「はっきり、言ってくださった方がすっきりしますよ」
 富永は困ったような笑みを浮かべて、遠まわしに続けられていた言葉を遮った。
「それは、辞めてくれと、そういうことですね」


サドンデス


 練習場はシーズンオフということもあり、どこか閑散としていた。
 ワールドカップは二年前に終わった。
 丁度熱も冷めてきたところだが、熱心なファンの姿がちらほらと見える。
 そんな練習終了前の練習場。
「とっみなっがっさぁ〜ん!」
 走り込みをしていて、それを終えてそのまま芝の上に突っ伏して胸をふいごのように上下させている。
 ふざけた調子の大声をこのチームのメンバーが出す時はろくでもない悪戯を仕掛けてくる時だとわかってはいるが、ハードな走り込みのせいで体は起き上がれない。
「ハッピバースデー!」
 続くこの言葉に富永は自分の身に降りかかる災難の種類を悟った。
 昔、小さな風船の口を水道の蛇口に突っ込んで蛇口を捻り、水入りの風船爆弾を作って遊んだ覚えがあるが、このチームに21歳で入団してから粉入りの風船爆弾の洗礼を受けたときにはたまげたものだ。
 21の時に先輩達から小麦粉まみれにされて、これで15回目。
 36の誕生日にもらった小麦粉爆弾は全て後輩からいただくことになったが、それはパツンッパツンッと富永の周りで破裂して、白い粉が弾け出た。
「誕生日、おめでとうございまーす!」
 真っ白になった富永に、堪えきれない笑いが混じった声が合唱する。
 神戸レインボーチャーサーだけでなく、Jリーグの他の数チームでも行われているらしい誕生日の恒例イベントだ。
「……ヤラレタ」
 毎年これを回避しようと頭を捻っているのだが、ほとんど毎年この日は練習が入っているためチームメイトと顔を合わせることにはなっている。
 去年は運良くオフになったのだが、そうなればそうなったで日付を回ったその瞬間に寮に奇襲をかけられ、真夜中に一人真っ白になった部屋の片付けをする羽目になった。
 それに比べればましかもしれない。
「白髪が似合ってきたじゃないの」
 幼馴染の昴の茶々に、寝転がったまま蹴りを食らわしてやった。
「こんなもんで色つけられなくてもな、最近ちょっと増えてるのよ。若白髪が」
 ばさばさと髪の毛をかき回せば、白い粉が視界に舞う。
 自分がこのチームの最年長になって、同期だった連中が少しずつ姿を消して、今このチームにいるのは自分より年下ばかりになった。
 顔ぶれも大きく変わった。
 それでも昔から、このチームの気質であるお祭り精神は受け継がれたままだ。
 王者の座にもつき、今では強豪としてJリーグに定着した。
 代表候補に名を連ねる選手も多く在籍するようになった。
 J2で昇格に何度も手を伸ばし、それを失うことを何度か繰り返し、遂に昇格を掴んだ。富永はその時からの選手だ。
 降格の危機も何度か味わい、中堅と呼ばれ、優勝をあと一歩で逃すことも繰り返した。
 そうして、優勝。
 富永はこのチームの成長とともにあった。
 移籍するチームメイトを、引退する先輩や同期の仲間を見てきた。
 キャプテンマークを腕に巻いた。
 26歳の頃だった。
「今日、みんなで食べに行きましょうって言ってるんですよ。富永さんの誕生祝いに」
 今はにこにことそう言った坂本の腕に、赤いキャプテンマークは存在する。
「それでお前等、俺にたかったりしねぇだろうな」
「しませんよ。今日くらいは。みんなで割り勘」
「俺もだろう?」
「そんなことしませんって」
 それでも、そんな変化はピッチに立てば吹き飛んだ。
 恋愛のように年の差が障害になることはない。
 それはプレースタイルのカラーになる。
 ただ、自分のプレー時間に違いがでてきた。
 フル出場をさせてもらえなくなった。
 後半15分での交代や、ベンチからのスタートになってきた。
 代表起用もなくなった。
 前回ワールドカップでは代表候補として合宿参加したが、代表メンバーの発表で自分の名前があがることはなかった。
 相棒としてやってきた昴は、今の代表メンバーの常連MFとうまくやっている。
「あーあー、真っ白じゃねぇか。まぁ、部屋でやられないだけマシだけどよ」
 ジャージで顔を拭うと白い粉が汗を混じって付着する。
「あがるかなぁ、そろそろ」
「飯、行きましょうよ」
「明日オフだし、飲むかー」
 ぞろぞろと引き上げるチームメイトに続いて富永もクラブハウスに向かう。
 小麦粉のついた顔を拭いながら、この恒例行事も最後かと思った。

