ふと、彼は部屋を出て行った。
どこか思いつめた表情で。
まだ外せないでいるらしい。
ちょっと呆れながら、それがあいつらしいと思った。
掲げられた電光掲示板は、神戸RCの司令塔の交代を告げていた。
ピッチを降りる富永さんがタカに近寄る。
腕に巻いた赤い腕章を外しながら。
「ほらよ」
目を大きくしたのが見えたのだろう。
汗だくの顔に余裕の笑みを刻んで、腕を伸ばす。
その手が掴んでいたものを、タカは思わずといった様子で受け取っていた。
「頼むぞ」
肩越しに振り返り、活きのいい若手の肩を叩きタッチラインを超える。
笛が鳴る。
手にしたままのキャプテンマークに慌てて腕を通し、どうやって留めるのかパニクっている。
マジックテープが勝手に留まって、腕にしっかり巻きついた。
前ふりは、なしだった。
富永さんがピッチを降りる時、今までは副主将として登録もされている坂本さんの手に腕章は移った。
最年長の落ち着きに、それは託されてきた。
今日のピッチには坂本さんもいた。
戸惑うタカを笑う坂本さんの横顔が見えていた。
経験を積んできた選手達の間で、何かが計画されていたのだと気付いた。
ゲームが終わって腕章を返すと、どうだったと尋ねられていた。
よくわからなかったですと答えていた。
わからなかった。
重たいとは思ったと。
だけど何の重みなのか、わからなかった。
だろうなと笑われていた。
周りが呆れるほど考え込むことがある。
うだうだと自分のどこがいいのかとか、取り得とか、長所とかを考えているはずだ。
以前、目の前で自信がないと悩む姿があまりに鬱陶しくて、そんなでプロをやってるなんてプロを目指している人に失礼だと怒ったことがあった。
それ以来、自分の良さを自分で認めてやれなくなったら必ず俺の前から姿を消して、人気のない平日の市立図書館の片隅に向かう。
図書館の二階。
壁際の机に突っ伏した背中はすぐに見つかった。
午後の陽射しを背中に背負って、銀幕の妖精と称されたオードリーの写真に物憂げな視線を投げかけて。
でかい分、滑稽な姿だ。
なんでその体格に見合うだけの自信が生まれてこなかったのか。
なんで鮮烈なセットプレーや精度抜群のクロスや、ゲームの流れを読むセンスを誇れないのか。
なんで、ボディバランスを長所の一つとしないのか。
なんで、キャプテンマークを託されたことを自信としないのか。
富永さんは、彼に与えたかったんだ。
自信と、世界に通用する可能性を持つ実力の自覚を。
チームキャプテンとしてではなく、一人のサッカー選手として。
タカにはその力があるから。
「オードリー・ヘップバーンが自信をくれるのかよ」
「……。なんでココってわかったんだよ」
「タカの散歩コースを辿っただけ」
「……」
「いいかげん、キャプテンマーク外したら?」
「外してる」
「頭から」
「……」
「代表で十番もらった時もこんな感じになってたな」
「……」
「すげぇうぜぇんだけど」
「放っとけばいいだろ」
「放っといてるのはタカじゃん」
「……」
「見えてないだろ。タカの名前の横断幕見た? タカがキャプテンマーク巻いたら歓声起きたの聞いてた? そういうの、放っといてるのはタカじゃん。サカマガで満点出たのも、解説者が褒めてくれたのも、サポーターが名前を呼んでくれるのも、富永さんが託してくれたのも。そういうの、無視してんじゃん。自分だけで答えが出ると思ってる。そっちの方が、すげぇ自惚れてる」
「……」
「勘違いして、勝手に落ち込んで、馬鹿みてぇ」
「……」
「プロの自覚まるでなし」
「……」
「辞めちゃえば楽になれるんじゃねぇの?」
俺が。
俺が、死ぬ物狂いで手に入れた場所。
