日本サッカー界で唯一、ただひたすらに何も考えることなくボールを追うことを許されている選手がいる。
 チームが前を向いた時、背番号十一番が期待を背負いそれに応えるために走り出す。
 貧欲に転がるボールにどこまでも追いすがり、強靭な右足でゴールを演出する。
 喜怒哀楽を剥き出しにして、片岡昴はピッチを疾走する。
 その姿勢にチームは感化され、ゲームの流れを手に入れる。
 拳を天に突き上げ腹の底から湧きあがる感情を咆哮にして発する。
 そんな飾らない姿はフィールドと言う仕事場を離れても変わらず、多くの報道陣にも気さくに応じた。
 若く優秀で魅力溢れるこのストライカーは、全てのサッカーファンと多くの選手から愛された。

Game Maker


「一点を追います、神戸レインボーチャーサー。昨年王者を相手に今日は守備的な布陣を敷いてきました。フォワードには片岡スバルのワントップ。中央にはキャプテンマークをつけていますベテランの富永真吾。前半見事なアシストから片岡がヘディングで先制しましたが、後半に同点と追加点を許しました。J1に昇格してからは常にランキングの五位以上をキープしています。後一歩で強豪チームには及んでいませんが、安定した戦力を見せています」
 実況席の山口はちらりと隣の解説者を見た。
「市井さん、今日の試合、神戸RCの方で何か気になることはありますか?」
「スバルがよくないですね」
 快活でよく喋る男だが、物事をはっきり言いもする。
 こんな男だから現役時代から後輩達にも慕われ、サッカーニュースのレポーターにも抜擢された。
 ファンにとっては選手達の素顔について語られるのはたまらないだろう。
 現役を退いても多くのファンを持っている。
「真吾はいい場所にパスを出してるんですけどねぇ。スバルの足も動いてないし。スバルらしくないプレーの連発なんですよ。途中で諦めているような印象を受けるんですが……」
 市井が時計を少し気にした。
 ロスタイムの表示は二分だ。
 それでJ1の第十節が終了する。
 三位につけている神戸RCとしては、今の順位を保ちたいはずだ。
「残り時間が刻々と過ぎていきますが、延長戦へ持ち込むことができるでしょうか。神戸」

 ピッチで神戸RCのキーパーのキックが長く飛んだ。
 右サイドの選手がそれを受け、サイドラインぎりぎりを走る。
 屈強な外国人選手に阻まれ、足を止めて視線を中に流した。
 中央で富永が手を上げている。
 高く蹴ったボールを富永がダイレクトでゴール正面に運んだ。
「スバル!」
 富永がもどかしさを胸に貯めないように声を発した。
 相手キーパーが疾走して飛んだ。
 昴の頭に合わせたボールは、昴の毛の先にも触れることなくキーパーの腕の中に落ちた。
「おっと、片岡どうしたのでしょうか。いつもの彼らしいプレーを見せることができません。富永の相手の意表をつくアシストを得点に繋ぐことができませんでした」
「神戸は早くディフェンスに戻らなきゃいけませんよ」
 神戸RCのディフェンスラインの隙をついた相手チームがサイドチェンジを繰り返してフリーの選手を作り、そこにパスが通った。
「神尾、頼むぞ」
 神尾が体勢を低くして、無意識にグローブの裾を引っ張り構える。
 ボールを持っているのは得点王者の桜井だった。
 一対一。
 桜井が前を向いた。
 右。
 左。
 視線が揺れる。
 桜井の足が引かれた時に、富永は顔を歪めた。
 赤いフラッグが振り回され、スタンドの人並みが大きく動くスタジアムの中央で片岡昴は立ち尽くしていた。


 

 

