつきがちな母さんと、こっそり寂しさを募らせている父さんに喝を入れながら待ってるからね。
一人教壇にたった英介は、マイクのスイッチを確かめながら盛大なはにかみ笑いを浮かべていた。
「えー……っと」
と、声を発したところで頭を掻いて、その何気ない仕草が会場の笑いを誘った。
その笑い声が場の空気を緩め、英介の頬からも緊張は消えた。
「お土産が、金メダルじゃなくてすみませんでした」
茶化すように笑いながら、壇上に活けられた豪華な花の隣に飾られた銀色のメダルに視線をやる。
笑い混じりの功労生徒挨拶。
芸術校が生んだスポーツマンは、最後に深く頭を下げて、ありがとうと言った。
「江口せんぱーい! 記念写真おねがいします!」
次から次へと掛かる声のせいで、サッカー部の締めはいつまでもできないまま。
それはそれでいい。
別れの時は、まだもうちょっと、休み時間分だけでもいいから、先でいい。
真っ赤な顔で差し出されるラブレター、花束、色紙。
記念写真の申し出には笑って答え、女の子の肩を抱いたりとサービスもする。
教師達の中にも、未来のA代表にサインを求める者がいる。
それには、散々サッカー部の活動に文句を言ったくせにと反感を覚えないわけではないが、それはそれ。
卒業式だ。
「ボタンは完売か?」
担任に問われ、あいつらのポケットの中ですと顎でしゃくられる。
そんなの、一年前から予約済みだ。
ネクタイは妹の物になった。
ブレザーをくださいと言う思い切った子もいたが、ブレザーは母親が予約しているそうだ。
次から次へ、全校生徒を相手にしたのではと思うような列を裁いて、ようやく途切れる。
英介は一目散にこちらに駆けてきた。
「何人に告られた?」
「企業秘密!」
片手の指では足りないだろう。
駄目元で想いを告げた下級生の女の子達の中で、英介が孤軍奮闘してきた姿を知る子はほとんどいない。
味方のいない場所で黙々と駆け回り、チャンスを掴んだ英介。
支え一緒に走ることが出来たのは、ほんの数歩分の僅かな時間でしかない。
それでも英介は笑ってくれる。
サッカーしようぜと声を掛けてくれる。
パスを待ってくれる。
ディフェンスを信じてくれる。
サッカー場で同じユニホームをまとった者全てに、英介は自分の命運を委ねるのだ。
「よっしゃ! 英介のファンサービスも一段落したことだし! 卒業サッカーはじめるか!」
桜吹雪舞うグランドを美しいと素直に思えるようになったのは、君と走り始めてからだ。
もう少し早くスタートを切ればよかったと、苦い後悔混じるこの季節を迎える度、今日のことを思い出すだろう。
それが自慢ではなく、誇りであることが僕は嬉しい。
走り出したからこそ、誇ることの出来る日々をかみ締めながら、最後のピッチに立つ。
桜吹雪の中、君が笑う。
差し伸べる手をとれる喜びを胸に、三年間を終える。
ありがとうと、声に出すのはどうにも野暮ったく、だから僕らは何気なく伸べられる手をしっかりと握り返す。
さようなら。
だけど、これからも、ずっと、よろしく。
ハードな練習の後、草野球に興じる事もあればサッカー談義に火花を咲かせることもある。
そしてただ意味もなくだらだらと過ごすことも。
何せサッカーグランドは天然芝だし、広いから影もできないし。
ぽかぽかと天気もよく、気温もあたたか。
絶好の日向ぼっこスペースでもある。
汗を拭いて風邪を引かないようケアさえしていれば、スタッフ陣も文句は言わない。
選手同士のコミュニケーションも重要だと考えられているからだ。
「やべー、俺スランプかも。ぜーんぜん飛べねぇよー」
