言ノ端七題_ver2【B】
7:薫る男


 練習終了後のロッカールームのドアがノックと同時に開き、矢良ドクターが顔を出す。
 いつも練習時間になるとベンチに座ってじっと選手の動きを見たり、時にはどの指導者よりも厳しい声を上げるのだが、今日はそのベンチが空だった、
 スポーツドクターの方が本職に近いのだろうが、所属は彼の知人が開業している病院の医師だ。
 練習グラウンドにへばりついているばかりはできないのだろう。
「今日は真面目なお仕事だったんですか?」
 富永が茶化したのは、きっちり着込んだスーツのことだ。
「学会。着慣れないから肩が凝った」
 盛大な溜息をつきながら、ぐいぐいとネクタイを緩めてしまう。
「薫さんもそうやってスーツ着て眼鏡掛けてりゃ、医者に見えるもんですね」
「昴、肩揉め」
 しみじみと素直な感想を口にした昴を呼びつけ、矢良は有無を言わせず肩を揉ませる。
「難しいことばっかり話して聞いて、疲れた」
「難しいことって、薫さんの専門分野でしょ」
「頭だけ動かすと疲れるんだよ。今日は美味いもん食って、一杯飲んで、寝るか」
 よいしょ、と年齢を感じさせる掛け声を上げながら立ち上がると、矢良はさっさとロッカールームを出て行ってしまう。
「あの人、なんだかんだで俺らの顔見ないと心配なんだな」
 何をしに来たのか、なんて聞くまでもない。
 チームの表情を見て、そこに漂う空気を感じるために、一仕事終えた後にわざわざクラブハウスまで立ち寄ったのだ。
 その愛情を普段からわかりやすく見せてくれれば良いのに、我らがドクターはどうにもひねくれ過ぎている。


「おぅ、おつかれさん」
 グラウンドに矢良が顔を出すと、分厚いファイルを閉じた内田がねぎらいの声をかけてきた。
「つかれた」
 思ったままを口にすると、そうだろうなと笑う。
「医者って、面倒くせぇな」
 医者自身の言葉に、内田の方が笑い出す。
「そりゃそうだ。ボール一つ追っかけて飯が食える職業とは大違いだ」
「本当、やってらんねぇと思うよ。俺なんかチーム優先させてもらえて、いい身分だ」
「その分、こっちでしこたま働いてもらわないとな」
 二人が視線を投じたグラウンドでは、数人の選手が居残り練習に励んでいた。
「病院が人を殺すんだ」
 唐突に矢良が言った。
 攻撃的な言葉だ。
「権威や責任逃れで、関係のない人間が死ぬんだ。救える手段は十分にあるのにな。誰が責任をとるのか、誰の手柄になるのか。そんなことをぐちゃぐちゃ考えて、手を伸ばさない人間がいてさ。走り出す前から誰がゴールをあげるのか、誰のせいで失点したのか言い合ってるみたいで、虚しくなる。なーんで俺は医者になんかなったかなぁ」
 カン、と矢良の金属製の足とベンチの足が触れ合う音が響いた。
 体温の通わない足先をもどかしく思うことはなくなったが、自分の立ち位置を見据えれば見据えたで、苦悩は湧き出る。
「手を伸ばせるから医者になったんだろ。ぐちゃぐちゃ考える前に走れるから、スポーツドクターなんてやってられるんだ。重いもの振り切るみたいなロングフィードがお前の武器だろ。考える暇があったら、あそこで両足攣ってのたうちまわってるアホをどうにかしてやってくれ」
 人が散々悩んで答えを出せずにいる数式の答えを知っているような口ぶりで、内田はグラウンドの隅にうずくまる選手を顎で指す。
「ボール追っかけて心底笑って怒って興奮できる馬鹿がいる。それ見て我が事のように気持ちを動かせる人がいる。世の中、まだまだ捨てたもんじゃねぇって、スポーツが教えてくれる。暗い世の中の希望の光が、舞台の上で一秒でも長く笑っていられるように支えてやるのがお前の役目だろ。矢良ドクターに商売道具を委ねた選手が、何万って人の希望になる。素敵な商売だな、おい」
 よっこいせと腰を上げた矢良の背中を、分厚いファイルが叩く。
 どうしようもなくにやつく頬を、俯くことで隠しながらドクターは出動する。
「あー、一服してーなー」
 そんな照れ隠しを、内田は笑う。
 人より器用に動く指、人より回転が若干速い脳みそが生み出すのは陰鬱なニュースではなく希望の光だ。
くだらない、けれどどこまでも愛おしい。
 内田は歌う。
 友へ向けて。
 憂いを凌ぐ、希望を薫らせろと。


2007/02/08
薫る男と言えばこの男しかいない。

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