「昴」
 歓声の中でも妙に低くはっきりと届いた声に、昴はのろのろと振り向いた。
「今日のお前のプレーは最低だ」
 表情と滴る汗が一致しない不気味な雰囲気を見せ、富永真吾は冷静に言い放った。
「やめっちまえよ。サッカー」
 市井の眉間に皺が寄った。
 小さな画面にアップになった二人の選手を心配そうに凝視する。
「神戸RCの選手間で揉め事が起こっているようですね。片岡昴と富永真吾のようですが。幼馴染のこの二人はゲームでは絶妙なコンビネーションを見せまして、代表での試合にも揃って起用されることが多いコンビであります。RCホットラインという名前までついているほどの名コンビです。その二人がどうやら険悪な言い合いをしているようです」
 画面で見ても、富永の冷淡な物言いが想像できた。
 兄弟喧嘩のような言い合いや小競り合いなら、普段から日常茶飯のように繰り返している。
 が、それがピッチの上になれば話が違う。
 富永真吾は自分がピッチに立ってプレーすることを仕事だと考える選手だ。
 あまり感情を表には出さない。
 得点が入っても笑顔がのぞくことはない。
 プロフェッショナルを常に意識したプレーを見せる。
 ピッチから降りれば皮肉屋でちょっと食えない男という魅力ある面を見せるのだが、試合直後に怒りであれ喜びであれ感情を表に出すことは珍しいのだ。
 そんな富永の前で、昴は立ち尽くしている。
 その顔が紙のように白いと思うのは、相棒からぶつけられる怒りにショックを受けているからか。
「今のお前がピッチにいることでチームの状態が悪くなる。迷惑なんだよ。プロなら、自分のプレーに責任持て」
 昴の奮えた唇が神経質に引きつり、すぐに竦んだ自分を叱咤するように怒鳴った。
「そんな言い方しなくてもいいだろうっ」
 あ、と市井が小さな声を発した時には、富永の片方の眉がひょいっと上がりそれと同時に右手も上がっていた。
「痛っ」
 そう呟いたのは山口だった。
 強烈な平手打ちシーンはその日のサッカーニュースに大きく取り扱われ、現役を退いて解説者となった彼等の先輩達は、首を捻り苦笑を浮かべてやり過ごしたのだった。


 

 

