彼女がいました。
はい、過去形です。
失恋しました。
えぇ、ふられましたとも。
遠距離恋愛二年目のことでした。
高校を卒業して神戸レインボーチャーサーに入団した俺と、郷里のアパレル関係の会社に就職した彼女との遠距離恋愛です。
マメに連絡もとってたし、暇をどうにか作って会ったりもしていた。
佐藤優輝と言うサッカー選手としても、それなりに認められてきたと思っていた。
順調な日々だと思っていた。
なのになんでふられるか。
考えられる原因は二つ。
一つ、昴さんに無理矢理引っ張っていかれたキャバクラでお姉さんにチューされた。
それがちらっと雑誌に書かれた。
昴さんには日常茶飯事だけど、俺にとっては致命傷。
二つ、どんなにメールを送っても、電話をしても、顔を会わせない日々が続けば淋しさは募るもの。
そんな淋しさを理解して、慰めてくれる男前が彼女の近くにいたこと。
考えられる原因は、どっちもビンゴだった。
淋しい淋しいと思っていた時に、俺が夜の街で遊んでいるとの情報が入った。
ショックを受けている所に、優しい男前が、
『俺じゃ駄目かな』
と囁いた。
そりゃあ……、ふられます。
そんなこんなで傷心です。
はい、現在形です。
ちなみにサヨナラの電話を貰ったのは一ヶ月前です。
女々しいと笑えばいいさ。
だって好きだったから。
俺の夢を理解してくれた彼女だから、彼女の夢も理解したかったんだ。
一緒に暮らそうとか、結婚しようとか、俺はまだ言える自信がなかったんだ。
サヨナラに、嫌だとは言えなかった。
彼女を慰めた男前は、俺のよく知る男で、つまりは友人で、いい奴だって知ってるし。
そいつも俺に電話をくれて、御免と何度も謝った。
そいつが高校時代に彼女のことを好きだったことも、俺は知っていた。
俺は彼女に未練タラタラだったけど、ソイツが彼女を幸せにするだろうことは確信できたから、今度会ったら一発殴らせろと約束して、全てを許した。
男前の友人も、すげぇいい奴だったから。
彼女も、すげぇいい子だったから。
幸せになればいいと思います。
だけど。
悲しいんです。
淋しいんです。
ちょっとだけ自業自得で、ちょっとだけ昴さんのせいで、ほとんど仕方ないのかなと思う別れです。
ウジウジしていたらすっかり溜まっていた洗濯物を干しにベランダに出ると、虹明寮の中庭では青空美容室が開かれていた。
昴さんが髪の毛をさっぱりさせて、ありがとうと美容師さんに笑顔を向ける。
美容師は、えっちゃんの妹の友里さんだ。
月に一度のペースで寮に遊びに来て、えっちゃんの髪の毛を整えている。
ついでとばかりに何人かの寮生も散髪や染髪をお願いしている。
俺は同い年らしい彼女にそういうことを頼むが恥ずかしくて、お願いしたことはまだない。
友里さんは、えっちゃんの一つ下の妹で、俺と同い年。
えっちゃんと双子かと思うほど似ているけど、友里さんが男顔なんじゃなくてえっちゃんが可愛い顔をしすぎなだけ。
亜麻色に染めた肩より少し長い髪の毛は、秋の陽気に照らされてキラキラ光っている。
同い年なのにさん付けで呼んでしまうのは、彼女の雰囲気が兄であるえっちゃんよりもずっと大人で、あのタカさんでさえ敵わないらしいから。
「お、ユーキが出て来た」
俺を見つけた昴さんが指差してくる。
「人をモグラみたいに言わないで下さい」
「モグラみたいだったじゃねぇか。表に出てきても暗い顔してさ。元気になったか?」
「……うっす」
「お前に言われたくねぇって顔してるぞ、ユーキ」
タカさんは困った顔をしながら、俺の眉間を指で揉んだ。
一応先輩なんだから愛想しとけと小さな声で言う。
「お前、それにしても顔色ひどいぞ」
「光合成しとけー」
昴さんが茶々を入れたと同時に、タカさんの指が俺の眉毛のあたりをぎゅっと左右に向けて力を入れた。
あぁ、いかんいかん。
昴さんに悪気はないんだから、睨んだりしちゃいかんぞ、俺。
「ユーキも散髪してもらえよ」
かなり短めに散髪してもらったらしいえっちゃんは、さっぱりとした顔で俺を手招く。
髪の毛が短いと、顔は可愛いのにかっこよく見える。
本当にやんちゃっぽい。
「じゃあ……、お願いします」
髪でも切れば多少すっきりするかもしれない。
「失恋記念に断髪かぁ」
「昴さん、ユーキに嫌われたくないんだったらもう黙った方がいいですよ」
友里さんは、俺の顔を見てニコリと笑っていらっしゃいませと会釈してくれた。
ギャルソンエプロンに仕事道具を差し込んで、さぁどうぞとスツールを指す。
中庭の木に立てかけた姿見の中の友里さんは、今日はどうされますか? なんてセールストークを口にする。
「いつももうちょっと短いよね? ヘアスタイル変えないなら、いつもみたいにするけど?」