「あれだけ飛べてりゃ十分です」
ごろごろとだらしなく芝生の上に寝転がりながら、いい年をした成年男子が戯れる景色はあまり見栄えのいいものではないが。
昴が惰性で声に出すぼやきに、律儀に返事をしたのは高山だった。
「そーですよ。今日なんて、俺、ぶっ飛ばされましたもん。ほら、痣」
「ばかやろー、それはディフェンダーとしての勲章って言うんだよ」
ユーキが痛かったんですよと訴えれば、もっともな言い分が戻ってくる。
「……鍛えよう。鍛えてマッチョになって、空中戦で昴さんを弾き飛ばしてやる」
「マッチョになったら飛べませんからー」
「タックル決めてやるーっ」
ゴロゴロと転がりながら喚くユーキを突きまわして、昴は上機嫌だ。
「あんまり苛めるな。これでユーキもけっこうナイーブなんだ」
転がってきたユーキの体の上に足を乗せて膝裏に余るほどの体をかくまったのは富永で、ユーキは日本の司令塔の体重に重いと呻くことになる。
「思わず弄ってしまいたくなる魅力、って何かの雑誌に書かれてたな、お前」
膝の裏に捕らえた体をコチョコチョと擽って悶絶させる。
わかるわかる、なんて言いながらユーキの笑い声と泣き声を楽しそうに聞いているのが、他でもないキャプテンなのだから恐ろしい。
震える声でもう許してくださいと訴え、ようやく主将の魔の手から解放されたユーキはぜぇぜぇと息を整えながら、やはりゴロゴロと芝生を 転がって食えないベテラン勢から距離をとった。
コツンと額に硬いものがあたって確かめれば、我関せずの姿勢で事態を見守っていた高山の、胡坐をかいた膝にぶつかったらしい。
「おつかれさん」
などとあまり嬉しくもない声がかかる。
「タカさーん、もう俺、このチームでやってく自信なくしましたー」
ヨヨヨと泣きまねをしながらふざけて、ゴツゴツした足に頭を乗せた。
寡黙な一つ上の先輩は、はいはいと言いながら頭をぽんぽん叩く。
普段、感情の見えにくいこの先輩に褒められたり慰められたりするのが、ユーキは嫌いではない。
「ユーキぃー!」
なんとなくくすぐったい気持ちを抱えていたユーキは、ぴりぴりした声に呼ばれて頭を上げる。
声がした方に視線をやれば、全て片付けたはずのサッカーボールを手に仁王立ちするもう一人の先輩の姿。
「シュート練習するぞ」
「……え?」
「シュート練習」
手伝ってくんない?とかでなく。
韋駄天ストライカーは命令口調で仰った。
「返事はっ?」
「……っ、はいっ」
ぞわっと背筋を駆け抜けた悪寒を追いやって、ユーキは慌てて返事をしながら立ち上がり駆けて行く。
「嫉妬の仕方も体育会系か、あいつは」
「弄っちゃって弄っちゃって。ユーキは弄られて伸びる子よ」
好き勝手なことを言いながら、突如はじまったシュート練習をベテラン勢はのんびりと眺める。
「英介もとうとうヤキモチを妬くようになったか。可愛いねぇ」
「……可愛いっすか、あれ」
ちんたらしてんじゃねぇぞと、なかなか過激な声が飛ぶ。
自分の不用意な言動が、罪のない後輩を地獄に突き落としてしまったようだ。
申し訳ない、と顔には全く出さず心の中で呟いて、高山は今日の晩飯は外食に誘ってやろうと決める。
そのお誘いの言葉にもまた英介が妬いて、翌日の練習メニューがハードになるのだが、その悪循環に気付いても助言してやる人間はこのチームには存在しない。
「あいつ、そろそろ非行に走りそうだなぁ」
選手同士のコミュニケーションを微笑ましく見守っていた内田コーチの呟きを聞く者も、誰もいない。
こうしてユーキは成長していくのだ。