車輪が滑る、微かな音がする。
いつもならそれはカツンという硬質な義足のたてる音なのだが、今日は車椅子が滑る音だった。
駅前の約束の場所で、市井は車椅子の矢良を見つけた。
「アレ? 足は?」
片手をあげて応える矢良にそう問うと、
「足、壊れた」
しれっとそんなことを言う。
「は?」
「だから、壊れたんだよ。この前、調子にのって英介のシュート練習に付き合って、フリーキック蹴りまくったら螺子飛んだ」
ぷっと噴き出し、げらげら笑う。
「そりゃ調子に乗りすぎだ」
「俺も思った」
くくくと二人で笑いあう。
市井は矢良の背後に回ると、矢良の車椅子を押す。
こうして矢良と一緒に街に出ると、バリアフリーという言葉がよく聞かれる今になっても、車椅子で暮らす人間には住み辛いことが多いのだと気が付く。
特に矢良は昔、サッカー選手だったこともあり体格がいい。
180センチはある長身だ。
駅で人の手を借りようにもどうしても遠慮が生じるのだと言っていた。
昔は矢良の車椅子を押す感覚が奇妙で、自分の眼下に矢良の頭があるのが嫌で、車椅子に座っている矢良を見ると複雑な表情になっていた自分を、市井は思い出す。
矢良がチームドクターとして帰ってきてからは、そんな思いは消えた。
対等でありたい。
そう思っていてくれたんだろう。
矢良の方からそう言ってくれたことがある。
だからこいつとは、親友でいられるんだと実感した。
向かったのは時々二人が飲みに行く居酒屋だった。
「ういせっと」
妙な掛け声で座敷に上がり、あとは手を使って席につく。
いつものスーツではなく、ラフな私服姿の腕に筋が浮く。
矢良の腕の筋肉は凄い。
腕相撲をやって勝てたためしがないのだ。
適当に肴を注文してから一息。
「チーム、状態よくないな」
開口一番、サッカーの話になる。
いつものことで、意識もしない。
「あぁ、ちょっとな。レギュラーの怪我人三人にオーバートレーニングがまた一人でた」
「タカの足は?」
神戸RCの司令塔として定着したばかりの高山が、足を痛めた。
全治三週間と矢良が診断し、チームは司令塔を欠いた状態だ。
「監督、来週出れないもんな」
「そうなんだよー」
今年からブラジル人監督を呼び、新体制となったはいいがいきなりその監督が退席処分となった。
リーグの方は開幕連敗、現在最下位と低迷もいいところ。
台頭を続け、保ってきたチームもそろそろ息切れかとメディアは悲観的だ。
けれど、
「まぁ、ぼちぼちでしょう」
「チームは明るいぜ。ナイーブになってるのは監督だけで、ちょっと気の毒だ」
神戸RCは逆境に強いチームだ。
チームの辿ってきた経歴は泥臭い。
波のあるチームではあるが、波がくるのを諦めないチームでもある。
乗ればこっちのもの。
まだまだ余裕だ。
笑っていられない状態はまだこんなものではない。
最初の一杯のビールだけお互いに注いで、あとは手酌でやる。
矢良は実は酒に弱い。
あまり飲みすぎると足が痛むというのもあるが、市井が酒の味を覚える頃、矢良は飲んでなどいられないほど勉強に打ち込んでいたからだ。
飲みなれていないのだ。
意外でしかない事実だが。
「あぁ、そういやさ」
肴に箸を伸ばしながら市井。
「サポーターズTVの番組感想にな」
サポーターズTVは、市井が解説をしているサッカー番組で、歴史もある。
サッカーファンにとっても最も信頼のあるサッカー番組だ。
「神戸の薫先生についてもっと知りたいんですケドってのが多いんだよ」
矢良薫は入団その年に引退したJリーガーだ。
ゲーム中の怪我で足を失った衝撃的な去り方をしたが、今の若いファンにはまったく知られていない無名のサッカー選手のはずだった。
サッカー選手でも、矢良薫がJリーガーであったことを知っている人間は少なかったのだが。
数年前、神戸RCの十周年のメモリアルビデオが販売された。
発足からの歴史や名シーン、OBのインタビューなどが収録されたビデオで、かなり売れたらしい。
その中に、矢良薫のラストゲームの映像はあった。
そして、義足を組んで涼しい顔でインタビューを受ける矢良の姿も。
『たぶん、一番幸せなサッカーファンじゃないですかね、俺って』
涼しい顔でさらりと怪我について語り、最後の最後、後悔はないですかという質問に初めて笑顔を見せて、そう言った。