「イチさーん」
 大衆居酒屋の割引券を銜えて、いつもの笑顔を作ろうとしてどうしようもない失敗をかましている片岡昴が、マンションのエントランスに立っていた。
「どうした、絶不調のエースストライカー」
 左頬にはくっきりとした手形がついている。
 手加減されなかったらしい。
 どうしても形成することのできない笑顔を、それでもどうにか取り繕うとしている様が余計痛々しく見える。
「わかっててそう言うこと言いますかね。可哀相な後輩に」
「仕方ねぇなぁ。慰めてやるから奢れ」
 市井が神戸を去る通達を受けた頃、片岡昴は現れた。
 一緒にプレーをしたのはたったの数回。
 多分片手で数えられるほどだったはずだ。
 最も、市井のポジションが昴と同じフォワードだったせいでチャンスもそうはなかった。
 ただ、自分とすれ違いにピッチに立った少年のプレーの鮮やかさがいいなと思ったのだ。
「で、スバルはどんな悪戯をして真吾を怒らしたんだよ」
 居酒屋の奥で、オレンジジュースに留める昴の前で市井は遠慮なく焼酎を口に運んだ。
 引退してから飲酒量が増えた。
 後輩と飲む時には必ず飲み過ぎだと言われてしまうようになった。
「イチさんも、怒るから言いたくないんですけど」
 旺盛な食欲も今はさすがに見せない。
 ちょびちょびと景気悪くコップに口をつける。
 市井としては、どんなに笑える話しが飛び出してくるのか楽しみでもある。
 何せ昴と富永の喧嘩と言ったらくだらないことばかりで、あの富永がこんなくだらないことに反応するのかと言うほど子供地味ている。
 富永が昴のおやつを勝手に食べたとか、昴がストレッチで体の固い富永に無理させたとか、そんなところがいいところだ。
「言ってみろ。景気良く笑い飛ばして明日のニュースのネタにしてやるから」
「じゃあ、言いますよ」
 ムキになったように昴が顔を上げた。
 アルコールは入っていないくせに、少し顔が赤い。
 なのに、その表情は不安に歪んでいる。
「……俺、セリエAに呼ばれたんです」
「セリエA……。セリエA? セリエAだってっ?」
「俺、行きたくないんです!」
「……」
 市井の驚愕の声を今度は絶句に持ちこんだ、昴の切実な声は市井に冷静さを取り戻させた。
 目の前のエースストライカーは、がくんと項垂れ、搾り出すようにもう一度行きたくないのだと答えた。
「それ……真吾にも言ったのか?」
「言いました」
「そりゃあ、殴られる。殴られて当然。平手じゃ安いだろう。拳でもいいくらいだ。っつーか、辞めろ。今すぐサッカー選手の選手生命閉じてくれ」
「……イチさん……真吾よりもきちぃ」
 ゴツンと頭をテーブルにぶつけて消え入りそうに呟いた。
「何でだよ。何で行きたくないんだ。俺にはその理由がさっぱりわからん」
 途方に暮れる感情そのままに、市井は焼酎をがぶりと飲んだ。
 イタリアリーグのセリエAと言えば、世界最高峰のレベルのリーグだ。
 そのリーグに日本人選手が呼ばれたと言う。
 今までの日本サッカー史上でも、セリエAと言わずイタリアのリーグでプレーできた選手は本当に数えるほどだ。
 そこでプレーできると言うことはサッカー選手としてはかなり幸せなことだ。
 行きたくても行けるところではない。
 市井も現役時代は、機会さえあればイタリアリーグ行きを夢見たものだ。
 それなのに、目の前のこの若者は何を言い出すのか。
 さっぱり理解ができない。
 中学生になった娘の言っていることも時々理解できなくなって、自分が年をとったのだと自覚はし始めたが、まさかサッカー界でこうまで決定的なジェネレーションギャップが生まれるとは思っていなかった。
「イチさん、イタリア語、喋れますか?」
「喋れるわけねぇだろう。まさか、言葉のことか?」
「それもありますし、環境とかも違うし知ってる奴いないし」
「それだけで行きたくないのか?」
「死活問題です」
 再び俯いて言い切った昴の茶色い頭を眺めて、市井は小さく嘆息した。
 大胆なプレーで観客や選手を魅了するピッチ上の姿からは想像もできないが、片岡昴はひどくデリケートな性格をしているのだ。
 弾けるような明るさを持つ反面、ちょっとでも叩けば壊れてしまうような繊細さを持っている。
 今の昴のプレー環境は申し分ないだろう。