「坊主で」
「はい?」
「坊主にしちゃってください」
「……いいの?」
「いいですっ」
友里さんは、確認するようにお兄さんに視線をやる。
えっちゃんは苦笑いを浮かべた。
「いいのかよ、ユーキ」
「いいんです。この際、さっぱりして、心を入れ替えます」
ここで心機一転して、心から彼女と友人の仲を祝福してやりたい。
きっと二人は俺の坊主頭に驚いて、ちょっと心配してしまうかもしれない。
けれどきっと俺の髪が再び伸びる頃には、何もなかったように気まずさなんて無い状態で笑って顔を合わせられるんじゃないかと思うんだ。
「あー、似合わない、かな?」
美容師さんの意見を伺うと、友里さんはちょっと考えるように視線を彷徨わせた後、
「いいんじゃない? そういうの、好きだな」
にっと、目を細めて笑ってくれた。
尊敬する江口英介が夏の空のような笑顔を持っているなら、その妹さんは秋の空だ。
夏ほどギラギラしていない、春ほど柔らかいわけでもなく、冬のように冷たくもない。
さっぱりしていて、かと言って可愛げがないわけじゃなくて。
可愛いのに媚びてなくて。
優しいだけじゃないって言うのも、その雰囲気から伝わってくる。
「じゃあ、さっぱりしちゃうかー。風邪はひいたりしないようにね。バリカン、誰か持ってないかな。て言うか、坊主なら私じゃなくてもできるんだよね」
「寺井さんが持ってるから借りてくる。ほんで、心優しい寮生集めてユーキの断髪式しよーぜー!」
片岡昴という選手を、俺は尊敬していました。
はい、過去形です。
ジョリジョリジョリジョ リジョリジョリ…………。
物々しい音と同時にギャハハと品のない笑い声が聞こえてくる。
もうどうにでもしてくれと、男らしく腹を括った可愛い後輩の頭を好き勝手に刈りまくる心優しい先輩方は、満足すると最後の仕上げにとバリカンを友里さんに渡した。
仕上げに友里さんがバリカンを滑らせて、茶色に染めていた髪の毛は綺麗に刈り落とされた。
「ユーキくん、スキンヘッド初めて?」
「小学生の頃に二年くらい坊主頭だったかな」
「なかなかいい仕上がりになりました。皆様のご協力に感謝」
鏡の中には、自分じゃないみたいな自分がいた。
……さっぱりしすぎた。
「あら? 駄目だった?」
「……いや。なんか、似合わない気がして」
それなりに外見に気を使ってきた方だと思うから、いきなりの自分の坊主姿に激しい違和感を覚えてしまう。
「スキンヘッドもいいよ。頼もしく見えるし」
美容師なりのアフターケアなのかなと思って、鏡越しに友里さんの表情を窺った。
笑っているわけでもない。
自分の仕事の出来栄えに納得している顔をしていた。
かっこいい人だなぁ。
「ヘディング気を付けてね」
「あぁ……。痛いかな?」
「丸坊主になったことないからわかんないな」
「……そうだよね」
「そう」
やっと、笑えた気がした。
友里さんと片付けをしながら、少し話した。
好きなサッカー選手のこと、好きな音楽のこと、ファッションのことと、街のこと。
女友達と呼ぶには気がひけるほど、友里さんは落ち着いていて、とても冷静な目を持っている。
頭がいいだけじゃなくて、柔らかい。
そして時々、少女っぽい、あどけない言動を見せる。
普段のギャップと激しくて、それはとてもとても可愛らしく感じた。
片付けを終えて一息ついたところで、俺は気付きたくないことに気がついてしまった。
一階の部屋から中庭に出る短い階段に腰掛けていたえっちゃんの、視線だ。
「ユーキ、お前、英介の機嫌とれよ」
傍らで洗濯物を取り込んでいたタカさんが、本気なのか冗談なのか判別しかねる調子でそんなことを言う。
「えぇっ」
「今晩までに機嫌が戻ってなかったら、薫さんを仕掛けるぞ」
「えぇえっ!」
さっきまで心配してくれていたタカさんも、えっちゃんが関わってくるとフォローもしてくれないらしい。
とんでもない脅しだ。
「友達つくるくらい見逃してよね」
まったく、と腰に手を当てて呆れたふりをする友里さんは楽しそうだ。
俺にも実家に弟がいるけど、こんなに仲良くはない。
幼い頃に比べると喧嘩も減ってきたけど、それでも江口兄弟には到底敵わない。
「うちのお兄ちゃん達にはいいかげんにしてほしいもんね。勲ちゃんとえっちゃんのせいで別れたの、三人目よ?」
ありえないわと笑いながらも、その目がちょっと沈んでいたのを俺は見逃せなかった。
俺と同じ表情が、明るい友里さんにちらついた。
実は失恋して二週間目なんだそうだ。
「友里は男を見る目がないんだ。一人目はギャンブル好きで二人目は二股。三人目は勲兄に睨まれたくらいで簡単に別れるとか言い出すんだぜ?」
「うるさいなぁ」
しっかりしてそうなのに、意外だ。