「まだ、やれますから。もう少し、足掻かせてください」
 指導者になるための免許はとった。
 チーム監督になれるS級ライセンスも取得している。
 あとはいつ現役から退くかだった。
 体力の衰えを一番自覚しているのは富永自身だ。
 90分のゲームが体に響いてくる。
 延長に入るとかなりきつい。
 体の作りかたも変えてきた。
 出場時間の変化が、そろそろかなと思わせていた。
 覚悟はしていた。
 考えもした。
 引退する自分を。
 だが。
「まだ、やりたいんですよ。日本サッカーの平均年齢の引き上げに貢献するのもいいかなって」
 まだやれる。
 そう思った。
 自分は現実主義者だからと、その後の人生のことを考えて辞めていった選手がいる。
 自分の限界を見て、夢が叶わないことを知り、涙を流して辞めていった選手がいる。
 ただ静かに、何も言わぬまま辞めていった選手がいる。
 ピッチの上で死んだ選手もいる。
 ある日突然に死んでしまった選手もいる。
 若いうちから戦力外通告を受けて、自信を失い失意のままに辞めた選手もいる。
 自分は。
 まだ。
 やりたい。
 まだ、サッカーをやりたい。
「指導者のお話、ありがたいですが、お断りします。俺はまだ教えられる側がいい」


 焼肉のいい匂いが漂いはじめた。
 結局いつもの焼肉屋の座敷を借り切っての晩餐となった。
 店の主人は神戸RCがよく通う店だと売り出していて、選手にはよくしてくれる。
 入団してからずっと通った店だ。
 結局この年まで独身でいることになってしまった富永に、焼肉だけでなく家庭料理も提供してくれた。
「あのさ」
 カルビをひっくり返しながら富永は誰へともなく話かける。
 盛り上がりをみせるこの宴会の中、富永の声に耳をかす者は少ない。
「今年、うちのチームと契約しないことになったから」
 右にいたのは富永の次に古参の坂本だった。
 左にいたのは今年24歳になってそろそろ中堅の江口だった。
「「えっ!?」」
 鉄板に伸ばしかけていた箸を宙で止めて二人が大声をあげる。
 江口の声は高く、声変わりをしたのかと尋ねたくなるほどだから座敷全体に届いたことだろう。
「神戸を退団する」
 ジュウジュウと、鉄板が音をたてているのに呼ばれて箸を伸ばすと、坂本の手に阻まれた。
「マジっすか?!」
「マジっす」
 座敷を包んだのはジュウジュウという肉の焼ける音だけになった。
 厨房から聞えていたおばちゃんと近所のおばちゃんの話し声も途絶えてしまった。
「とうとう解雇されちゃいました」
 笑ったが、まわりは笑ってくれなかった。
「や、辞めるんすか?」
 口火を切ったのは高山だった。
 普段寡黙な選手だが、身を乗り出すようにしている。
 高山が神戸に入団した時の理由が、富永がいるからというものだった。
 高山にとって富永は憧れの存在で、その富永と一緒にチームで練習をはじめたときはガチガチに緊張していた。
 同じMFのポジションで話す機会も多かったが、最初の頃は口下手に拍車がかかってしまっていたのを富永は思い出す。
「いや、引退はまだだ。ありがたいことに広島から声がかかったから行こうと思う」
 広島ジョウィナーズ。去年J2からJ1に昇格を果たしたチームだ。
 守備が徹底されている、平均年齢からしてもかなり若いチームだ。
 1シーズンをJ1でプレーして、早くも降格争いに巻き込まれなんとか踏みとどまった。
 チームの補強をしようと外国人選手の獲得で話題になっている。
 ベテランが極端に少ないせいなのか、カード数はリーグ随一でラフプレーも多々あるチームだ。
「引越しするから手伝いに来いよ」
 不精してずっと寮生活をしていた。
 15年間暮らした部屋がある。
 そこを出る。
 広島は若手中心ということもあって寮は満室だという。
 下手すれば親子ほどの年の差もあるチームメイトと同じ屋根の下というのは、彼らにとっても居心地がさほどよくないだろうと部屋を探した。
「神戸、出ちゃうんですか……」
 江口が自分に言い聞かすような声で言う。
 それが妙にしんみりと聞えてしまった。
 周りの空気も重いことに気が付く。
「出るよ。でもサッカーは辞めない。神戸相手にサッカーすることになるなんて、あんまり想像つかないけどな。なんか楽しみで年甲斐もなく興奮してるよ」
 ビールを口に運んだ。
 気持ちの整理はつけておいた。
 取り乱したり、感情を波立たせることなく話ができる自分に安心する。
「富永真吾の真骨頂を、これから拝めるわけか」
 坂本はもう整理をつけたらしい。
 彼も長年在籍していたチームから戦力外を告げられて、神戸に出場機会を求めてやってきた選手だった。
 前在籍チームを打ち負かして、優勝もしてみせた。
「そうだな。久々に、ドキドキするね」
 ゲームの中心に富永はいつもいた。
 15年前、このチームに入団してからレギュラーの座を得てからずっと。
 司令塔として、攻撃に転じる瞬間のチャンスメイク。
 時にミドルシュートでゴールシーンを演出した。
 このチームで確立してきたプレースタイルを、36歳になって崩すことになるかもしれない。
 それが楽しみでしかたない。
 そして、15年間貢献してきたチームとの対戦も。
「覚悟しとけよ」
 本当に楽しそうに笑う富永の表情を見て、チームメイトも神戸レインボーチャーサーの転換期を予感した。