 自分を誰よりも理解してくれる富永真吾のいる神戸レインボーチャーサーは、彼を手放しはしないだろう。
 高校生の時にJリーグの強豪チームからJ2までのオファーを受けていた。
 それを強豪チームからの誘いを蹴って、この野郎は当時J2からJ1へ昇格したばかりの神戸RCを選んだのだ。
 富永真吾が所属しているからという理由のみで。
 甘ったれた坊ちゃんだと笑う者もいるが、それでもこのプレーヤーを嫌いになれないことも確かだ。
 そう言うことが許されている人間でもある。
「もっと巧くなりたくはないのか?」
「なりたいですよ。でも、俺はそれがイタリアへ行って叶うとは思えないんです。俺は外国への移籍に意味があるって思えないんですよ。日本のレベルはそんなに低いですか?」
 そして、斬新。
 弱いといわれるものを弱いと思わない。
 それを口にしてしまう。
 繊細とか思えば大胆で、ちょっと眩暈をもたらしてくれる。
「俺はこの国でサッカーすることになんの不満もないです。だから、イタリアに求めるものもない。なら行かなくてもいい。って、真吾にも言ったんですよ。そしたら……」
「叱られただろう?」
「叱られませんでしたよ。あぁそうか、じゃあ勝手にしろです」
 ふっと脳裏に酷薄にそう告げるあの冷血漢の表情が浮かんで、苦笑を零してしまった。
「なら勝手にするって豪語したんだろう?」
 無言の肯定があった。
「だけど、行かなきゃいけないのかってひっかかってる。それが今日のプレーだ。足は動いてないし、動きも鈍い。ボールを追いかけようって姿勢もなかった。真吾はだから怒ったんだ。イタリア行きを蹴ったことじゃないぞ」
 逸らしがちだった目を昴から合わせてきた。
「イタリアを蹴ったのなら、お前は日本でそれだけのプレーをして行くべきだ。近いうちにメディアも嗅ぎつけるだろうから、きっとお前に対するバッシングもきつくなる。それを払拭してやるだけの姿勢を見せつけなきゃダメだ。それが今日のプレーには見えなかった。だから、真吾はぶったんだよ。過ぎる我儘にご立腹してな」
 半分ほどに減ったオレンジジュースを注ぎ足してやれば、昴は喉にひっかかっていた小骨がとれたような顔をしてその手元を呆然と凝視した。
 行かなければならないのかと、本当は思っていた。
 行くべきだとは思うのだ。
 本当は。
 イタリアで世界の強豪達の中でプレーすることは、自分の力にはなるかもしれない。
 が、一歩間違えれば、潰れてしまうだろう。
 そう言う危うさが自分の中にあることを知っている。
「俺は、それでも行くべきだとは思うがな」
「いいですよ。俺、テクなしだから日本の車も大したことないなって言われて終わりですよ。イタ車にゃ勝てません」
 確かに昴はテクニックがあるとは言い難い。
 出たとこ勝負のプレーではあるが、それらを補うことのできる姿勢がある。
 周りを巻き込むことのできるパワーを持っている。
 だから、代表に起用されるのだ。
 普通に考えれば、イタリアのリーグがこんなテクなしの選手を呼ぶはずがない。
 イタリアが目をつけたのは、スバルという選手の持つある種のカリスマ性かもしれない。
 もしそうならば、行かない方が懸命かもしれない。
 昴のためにも、イタリアサッカーの名誉のためにも。
 片岡昴と言う選手が最高のプレーを見せるには、幾つかの条件が必要になる。
 彼の魅力を必要とするチームとチームメートに、彼を上手く使うことのできる監督、親しみを込めてスバルコールを歌うサポーター。
 そして最高のパサーである富永真吾の存在。
「それに、怖いじゃないですか。自分が変わってしまうこととかって」
「馬鹿。変わることなんか大したことじゃない。それにそうそう人間、変わりはしないんだ。本当に怖いことってのはな、終わってしまうことだ」
 引退試合のあの言い知れない感情の昂ぶりと、喪失感。
 降り注ぐ紙吹雪は自分のためのものなのに、たまらなく切なく感じてしまう。
 あの複雑な感情を富永真吾は遅かれ早かれ、昴よりも早く味わうことになるのだろう。
 そうなってしまう時が、昴が変わる時だ。
「次の試合、楽しみにしてるからな」
 日本のサッカーが変わるのは、その時かもしれない。
 どうかその変化が、この国のサッカーにとってより良い方向へ転がる結果になるように、先達として祈るだけだ。