「そんなに言うんだったら、私にえっちゃんのいい男ちょうだいよ」
タカさんが面食らったように咳き込み、えっちゃんは顔を赤くしてぎゃいぎゃいと叫んでいる。
かわいいなぁ、としみじみ呟く友里さんの声が俺には聞こえた。
「ねぇ、ユーキくん、この後暇?」
「えっ? あ、うん。暇っす」
「じゃ、デートしようよ」
「えぇっ」
「失恋した者同士、お話しませんか?」
えっちゃんに嫉妬させたいのと小声で真意を囁かれ、安心したやら淋しいやら。
「あ、はい。よろこんで」
新しくできた同い年の女友達は、断る選択なんて与えられない俺の前でにっこりと笑って見せたのだった。
街をブラブラと歩いて、散髪のお礼にと飯を奢ってデートは終了。
友里さんは勲さんの部屋に泊まるからと、そのまま別れた。
明日は練習場に顔を出して、それから実家に帰るそうだ。
寮の玄関に入ると、ロビー脇のベンチにお兄様が座っておられた。
「おかえり」
「……た、だいま、です」
江口英介先輩は、普段はとても可愛らしくてほわほわしている人なのですが、意外にも喧嘩が強い。
高校生の頃には過剰防衛で停学処分をくらったという前科持ちだ。
「楽しかったか?」
心なしか、お声のトーンが低うございます。
「……は、い。楽しかった、っす」
「そりゃ、良かった」
顔がちっとも良かったって風じゃないんですが。
座ったままのえっちゃんの視線が、俺の頭に注がれる。
「あ、寒いだろうからって、あの、友里さんにプレゼントしてもらいました。すみません」
坊主になったばかりの頭には、暖かいニット帽。
ふぅんと相槌を打ったえっちゃんは、ベンチに片膝上げて俺を斜め下から見上げた。
「惚れた?」
ストレートパンチに俺が面食らっていると、えっちゃんは勝手に納得したように数度頷いた。
「いいよ。別に」
何がですか。
「俺、お前ならいいよ」
短い言葉だが、ひたと見据えられた目は怒っているわけではなかった。
怖いくらいに真剣だ。
「友里はさ、駄目な男ばっかり好きになるんだ。だけど、お前の駄目さなら俺は安心できる」
軽く貶されているわけだが、不快でもショックでもなかった。
「お前、きっと友里のことが好きになるよ。あいつ、いい子だから」
説得力のある予言は俺の背中をぐいっと押す。
今は好きになるなんて感情はまだないけれど、楽しく過ごせたから。
目の前で、大人っぽくも子どもっぽくも変化する彼女の表情に惹き付けられたのは事実だ。
カウントダウンは始まっていた。
ゆっくりと刻まれるカウントを、えっちゃんは早めようとする。
「お前も、いい子だから、たぶん友里もお前を好きになるよ。そんで、きっとこれが最後の恋だ」
物憂げに前髪をかきあげて、予言者は大きな溜息をついた。
これ見よがしで、不本意で、だけど諦めたような溜息だ。
最後の恋だ。
その言葉に、俺はなんだか物凄く安心してしまったのだ。
それから数ヵ月後のこと。
夕食後の俺の部屋を、タカさんが訪ねてきた。
「友里ちゃんの理想の男性のタイプって知ってるか?」
唐突な質問に、俺は答えられなかった。
えっちゃんの予言があってから、俺と友里さんはメル友になり、時々電話をして、彼女はサッカー観戦の際に兄の背番号入りレプリカユニホームではなく、俺の背番号のユニホームを着るようになっていた。
だからと言って付き合っているわけでもなく、ただ俺の髪の毛が少し伸び、元カノと友人が上手く言っているらしいという話を心乱さずに聞けるようになっていた。
友里さんとは、なんだかすっかりいい友達だ。
「……どんなタイプっすか」
だけど気にならないわけがなく、俺はタカさんの振ってきた話ににじり寄った。
「足の爪にマニキュアを上手に塗れる人」
「……マニキュア?」
「手の爪じゃなくて、足のな。ペディキュアって言うの?」
「はぁ……、なんで?」
それは少々変わった理想だ。
友里さん曰く、
『その人のために綺麗になりたいって言う女の子の努力をわかってくれて、知らん振りしないでちょこっと手伝ってくれる人がいいな。あぁしろこうしろって言われるのは鬱陶しいけど、例えば背中のファスナーを上げてくれたり、ネックレスの留め具を留めてくれたり、そういうのを面倒臭がらずにしてくれる人がいいの。自分の事だけじゃなくて、私の姿をちゃんと視界に入れてくれる人。塗りにくいペディキュアを、それでも塗りたいって言う女の子の気持ちを理解してくれる人。それで意外と上手に塗ってくれたりしたら、ちょっとドキドキするかなーって』
だそうだ。
「頑張れ」
そう言ってタカさんが俺の手の平に乗せたのは、小さな小さな桜色のマニキュアの瓶だった。
「……これ、タカさんが買ったんスか」
「まさか。神尾さんがルアーに塗ったりするのに使ってるの貰ってきた」
わざわざ?