鼻が高く、少し意地の悪そうな顔に愛嬌を混ぜて、弱さと強さの両方をバランスよく晒してみせる矢良は、確かに男前だ。
ニヒルな口元と目元にひょろりとした背格好はインテリ崩れといったタイプでありながら元サッカー選手。
容姿・経歴共に女性には魅力なのかもしれない。
何にも夢中にならなさそうな印象。
それなのにサッカーが好きでたまらない。
情熱はある。
「なに? 俺の特集とかしてくれるの?」
ビデオの発売後、矢良へのファンレターがどっと押し寄せるようになった。
練習に顔を出していると、矢良への黄色い歓声があがる。
今までドキュメンタリーで矢良の生き方を撮りたいとの申し出も数件あったが、矢良は断っている。
乾ききってはいない傷なんですよ。
そんな言い訳を口にしているのを市井は知っていた。
「特集っていうか、俺と対談」
「お前と俺の対談。そりゃ、放送してもいいのかな?」
「放送する内容にするんだよ。っていうか、サッカーの話をするんだよ」
「あぁ、そうか。俺に女性ファンを増やすための番組じゃないんだな」
「……薫、その性格さ……、いや、いいや。諦めるから」
そう?なんてわざと首を傾げる。
だから諦めるっつーのに、と市井は溜息を一つ。
「俺とお前で対談なんかしたら、それコーナーになっちゃうよ」
はい、食べてと差し出されたのは揚げ物の上にちょこんと置かれていたパセリだった。
箸に挟まれたまま、目の前に差し出される。
別に避ければいいものを。
「イヤならイヤって断ってくださいよ」
あーと口を開けると、突っ込むようにパセリが押し込まれる。
「嫌じゃないよ」
パセリが?
「別にいいんだけど、そんなん見ても視聴者面白いかぁ?」
「その視聴者からの要望が多いんだよ」
「ふぅん」
「薫先生が気になるんですけど独身なんですか、とか。市井さん仲いいんなら呼んでくださいとか」
「おー、やっぱり俺ってもてるんだな」
悪意があるのかないのか判別しかねる。
この性格の微妙な悪さが怪我で屈折したからと言うのならわかる。
が、これが生まれつきなのだからどうしようもない。
矢良と初めて会った時、市井は対面して一時間後にはもう『この野郎、ぶっ飛ばしてやりてぇ』と軽い気持ちで思った。
そんな思いを繰り返すうちに、この性格の悪さがクセになってくると言うか、惹きつけられるのだ。
「俺について話すの?」
「そう。だけど、昔のことじゃなくていいんだ。今、注目してるチームとか海外リーグとか、サッカーの話で」
「あ、サッカーの話でいいんだ?」
「おうよ」
「マジですか。サポーターズTVでサッカーの話できるなんて、俺も出世したね」
そう言って身を乗り出す。
皮肉そうに言ってのけたが顔が嬉しそうだ。
「出演交渉成功なんですか?」
「あ? あー、俺も忙しいのは忙しいんだよな」
渋るとは思ったのだ。
内心ではとっくにOKを出しているくせに、わざと焦らされるだろうとは予想していた。
市井も矢良との付き合いが長い。
奥の手は用意してある。
「俺、毎年行ってて、今年も行くんだけど」
「は?」
「トヨタカップ」
「イチの頼みを断れる俺だと思うのか!」
こいつ、マジで時々腹が立つ。
このサッカー馬鹿め。
「トヨタカップなぁ〜、行きたかったんだ」
欧州チャンピオンチームと南米チャンピオンチームの対決。
「お前、南米リーグ好きだもんな」
「面白いだろ。イチはヨーロッパの方が好きだって言ってたけど、俺は昔から南米だね」
「意外だよな。薫のプレー見たことある人間は薫が南米リーグ好きって思わないと思う」
「そりゃイチを知ってる人間もだと思うぜ? だってお前のプレー、お世辞にも欧州リーグ見て憧れてますってプレーじゃなかった」
華麗なボールコントロール。
相手の脇をすり抜けるだけのようにも見えるドリブル突破。
振り向き様のシュート。
そんな要素を市井のプレーに見出すのは確かに難しかっただろう。
泥臭く、結果が全て。
市井のプレースタイルはどちらかと言えば南米の激しいサッカーに似ている。
「昔は海外のサッカーなんか見れなかったけど、後輩がどんどん外に出てくれるおかげで普通にテレビで見れるからいいな」
「おかげで寝不足だろ」
「ははっ、確かに眠れない」
ビールをコップに二杯飲んでから、あとは烏龍茶に切り替える。
「吸ってもいい?」
煙草を吸うジェスチャーに、目でいいと答える。