 

 

 市井が退席する時には思いっきり文句を言っていた昴だから、この後は多少すっきりした分しっかり食べてから帰るのだろう。 
 食欲も出てきたのかメニューを広げていた。
 それを置いて店を出ると、店先に停まっていたブルーの国産車が目に入った。
 外車くらい買えるだけの収入はあるのに、何時までも国産車に乗っている。
 運転しやすいんですよと言う。
 そんな拘りを持っている市井の現役時代の良きパートナーが、ウィンドウを降ろして薄く笑みを浮かべた。
「もう一軒、行きましょうよ」
 ファンタジスタ・富永真吾の行き先は小さな洒落たバーだった。
 神戸RCの攻撃の要だった市井と富永は、富永と昴ほどの仲ではないにしろ親しい付き合いだ。
 市井が現役を退いてからも、時々飲みに行く。
 富永が案内するのは洒落たバーで、マスターにも顔を覚えられた。
 カウンター席につけば市井にはウィスキーが、富永にはレインボーと言う凝ったカクテルが何も言わずとも出されるのだ。
 リキュールの比重を利用して、色とりどりのリキュールを何層にもわけた虹色のカクテルはいかにも女性が好みそうだ。
 はっきり言えば富永には似合わない。
「聞きました?」
 単刀直入とも遠回りとも聞える問いには素直に答えた。
「聞いた」
「で、仕方ねえなぁって言ってきたんでしょう?」
 最下層の赤いリキュールを綺麗に吸い取る。
 神戸レインボーチャーサーの名前と同じ、虹色のカクテルを一杯だけ。
 時間をかけて、一層一層を会話の合間に吸い込んでいく。
 そんな姿に、富永の自分のチームへの愛着を感じてみたり。
「似たようなもんじゃないか」
「いや、ちょっと期待しましたね。俺はイチさんがあの馬鹿を説得してくれるんじゃないかってちょっとだけですが、期待してました」
「行く行かないは、その馬鹿が決めることじゃないか?」
「そうですけどね。でも、想像してくださいよ。片岡昂と言うストライカーがイタリアの、世界最高峰のリ―グに行ってちょっとでもあっちの選手の技術を吸収して帰ってくる。日本のサッカーは強くなる。そう思いませんか? 俺は想像するだけでゾクゾクしますね」
 そう語る富永の横顔は、彼にしては珍しく興奮の色を見せていた。
「俺はお前の方が行く可能性があると思っていたがな」
「ダメですね。そりゃないですよ。だって、俺が昴の年の頃っつったら、スランプに入ってましたから。今じゃもう枯れ気味に見られてるし」
 絶妙のタイミングで繰り出され、相手ディフェンダーの隙をつくパスを出すアシスト。
 冷静な判断力とセンスでチームをまとめる司令塔は、二十五歳のあたりで一時代表候補から外れた。
 深刻なスランプに陥ったのだ。
 片岡昴の父親で富永が目標とした元日本代表ミッドフィールダーの片岡保が急死を遂げた。
 それから数ヶ月間、富永のプレーは冴えなくなり、あまつ集中力を欠いたプレーで怪我をしてピッチから姿を消した期間があった。
「俺は、後悔してますよ」
 もう一層。
 そっと細いストローから吸い上げる。
 沈黙が、何をと問う。
「いろいろと。昴を甘やかしすぎたかなとか、もっときついパスばっか出せばよかったとか厳しくするべきだったとか。俺、一人っ子だったし母子でお袋は家にいること少なかったし、かわいかったんですよね。昴が」
 苦笑。
「俺が、引退したらどうするんだろうとかって、考えたらちょっと沈みますね。駄目にしちまったら、俺が責任とろうにもとれないですよ。あいつを潰したときに日本サッカーが被る被害とか考えたらちょっと背筋寒いです。俺はあいつにはもっといろんな選手からのパスを受けて欲しいんですよ。幅のあるプレーをして欲しい」
 市井が三十路になった年に、神戸RCは市井を解雇した。
 最初は指導に回らないかと誘ってくれたのだが、それを蹴った。
 まだやれる。
 そう言い張って、チームを転々としJ2にも所属し、三十五歳の時に現役を退いた。
 古巣神戸から離れ、チームを渡り歩いていた頃には今までに味わったことのな焦燥や屈辱やもどかしさを知った。
 移籍先でベンチを暖めるだけの毎日が、否応無しに市井に引退までのカウントダウンを刻ませた。
 スポーツ選手には二度の死がある。
 選手生命の終わりと、人間としての人生の終わり。
 それを富永は視野に入れた。
 これからが苦しい時期だ。
 富永の場合はそれが自分一人の問題ではなく、相棒の選手生命までもを背負っていることになる。
「だからちょっと親離れしてもらおうと思ったのに、あの野郎甘ったれやがって。ガキみたいな駄々捏ねてイタリアからの誘いを蹴るし。俺の言い方が悪かったのか、胸糞悪いプレーなんかするし」
 また一層。
「日本にいるなら、いるでかまいませんよ。ただし、俺はチームメートとして、片岡昴のファンとして、常に最高のプレーをあいつに要求しますがね。背負わせすぎだとか甘いことを言わないでくださいよ。ピッチに立つ者は潰れるくらいの重責を負うべきだ。イチさんだって、二十八かそこらの頃に御自慢のスポーツカーに爆竹投げ込まれたじゃないですか」
 ストライカーへの風当たりは冷たい。
「アジア予選が始まる」
「えぇ」
「俺は見たいよ。片岡昴が責任って重みを背負ってピッチに立って、がむしゃらにボールを追いかける。そこに、お前のどんぴしゃりのパスが飛んでくるんだ。そして、ボレーシュート。最高だろうね。日本サポーターはどうしようもなく興奮するだろうよ。それから、紙吹雪だ。日本のサッカー史上に新たな一歩。見たいねぇ」
「……見せますよ。サッカー選手なら、誰だって夢見る舞台です。あの昴も、イタリアには興味がなくてもワールドカップになら顔色を変えますからね。イチさんに、最高のゲームを約束します」
 富永はそう言って、人を食ったような笑みをのぞかせた。
 アジア予選一ヶ月前の会話だった。