「あれ? 荷物は?」
 市井がのぞいたロッカールームにいた富永の手にはサッカーボールが一つ。
「全部送っちゃいましたよ。荷物はこれだけ」
 くるっと手の中で回転させたのは、富永が神戸で戦った最後のシーズンに使用されていたボールだった。
 チームのエンブレムが入っているそれには所狭しと寄せ書きがされている。
 選手だけではなく、監督やスタッフ、あの焼肉屋の主人の名前まであった。
「あと十個くらいあるんですよ。ファンからのなんですけどね。それも部屋です。広めの部屋借りて正解でしたよ。さすがに十個並べたら壮観ですよ」
 苦笑とも言えない、淋しげな笑みが浮かんでいる横顔。
 視線はロッカーにあった。
 10番のプレートの貼られたロッカー。
 15年間使った。
 ここで、声が荒げたこともあった。
 笑ったこともある。
 ビールまみれにしたこともあった。
 小麦粉まみれにしたこともあった。
 そのロッカーに、荷物はない。
 針金のハンガーが十個ぶら下がっている。
 ボールを回す手を止めて、富永はロッカーに挨拶するような微笑を零してから踵を返した。
「走ってきた?」
「朝からちょっと。1時間くらい走ってきました」
「調子はどう?」
「いいですよ」
 クラブハウスの廊下を歩く。
 15年間過ごした場所だ。
 汚れたよな、と思う。
「よう」
 ロビーで新聞を広げていたのは矢良ドクターだった。
 それなりに忙しい人だろうに、わざわざ来てくれたのだろう。
 そうとは思えない雰囲気をわざと作って。
「どうも」
「もう行くのか?」
「はい」
「そうか」
 いつも憎たらしいほどに余裕綽々でいる男が、どこか淋しげだと感じるのは気のせいだろうか。
 自分とほぼ対等に言い合える存在がいなくなるのが淋しいのかもしれない。
「まぁ、あっちで達者にやれよ。対戦するときはお手柔らかに」
「お世話に、なりました」
「嘘つけ、お前怪我なんか滅多にしなかったじゃねぇか」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ」
 矢良の拳がポンっと富永の胸を叩く。
「前言ってたジムが鳥取にある。広島からだとここからより近いだろう。一回言ってみろ。まだ選手でいるつもりなら薬になる場所だ」
 煙草を銜えた。
 富永は笑った。
「ありがとうございます」
 そして、富永も拳を矢良の胸にぶつけた。
「じゃあ」
「あぁ」
 短い別れの挨拶を交わし、富永はクラブハウスを出た。
 1月の冷たい風が吹き付けてきた。
 空は澄んで綺麗な青。


 富永が神戸レインボーチャーサーの選手としての最後の試合は天皇杯だった。
 ワイルドウィンド山形との試合。
 結果は0-1での敗退。
 15年間の締めくくりを、勝利で飾ることはできなかった。
 試合終了後、チームは富永のためにお別れセレモニーを用意してくれた。
 富永はそれを断り、短い挨拶をサポーターに告げて最後のピッチを降りた。
 引退するわけじゃないのだと。
 これからの広島での活躍の約束と、対戦したときは手加減しないつもりだからブーイングは勘弁してくれとの冗談と、謝辞。
 神戸RCをこれからも愛してくださいと。
 サンクスランはない。
 まだ富永のサッカー人生は終わらないから。
 深く一礼をして、あっさりとピッチを去った神戸RCの柱に喝采がおこった。
 それは、幸せな退団だった。