みっともないほど勝ちたい勝ちたい勝ちたいって、叫び続けて。
一歩間違えれば、友達なくしていたかもしれないほどに血眼になって。
周りの環境を変えてまで。
絶望を味わわせた家族を安心させる暇も与えずに。
それほど欲しくて欲しくてたまらなかった舞台に、自信がないまま立つなんて。
キラキラするような力をいっぱいもってるくせに、それを自覚しないなんて。
いろんな性格の選手がいるから、こいつみたいなのもいるだろう。
認めるべきなんだろうけど、他でもないコイツのことだから、無理。
もっと堂々としてていいよ。
もっと自信をもってて。
もっと自分を好きでいてよ。
お前のプレーをすごいと思って。
お前のゲームに圧倒されて。
お前のことを親友の延長で好きとか言っておきながら、どんどん本気で好きになってるから。
お前に溺れるみたいに夢中になってる俺の気持ちを否定するような落ち込み方はしないで。
「……うそ。ごめん。辞めないで」
「……っ。ば……か、お前……なぁ」
「馬鹿って言うな」
「だって、お前が謝ってどうするんだよ」
「タカも馬鹿だから、自棄になって辞めたら、困る」
「……辞めるか、馬鹿」
「だから、馬鹿言うな」
「辞めるわけがない」
「なんで?」
「辞めたら、お前に捨てられる」
「……今も捨てかけてる」
「ごめんって。ごめん。俺の、悪い癖だよな。ごめん」
「……」
「憧れてた人だったから、余計にいろいろ考えたのかもしれない」
「うん」
「自信なくしてたら、たぶんお前が励ましてくれるんだろうって、甘えてたのもある」
「……」
「お前の、言う通りだ」
「……タカって、素直だよなぁ」
「あぁ?」
「俺だったら、俺みたいな奴の小言なんて気にしないし」
「……」
椅子に座っていつもよりも低い位置にある顔が一瞬固まって、呆れたようになって、諦めたようになる。
「ムカツク奴」
「お互い様」
「お前のフォロー、乱暴すぎるんだよ」
オラ立てよと襟を引っ掴まれて揺さぶられているような言葉の嵐だと、彼は笑った。
「タカは褒めるより貶して伸びる子なの」
誰かを追いかけるときには、すごい実力と根性を発揮するくせに。
先頭に立たされるとたちまちに不安に怖気づく。
変なところで謙虚なのだ。
「置いていくよ」
背中を向けると、慌てて立ち上がり本を戻しに行った。
待たずに玄関に向かった。
もうすぐ黙って追いついて、半歩後をついてくる。
半歩の距離。
背中を見せる、預ける意味は伝わってますか?
それだって、高山浩二の自信になればいい。
「世話のやけるヤツ」
「すみません」
いつか。
その腕に似合うようになればいい。
誇りや想いや自信や歴史。
いろんなものが染み込んで、とにかく重い重い腕章が。
あの男には、赤道直下の国であろうと常冬の国であろうと崩れることの無いコンディションと、九十分間いつでもトップスピードが出せるスタミナと、スピードスターの名に相応しい俊足と、パサーの戦術を読み取る力と、どんな劣勢でも折れない心と、サポーターだけでなく多くの人に愛される魅力と、明るさと元気と、まぁとにかくいろんなものをもっている。
長所は上げればキリがない。
けれど短所もそれなりにあると思う。
お付き合いさせていただいている俺が言うのもなんだけど。
例えば、肉体的でも精神的でも痛みを共有させようとしないところとか。
物凄く気が強いくせに、実は押しとか懇願に弱かったりするところとか。
素直になったと思っていると、たちまちに頑固になってしまう極端さとか。
ガードが固いくせに、一度気を許した相手にはユルユルなところとか。
サッカー選手としてあるべき以上の情熱を垂れ流すところとか。
すぐに手やら足やらが出るところとか。