 

 その夜、夜通しプレーステーションのサッカーゲームに興じた片岡昴と富永真吾は練習に遅刻して、取材と理由付けて様子を見に来た市井の前で延々とランニングをする醜態を晒した。
 サポーターにまた面白おかしい情報を提供できると、笑顔も消えうせげっそりとして走りつづける二人を眺めながめていた市井の脳裏にふっとある光景が蘇る。
 降り注ぐ紙吹雪と、スタンドの青い波。
 抱き合ったチームメートの咽び泣き。
 あの高揚感を味わうまでの長い長いそして苦しい道のりを。
 ワールドカップという世界の舞台までの道のりを。
 アジア予選を切り抜け、目指す先は開催地スペイン。
 スタンドを埋め尽くした日本代表サポーター。
 その歓声を力にかえて、ピッチを走るイレブンの姿を想像する。
 決して不可能ではない。
 込み上げた興奮と笑みを見た昴と富永が、怪訝な表情を浮かべて市井の前を通り過ぎた。

 

 

 

 

 スタンドは青い人波で埋まった。
 ピッチに姿を現した青いユニフォームの日本代表と、赤いユニフォームの韓国代表が対峙した。
 歴史的なゲームと言われる試合はそうない。
 けれど今市井の眼下に並んだ選手達の戦いは、おそらくは歴史的なものになるだろう。
 このゲームに勝てば、日本はスペインワールドカップのチケットを手に入れることができる。
 そんなゲームのキックオフが告げられた。
 ピッチの中央に赤いキャプテンマークを付けた富永真吾。
 フォワードにはベテランの桜井と代表最年少のツートップを組んだ。
 守備はアジアの鉄壁と言われる日本代表ではお馴染みの三人がいる。
 ゴールマウスを守るのは予選の初戦で大量失点を許しリベンジに燃える神尾が入った。
 中盤を固めるのはJリーグでも高い技術を誇り、各チームの司令塔として活躍している連中だ。
 これ以上ないメンバーで臨んだゲームだ。
 アウェイというハンデは愛すべきサポーターによって打ち消された。
「最高のメンバーでこのゲームに挑みました日本代表。しかし、しかしながらライバル韓国に前半三十分を切ったところでコーナーキックからの先制点を許しました。日本イレブンは一点を追う形になっています。市井さん……どうでしょう。この試合。どうにかして、どうにかしてスペイン行きの切符を手にしてほしいですが」
 もどかしさにどこか上擦ったようになる山口の声を聞きながら、市井は軽く唇を噛んだ。
 日本のプレーは悪くない。
 悪くないが、韓国の鋼鉄の守りに阻まれて、桜井はシュートすら打てないのだ。
 加えて、日本のキーマンの富永を封じようとよほどの研究をしてきたのか、富永へのプレッシャーが非常に厳しい。
 韓国のもらったイエローカードは三枚だが、いずれも富永へのプレッシャーをかけていてとられたファールだ。
「まだ、日本は全てのカードを切ってはいませんからね。行けますよ。絶対に」
「間もなく後半のキックオフです。選手達が円陣を組んでいます。日本側では選手の交代はないようですね。……市井さん。富永が……笑ってますね」
「え?」
 画面にアップになった富永は、山口の言う通り確かに笑っていた。
 何時かの夜に見せたあの人を食ったような余裕の笑みだ。
 ピッチの上は自分の仕事場だから、ちんたらしない笑わない。
 手を抜かない。
 自分で納得できないプレーはしない。
 プロでありたい。
 それが、富永真吾と言う男のサッカー選手としての矜持だった。
 ボールを受けて、前を向く。
 広い視野がチャンスを探し、目敏く見つける。
 狙った場所へ正確なパスがくる。
 彼のボールを受けるフォワードの選手曰く、一番ボレーシュートを打ちやすいパスだと言われるパスが。
 そんな男が何かを予感させるように笑みを浮かべて見せた。
「富永にボールが渡りました。前を見ます。桜井が手をあげてボールを欲しがります。左からはウィンドバックの込山。富永走ります」
 左。
 右。
 軽く体をゆすって、左に一歩踏み出しフェイントをかけて右からディフェンダーを抜いた。
 カバーに入った選手の股にボールを通して、走りぬける。
 後からユニフォームの裾を引っ張られた。
 顎から芝生の上に倒れ、ボールを一瞬見失う。
 立った。
 探して、目の前に転がるボールを見つける。
 さらって行こうとする選手よりも早く足を払うようにして奪った。
 そうしながら立ちあがり、ゴールを見た。
 青いユニフォームが視界の左端にちらついた。
 桜井。
 アイコンタクトを交わす。
 桜井がまるで何かを計るように走りこむスピードを早めた。
 キーパーが気にして、桜井の頭を警戒する。
 距離は三十メートル。

 過去の日本代表に素晴らしいミドルシュートを放つ選手がいた。
 彼がワールドカップの舞台で放ったシュートはポストに嫌われ、高く宙を舞い試合終了のホイッスルが響いた。
 両手で顔を覆って、号泣した片岡保。
 彼は富永の父であり、目標だった。
 支えでいてくれた選手がいなくなった時、富永は長く暗い迷路に迷い込み、自らの力でそこから脱出した。
 富永プレーが安定しレベルが上がったのがその時だった。
 もう一度、前を見た。
 他の何も見ることなく、ただゴールマウスだけを視界に入れた。

「富永、前を見ました。一人抜き、二人、バランスを崩しましたが立ち上がりました。ファールはありません。これはアドバンテージをとりました。おおっと三人抜きです。桜井が左サイドから走りこみます」

「撃て、真吾っ!」

「どうする、富永! 前を見ました。シュート! 入ったーっ! ゴール! ゴール! ゴールです! 富永真吾、強烈なミドルシュートを自ら放ちゴールネットを揺らしましたぁ! 素晴らしいシュートです! キーパー一歩も動けませんでした! 日本同点です!」

 

 日の丸が激しく波打った。
 割れんばかりの歓声を浴びて、富永が拳を突き上げた。
 見たかと言わんばかりの笑みを刻んで、白い歯を見せる。
 片岡スバルお得意のポーズを、昴よりも先に決めて見せた。
 その背中に選手がのしかかる。

 