「最近、英介がすげぇ気にしてんだよ。お前と友里ちゃんの事」
あぁ、やっぱり。
タカさんがこんな風に積極的に動くのは、えっちゃんが関わっているからだ。
「お前、友里ちゃんとどうなってんの?」
「友達っすよ」
「似たもの兄弟だな。清く正しくお友達から始まるあたり」
タカさんとえっちゃんのお付き合いは、なんだか自然に、川の流れの如く当然のように始まっていたけれど、タカさんの片思いは長かったらしい。
片思いと呼べるほど明確な感情ではなく、傍にいたいとか、触れ合えばちょっと嬉しいとか、笑って欲しくて喜ぶことをしたりとか、そういう些細な感情が積もっていく時期があったと言う。
たぶん、あと五、六年かけて気がついて、結局相手に彼女ができたりして消えていく感情だったんだろうけど、キャンプ中の罰ゲームでおかしな事になったのだと語った。
たった一回の罰ゲームのキスで、離れられなくなってしまった。
ひょっとしたら、この小さな桜色のマニキュアがそういうきっかけになるのかもしれないと思って。
タカさんは珍しく饒舌に、自分達の事と俺へのお節介を口にする。
「相手はあの友里ちゃんだし、お前、たぶん、このまま流されるんだろうなぁ」
そんなしみじみと言わなくても。
俺だって男だ。
リードしたい。
「まぁ、勲さんの監視下に置かれるのが俺一人じゃなくなるのは喜ばしい事だから、俺はお前を応援してやるよ」
喉の奥で笑い留めたタカさんは、なんだか妙に甘い笑みを向けてきた。
同士ができるのがよほど嬉しいのか。
「ユーキ」
「はい?」
「俺は、江口の家に人たちには幸せになってもらいたいと思ってるから」
「……でも、まだ、そんな関係になるかどうかもわかんないです」
タカさんは、面白そうに笑って俺の坊主頭を撫でた。
「あの兄弟は手強くて無邪気で強かだから、頑張ろうぜ」
タカさんは、とても柔らかい表情をするようになった。
恋に落ちるということを周りに見透かされているのは居心地が悪く、しかし安心感もあったりする。
俺は罠にかかった獲物のように、捕獲されて捌かれるのを待っている。
そういう想像を頭の中で繰り広げる。
それってつまり、もう手遅れのような気がする。
タカさんもそういう気持ちを散々味わってきたんだろうか。
自分の感じていることを必要以上に言葉にしない人だから。
廊下でタカさんを呼ぶ声がした。
今行くと、低いがよく通る声で応えてから、立ち上がる。
「お前もしっかり惑わされて、悩んでくれ」
そんな捨て台詞を吐いて、タカさんは部屋を出て行った。
手の中には神尾さんのお古のマニキュア。
桜色のそれを、彼女の足の爪に塗る。
想像するとちょっといやらしい光景だった。
そうなるまでには、かなりの月日が必要になるだろうとも思った。
俺は観念する。
最後の恋に堕ちた俺は、彼女が俺の目の前に素足の爪先を差し出してくれる日を待つだけです。
軽くノーマルですみません。脇役のユーキくんに色をつけようと思ったので。
この先、ユーキくんはどんどん友里ちゃんを好きになってって、寮でうっかり彼女そっくりの英介の姿に見蕩れちゃったりしてタカに威圧されたり、なんとなく事態を察した勲兄に牽制されたりしつつ、がんばっていくのでしょう。