言ノ端七題_ver2【B】
5:泣く男



 引退という言葉を、スーツを着てマイクの前で口にした。
 引退会見というものを、してしまった。
 反響はものすごいものがあって、お疲れさんという声の中に、まだやれるだろという声も混じった。

 まだやれる。
 だけど、もう満足することはできない。

 衰えた肉体を実感し、経験ではもう補えるものはないとも思った。
 スパイクを脱ぎますと言わなければ。
 そう思い始めて一つのシーズンを過ごした。
 その間に何人もの若手が頼もしい成長を見せていく。
 そんなことが、背中を押した一つの理由になった。


 プロとして、最後のピッチ。
 入場するのに足が震えた。
 まだここに立っていたいと叫びだしそうだった。
 それも試合終了後のセレモニーで大勢のサポーターの前でスパイクを脱ぎ、妻と娘から花束とねぎらいの言葉をもらう頃にはおさまっていた。
 ありがとうと、スタジアムが言葉をくれる。

 スポーツ選手には二度の死が訪れる。
 そのまさに一度目の死の、最後の最後の瞬間はこんなにも幸福なものなのかと、感情は溢れて涙になった。

 サンクスランへと促される前に、ドクターとして第二の人生を歩み始めたチームメイトが肩を叩いた。
「おつかれ」
 顔にタオルを押し付けられる。

「おつかれ、イチ。……ありがとう」

 手の中の大切な宝物を見せてくれるような、そんな声だった。
 大事に大事に紡がれた言葉だった。
 掛けられた、その短い言葉を一生忘れない。
 腹に響く何万人の声も、仲間の一人がくれた言葉も。

 最後の夜のこの感情を、脱いだスパイクの代わりに携えて生きていく。


2006/1/17
切ないけれど、清々しい。

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