「Jリーグのファーストステージでは、険悪なシーンもありましたが富永真吾がピッチの上からベンチの片岡スバルを呼んでおります。それに応えるかのように、代表監督の小野塚監督が片岡スバルを呼びました。交代です。日本が誇るスーパーサブのスバルが投入されます。富永が変えた流れを、相棒の片岡スバルが引き継ぎます。下がるのは桜井でしょうか。桜井も得点はできませんでしたが、先ほどの富永のゴールシーンでは上手くキーパーの注意をひきつけてくれました。今、ピッチを後にします。頑張りました、桜井! そして、お聞き下さい。このスバルコール!」
 息を切らしながら駆け足でラインを超えた桜井が、スバルの手の平に自分の手の平を打ちつけて言った。
「ワールドカップ、行こうな」
 一瞬だけ破願したスバルがこくりと一つ頷いて、スバルコールの降るピッチに駆け出した。
 向かう先は最前線。
 富永真吾の視界の正面。
「先日、イタリアのセリエAからのオファーがありましたが、それを蹴って日本でプレーすることを選びました。日本のサッカーは決して弱くはない。それを証明するかのように、Jリーグの神戸レインボーチャーサーでは世界レベルのプレーを見せて観客をわかせています。富永とのRCホットラインでゲームの流れを日本の方へと引き戻してくれることでしょう。日本イレブンに、片岡スバルが投入されました。日本の攻撃はこれから始まります」
 山口の言う通り、日本の攻撃は昴の投入から始まった。
 ボールの支配率も高くなり、このまま一点差を守り抜こうとする韓国を翻弄した。
 硬い守りの壁の隙を縫い、ペナルティエリアに食い込みチャンスを幾度かつくりあげた。
 韓国の守備が少しずつ乱されていく。
 富永を起点にボールは敵陣に放られる。
 何度も何度も。
 右。
 左。
 素早いサイドチェンジを繰り返す。
 中央に集められるボールを追うのは昴。
 体格が大きいとは言えない昴がゴールに向かって頭から突っ込む。
 何度も阻まれ、キャッチされ、チャンスが結果に繋がらない。
 富永へのマークが厳しくなる。
 同じく昴の動きも制限されてきた。
 苛立ちが、ちらりと胸を焦がす。

 だめだ。

 気持ちをもっていかれたら流れを持っていかれる。

 落ち着け。

 気持ちを鎮めるように、少し長めの呼吸を繰り返した。
 ゲームは韓国の選手が転倒して足を痛めたため止まっている。

 

 とある瞬間に、耳に入ってくる日本コール。
 スタンドの色は青。
 ぞくりと今更ながらに背筋が粟立った。
 ぞくぞくと、体が震え始める。
 ゴールを決めた時には感じなかったのに。
 震えが力に変わる。
 腹の底から込み上げてくるわけのわからない力。
 前回のワールドカップアジア予選はほとんどベンチにいた。
 ピッチに立てなかった。
 ピッチに立てても、動くことができなかった。
 前々回。
 ワールドカップに進出した。
 世界の力との差を見せ付けられて敗退した。
 世界との差をいつも意識していた。
 追いつかなければ。
 いつもそればかりを考えて代表試合には挑んでいた。
 並びたい、追いつきたいと、そう思っていた。
 それを、昴は否定した。
 自分のサッカー人生をかけて否定しやがった。
 日本は弱くない。
 弱い国じゃない。
 富永の必要だったのは、多少鬱陶しいくらいの自信と過信だった。
 

 残り時間はそんなにないはずだ。
 追加点がほしい。
 決勝点になる一点が。

「昴!」
「あぁ?」
「行くからな、ワールドカップ! お前にボール、全部やる! 全部ゴールにきっちり決めやがれ!」
「……。オーケー」
 富永は三十歳。
 この先、代表に選ばれる確率がぐんとさがる。
 この試合が最後かもしれない。
 それを昴も考えていた。
 いつまでも、一緒にプレーできるはずがない。
 先に富永が引退し、昴はホットラインの片割れをなくしてピッチに立つようになる時代がくる。
 不安はある。
 富永にも昴にも。
 けれど今は、自分達にできる最高のプレーをするだけだ。
 バックパスでボールが神尾に戻った。
 時間がない。
 ラストチャンスだ。
 神尾が高く高くボールを蹴り上げた。
 込山がヘディングで競り勝つ。
 大きく跳ねたボールをミッドフィールダーが取り、前を見た。
 富永が手を上げる。
 マークは三人。
 走ってスペースを探した。
 ついてくるマーク。
 ボールが降りてくる。
 視線の先に昴を一度捕え、少し短めに届くボールに向かって走った。
 マーク。
 邪魔だ。
 体当たりで突き飛ばした。
 スペースを作ったところにボールが降りてきた。
 地面に落ちるのを待たずに掬い上げるように蹴った。
 視界の端。
 昴が走り出している。
 背番号十一番が揺れている。
 込山も走りこんだ。
 ディフェンダーに体当たりを食らわしている。
 キーパーが出てきた。
 際どい間合い。
 下手をすればキーパーチャージをとられる。
 昴のスパイクがピッチを蹴った。
 更に加速する。