そして何より厄介なのが……
合宿所の廊下を曲がったところで、背後からの衝撃に襲われた。
自分よりもでかい体にぶつかられたのだ。
この合宿所で、自分よりも長身の男は数少なく、俺に体当たりを食らわすような奴には一人しか心当たりはない。
「えっちゃんと付き合うとるって、ほんま?」
歌うような抑揚の大阪弁で、水内純平は問いかけた。
圧倒的体格差で、俺をエレベーターホールのベンチに誘導し座らせる。
俺は水内が英介に好意的な感情を持っているのを知っているし、水内は水内で付き合っているのかと問いかけながらも確信を抱いているから、こうしてサシで会話をするのは面白くもないことなのだが、それを我慢して真相を聞きだそうとする水内の覚悟を汲んで大人しく座ってやることにした。
「ほんま」
「似合わん大阪弁やめぇ。キャラちゃうで。って、マジでか」
ちっと舌打ちをして、水内は長い足を組んだ。
普段は屈託なく明るい奴だが、こうして不機嫌そうにしているとなかなか迫力が出る。
本気なのかと思い知らされるから、水内が醸すシリアスな空気は嫌いだ。
「どこが……」
と、水内はでかい体を曲げて俺の顔をしげしげと眺め、
「えぇんやろーなー」
わっからんわぁと、緩く左右に首を振った。
わかってもらわなくて結構だ。
「これからは背後に気ぃつけや。刺されるで」
「あぁ?」
「お前がモノにしたんは、それだけ人気者ってこと」
ジャージのポケットに手を突っ込んで、水内は俺の横でまっすぐにエレベーターの扉を見ている。
「清二くんとこの前ちょっと話したんやけどな、めっちゃくっちゃ凹んでたで」
思わぬ名前が出てきて、俺は水内の横顔を凝視する。
強豪チームに高校生の頃から所属している怪物快速ディフェンダーは、英介と同じスピードを持ち味とするため何かと意識しあっていたのは知っているが、まさか同業者として以上の気持ちを抱えていたとは。
「なんや、気づいてなかったんか。まぁ、清二くんの場合は自分でも気づいてなかったみたいやけどな。咲く前に散った恋っちゅーわけよ」
「……本当に?」
水内はニヤリと笑って見せただけだった。
ライバルは山ほどいると覚悟していた。
油断なんかしているつもりはないが、意外なところに伏兵がいたものだ。
「まぁ、そういうのはえぇんやけど、中には危ないファンもおるから、そっちを気ぃ付けや」
「やけに優しいな」
「あっほ。誰がお前の心配なんぞするか。気ぃ付けるのはえっちゃんが危ない目に合わんようにっちゅーことや」
すかさず水内の手に叩かれる。
「えっちゃんはしゃんと背を伸ばしとる子やから、それを地面に引きずり倒したいと思う奴もおるやろ。……頼むで」
いっそ、目を閉ざしてしまえば。
耳を塞いでしまえば。
そうすれば楽になれるような窮地で、英介は決して心を閉ざさない。
膝を折らないから余計に傷つくことはわかっているだろうに、英介はそうしない。
嗜虐的な思考を持つ者にとっては、欲求を刺激する存在に映るだろう。
自分に向けられる暴力に屈しない、負けないからこそ英介は傷を負う。
頼むと言ってくれる男の肩に、俺は返事の代わりに手を置いた。
ポーンとエレベーターが到着した音がして、扉が開く。
出てきたのは気づく間もなく恋心を散らしたと言う高岡清二だった。
思わず凝視してしまった俺の視線から、高岡はぎこちなく目をそらした。
誰に対しても真っ直ぐ接してくる奴の、奴らしくない所作は水内の言葉を裏付けた。
「清二くん、何してんのー?」
「んー、誰か面白い映画持ってないかなーって」
「あぁ、それやったら、これから俺ん部屋でゲーム大会するんやけど、来る?」
「いいの?」
「もっちろん」
「高山も行くの?」