酒、煙草。
そんなところに生じる、二人の差。
初めて煙草を銜えた矢良の姿を見た時、市井は何故だかショックを受けたのを思い出す。
あぁ、もうこいつはサッカー選手じゃないんだと、思い知らされた。
「薫、サッカー好き?」
なんとなく市井の口をついた言葉に、矢良は一瞬呆けた顔をしてからケラケラと笑った。
「サッカーなかったら死ぬ」
笑ってはいたけれど、言葉は痛い。
一度は自分の命を絶とうとした矢良薫が生きる唯一の理由だと、そう聞えた。
同じサッカーによって、死ぬ決意までした男がサッカーがあるから生きられるのだと言う。
「時々、そうやって尋ねられるよ。みんな不安なんだろうな。俺のことをまるで糸の切れた凧みたいに思ってる。またいつ、自殺されるかわかったもんじゃないって」
ガキみたいに泣いたし、醜いほどに叫んだ。
そうやって這い上がってきたんだと、チームドクターとして神戸に帰ってきた矢良が言った。
「まぁ、それは俺が悪いんだからいいんだけど。でもそろそろ安心してもらってもいいんじゃないかって思うんだけどな」
「そりゃあ、性格の改善は一番じゃないかと思うんだけど?」
「俺、そんなに性格悪いかなぁ」
「自覚ないのか……」
「でも、もてるんだから、いっかー」
「よくねぇよ」
時々、ほんとうに不安になることがある。
矢良はそんなに弱い男じゃないことを知っていてもだ。
そんな脆い印象を他人に与えてしまうところも、矢良の魅力なのかもしれないが。
それからはいつものサッカートークばかり。
海外リーグ、神戸の調子、他チーム、選手の話。
夜は更け、喋りつかれるところまで話してお開きとなるいつもの飲み会。
席を立つ直前、市井がジャケットから何かを取り出し拳の中に隠した。
「ちょっと遅くなったけどうちの娘から、誕生日プレゼント」
「光子ちゃんから?」
差し出された手の平ではなく、その手首に結ばれるプレゼントは、
「ミサンガか。懐かしいな」
巻かれたミサンガは神戸RCのセカンドユニフォームの色、スカイブルーの地に『Kobe Rainbow Chaser-Dr』の文字がある。
「器用な子だな」
「だろう?」
くくくと再び笑いが起こる。
「何を願えばいいのかな?」
「最下位脱出。優勝。それから、お前の結婚」
「光子ちゃんが十六になるまで待つよ」
「無理です。許しません」
選手にからかわれたら、付き合っている彼女からもらったのだと言って暫らく楽しもうと矢良は密かに決める。
じゃあな。
簡単な別れの挨拶を交わしてそれぞれの帰途へと向かう。
車椅子の車輪を回しながら、矢良は肩越しにちらっと振り返る。
昔、目をぎらぎらさせてピッチに立ち駆けずり回っていたストライカーの顔は、結婚し父親になり随分と落ち着いた表情を見せるようになった。
自殺未遂をしでかした自分のもとに一番早く駆けつけて、みっともなく泣いてくれたのは市井だった。
声が枯れるほどに怒鳴って、殴りつけようとさえした。
今の自分があるのは、サッカーと市井の存在があったからだと矢良は思っている。
ここまで図太く生きれているのも、市井の存在があってこそだ。
性格悪いなんて言われる筋合いないね。
ペロリと舌を出して笑う。
自分の人生を振り返ってみる。
とても幸福だと思える自分がここにいる。
心を蝕んだ焦燥や苛立ちを忘れたわけじゃない。
今が幸せで、過去のそんな気持ちすら輝いて見える。
そういう自分がいる。
「あ、やべ。アルゼンチンリーグ、衛星でやるんだった」
なんて幸福でしょう。
連日のサッカートークにお付き合いいただいているゴンタさんへのお礼リクです。初のオリジナルへのリクをいただきました。サンクスランで主役をはってた矢良薫ドクターを気に入っていただき、再びの登場です。なんか、イチと微妙にホモ臭いのが……(笑)
腐女子ファンかっこうのネタとなる二人を書こうと思いまして。話の流れは面白くないんですが、イチと薫さんの微妙なホモ臭さをお楽しみください(笑)既婚者もいるので、カプにはなんないんですが、ナマモノにはかっこうのネタ、な二人です。きっとリバ(リクでそんな勝手なことを……)
いつか、怪我したての矢良ドクターの葛藤を書きたいと思ってます。矢良ドクターの剥き出しの感情とか、そんなのを。
お礼になったかどうかわかんないんですが、ゴンタさんへ捧げますv