 ボール。

 薙ぐように昴の足がボールを蹴った。

 そして、全ての音が、なくなる。

 歓声がスタジアムに轟く。

 ボールはゴールネットを揺らし静かに転がった。

 昴が拳を天に突き上げ吠えた。

 腹の底から湧きあがってくる感情をそのまま吐き出した。
 そうしている内に体が地面に向かって倒れた。
 笑い声が、頭の上からふってくる。
 大量に。
 目を開けた。
 気持ち悪いくらいの全開の笑顔の富永がいた。
 大きな手が、わしゃわしゃわしゃと頭を撫でたかと思うと、立ち上がって手を差し伸べてくる。
 取って立ち上がって
 ピッチを見た。
 監督が笑っている。
 仲間が笑っている。
 自分の名前が歌われている。
 韓国のキーパーがゴールキックを放った。
 ホイッスル。
 試合終了が告げられたピッチに紙吹雪。
 耳をつんざく歓声があがる。
 韓国選手はその場に座り込んだ。
 監督やスタッフがラインを超えて選手と抱き合い、額を付き合わせて歓喜の声をあげている。
 そんな中で、富永は一人立ち尽くし天に向けた顔を両手で覆っていた。
 富永を、コーチと抱き合いながら昴が見ていた。
 肩が数回震え、ふいに俯く。
 その肩に、風に吹かれた紙吹雪が舞い降りた。
 再び、世界に向かって名も無い犬達が、歯牙をむくチャンスが与えられた。
 いや、自分達の手で、手に入れた。
 
 ざまぁみろ。
 
 何に対してそう思っているのか知らない。
 来年のワールドカップの舞台に自分の姿がなくてもいい。
 
 ザマァミロ。
 
 繰り返すと笑いが腹の底から込み上げてきた。
 汗だらけの顔を覆っていた手を離し、両方の拳を固めて掲げた。
 切符はいただいた。
 
 ザマァミロ。
 
 顎から滴っていくのが汗なのか涙なのかなんか知るか。
 戦いぬいた。
 今はそれだけでいい。
 後悔しな戦いができたのだ。

「真吾、その笑顔は気持ち悪いよ」
 しゃくりあげながら笑って、昴が言った。
 日の丸で止まらない涙を拭いている。
「お前のその面の方がよっぽ情けない」
 支えあうように肩を組んだ。
「今ごろイチさんも泣いてるな」
「泣いてる泣いてる。号泣だよ。実況山口さんだよな。きっと困ってるぜ?」
「一緒に泣いてらぁ」
 イレブンが、疲れた体に疲労の色を見せることなくスタンドの前を巡っている。
 ウィニングラン。
 サポーターを煽りながら、笑いながら、泣きながら。
「素晴らしい、素晴らしい試合でした。最後まで諦めることのないプレーを見せ、勝利をもぎ取りました! この代表を率いた小野塚監督もコーチの方々も、完全燃焼で戦った選手達も、ほんの少し前までは空き地でボールを追いかけるサッカー少年達でした。おそらく、その頃には自分達が世界の舞台に立ち、戦うなどとは夢にも思わなかったことでしょう。小野塚ジャパン、ワールドカップの舞台スペインで世界に挑みます!」
 山口の声は上擦っていた。
 ここで号泣してしまわないところがプロなのだ。
 隣の市井は解説のプロではないから、顔を覆って嗚咽を漏らしていた。
 最初は山口の言う通り、空き地でボールを追いかける少年だった。
 やがてそれに、命をかけはじめた。
 たくさんのものを背負い、ピッチが戦場にかわった。
 それでも変わらなかったのは、自分達がサッカーと言うスポーツが好きで好きでたまらないと言うこと。
「あぁ、みんな、いい顔をしています」
 子どものような笑顔をして、悠々とした足取りでピッチを歩く。
 その肩には紙吹雪。
 選手達は手にした勝利の味を噛み締める。
 サポーターに手を振って応える表情は誇らしげに輝いている。
 ボールを追いかけ続けた少年達が、今壮大な夢に向かっての第一歩を踏み出した。

Road to …… !



大学の部誌テーマ「虹」に掲載したものです。あっはー、とうとうやったよサッカーネタですね。
誰がモデルかは不明のままで。ちなみに実況の山口は角ちゃんです。そして、市井は柱谷さんか水沼さん。どちらかというと水沼さんで(笑)
スペインワールドカップとか適当ですし、韓国を最終戦の相手にしたのはやはりライバルだからv
テーマはこじつけですね(苦笑)チーム名と途中で無理矢理だしたカクテルの名前だけです。こんなんでも許してくれた編集さんに感謝ですね。

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