「や、こいつは誘ってへん。ゲーム、絶望的に下手やから」
気まずさを薄っすら覚えているくせに、自分にも話を振ってくる。
そういう優しいところのある男だ。
「罪な男やで、ほんまに」
ぽつりと聞こえないほど低い声で水内が言い、笑う。
英介が惹きつける人たちは、曲者達ばかりだがみんないい奴で、俺は彼らの思いを聞く度に背筋がぴりぴりするようなプレッシャーと焦燥と、ほんの僅かな誇らしさを覚える。
再びエレベーターがチャイムを響かせて上昇を止め、扉を開く。
扉が開いた途端、中にいた二人が目を丸くした。
夏木と英介の珍しくもない組み合わせは、奇妙な顔をして顔を見合わせた。
「明日は雨かもな」
呟いた夏木の手は何故か英介の手と繋がっていて、俺と水内と高岡の視線は自然とそこに注がれる。
「……えーと、夏木サン? そのお手手の理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
俺たちの疑問を水内が代弁し、繋がれた手を指差した。
「あぁ、これ?」
ぶらんと繋いだままの手を持ち上げて、夏木は掴みきれないような微笑を浮かべて答える。
「迷子の子猫ちゃんが、また迷子にならないようにと思って」
迷子の天才は、何度も利用しているこの宿舎でまた迷子になっていたらしい。
「……もう離してもいいんじゃないの?」
高岡の言葉に、あぁそうねと笑って夏木は英介の手を離す。
憎たらしいほど完璧な笑顔に、水内も高岡も乾いた笑いを返し、英介だけがきょとんとしている。
「なっちゃんは潔白が証明されとるもんな。そら、安心してちょっかい出せるわ」
婚約者持ちのチームリーダーはフフンと笑う。
「これが恋愛ドラマだったらB級どころか。悪役にもなりきれない間男なんて、救われないぜ?」
まったくだ。
憎めもしないライバルなんて、どう接していいのかわからない。
水内はやかましいわと突っ込みを入れ、自分の気持ちを把握できていない高岡は原因不明の胸の痛みに首を傾げ、俺は好敵手に囲まれ てきょとんとしている恋人を見る。
江口英介が抱える、何より厄介な短所。
それは、俺なんかよりもずっとずっと魅力ある連中を惹きつけてしまうこと。
憎めず、嫌えず、頼もしいライバルを俺は大勢得てしまう。
「まぁ、お前らのドロドロと爽やかな多角関係はどうでもいいんだけど、明日の対戦相手のエースいるじゃん」
「怪我してるんじゃないの?」
「や、明日は出るっぽいな」
「マジっすか」
「攻撃力一気にアップやな。引いてくるっちゅー想定で練習してたのにな」
「まぁ、大丈夫だろ」
ふと零れた俺の言葉に、四人が目を見開いて俺を見た。
キャプテンマークが最も似合う不動のセンターバックに、守備もこなしながらアタッカーとして前線に出張してくるサイドバック、その背後には前線にまで声を響かせる長躯のゴールキーパーが控えているのだ。
「ちょっとやそっとの情報戦で打ち破れるようなディフェンスなのかよ、お前らは」
やたらと強気になっている俺の発言に彼らは唖然として、やがて喉を震わせて笑った。
「そりゃそうだ。前線には韋駄天エースがいて、真ん中に弱気だけどテクだけは上等のファンタジスタが陣取ってるんだ。負ける気がしねぇわ」
その笑みはどれも不敵で頼もしく、そして恐ろしく映った。
親愛なる好敵手達に囲まれて、最愛の人は今日も綺麗に笑う。
2005/03/13
高山の短所編を独立した話として書いていたんですが、ココに無理に持ってきました。最初はタカの一人称だったのを途中で修正。
英介の短所はタカ編に合わせて長めにしました。プエルヴェニール横浜の清二くん再登場です。山形の夏木も久々登場ですねー。