 富永がクラブハウスに向き直った。
 これだけ長い年月を過ごしたチームを去る選手の気持ちにあるのは、どんな感情だろう。
 新たな旅立ちへの喜びだろうか、それとも別れの悲しさだろうか。
 不意に富永が、髪をかきあげる仕草をしてそのままとまってしまった。
 何か込み上げるものがあったのだろう。
 晴天に、冷たい風。
 その中に佇む、退団する選手。
「真吾?」
「いや……、ちょっと、まいったな」
 困ったように言いよどむ。
 市井は笑って背を向けた。
 ロビーにいた矢良もそんな姿をちらりと見てから再び新聞に視線を投じる。
 何気なくクラブハウスに足を運んだスタッフも、そんな姿を目に入れながら何も言わずに仕事をしている。
 勝てない時があった。
 選手だけでなく、スタッフも苦しんだ。
 サポーターの切実な声が胸を刺した。
 昇格の瞬間があった。
 優勝の瞬間があった。
 あの時の感情。
 重い体を引き摺るようにしていた練習。
 馬鹿話をしながらの練習。
 監督や選手間での確執もあった。
 富永にとって、ここが家だった。
「まいったな……」
 このチームに全てをかけてきた。
「まいった」
 声が少しだけ上擦った。
 この感情の昂ぶりは、もう市井に隠しようもないのだけれどやはり男としての見栄がある。
 おさめようと意識すればするほど、目の奥が痛くなる。
 鼻をすりあげて、富永は照れ隠しのように笑ってみせた。
 市井も野暮ではないから、黙っている。
 顔を隠した手を離し、クラブハウスを赤くなった目で見上げた富永の口が言葉を紡いだ。
 市井の耳には届かなかったが、このチームには届いただろう声。
「スバルはいいのか?」
「昨日、あいつの部屋に泊めてもらったんです。その時に、またゲームしながら話ましたよ。不安だとかいろいろ言ってましたが、大丈夫です。あいつも前から覚悟は決めてたみたいだし。逆に今じゃ楽しみにしてますよ。対戦」
 クラブハウスに背を向けて、富永は駐車場に向かった。
 青い国産車の後部席にボールを乗せて、市井に向き直る。
「イチさんとは、まぁ、どこでも会えるから別に感慨もないんですけどね。また飲みましょう」
「おう。元気でやれよ。移籍初体験だもんな」
「この年で初体験ですからね。困ったことがあったら、連絡しますよ」
「待ってるよ」
「じゃあ」
「あぁ」
 ここでも別れの挨拶は短い。
 車がゆっくりと駐車場を出た。
 そして練習場の前を通り、広島へ向かう。

 その練習場の前で、車がスピードを落とした。
 朝一の誰もいない練習場を走りこんできた富永は、練習場に誰もいないことと思っていた。
 なのに、今富永が去ろうとしている練習場には、片岡昴の姿がある。
「……馬鹿」
 フェンスの側でリフティングをしていた昴が、富永の車に気がついた。
 振り向いて、じっと富永を見る。
 ガキの頃から、一緒にボールを蹴っていた。
 弟みたいなものだった。
 ずっと一緒に勝利と敗北を味わってきた。
 自分のアシストを一番気持ちよくゴールに決めてくれた。
 子供の頃は隣に住んでいて、プロになったら同じ寮だった。離れたことがなかったのだと気が付く。
 ウィンドウを降ろした。
「いってくるからな!」
 叫んだ。
「いってこい!」
 叫び返された。
「がんばれよ!」
「そっちこそ!」
 そうして、富永真吾は神戸レインボーチャーサーを発った。
 バックミラーには走り出す昴の姿が映っていた。




 広島ジョウィナーズのユニフォームは赤。
 神戸レインボーチャーサーのホームユニフォームは白。
 アウェイは水色。
 日本代表ホームユニフォームは青。アウェイは白。
 つまり富永真吾がオールスターやJOMOカップ以外で赤いユニフォームを着るのは初めてのこと。
「今季、広島ジョウィナーズの赤いユニフォームに袖を通しました富永真吾、36歳。プロになって以来ともにあった古巣神戸をあとにして、若手の多い広島に移籍しました。古巣との対戦は移籍後初です。神戸の柱であった富永相手に、どういったシステムで挑むのか神戸レインボーチャーサー。そして迎え撃つ広島の富永は、どういったプレーを見せるのか、非常に面白い一戦になりそうです」
「似合いますよね。赤いユニフォームも」
 実況席には実況の山口と解説の市井がいる。
 その眼下。
 選手が入場を始めた。
 赤いユニフォームの富永の隣に、今季神戸で10番を背負うことになった高山がいる。
「緊張してるな?」
「……しますよ。そりゃ」
「じゃあ、お前があがってくるのは後半だな」
 笑いながら富永が広島の列に並ぶ。
 高山は悔しそうな表情に笑みを混ぜて、神戸の列につく。
 そして、キックオフ。

「広島は鉄壁の守備を誇ることでも知られています。ゴールキーパーの池沢明人を始め、ディフェンスには原、山本、黒木といずれも代表経験のある選手が並びます。富永は神戸の時と同じ中央でのポジショニングとなりましたが、神戸と違うところはどこでしょう、市井さん」
「そうですね、ポジションはトップ下に近いんですが、神戸の時ほど攻撃に絡める位置ではないことですね。もう少し低い位置から攻守の切り替え役といった位置ですね」
「それと、市井さん。富永の表情にも変化がでてきましたよね」
「いい顔するようになりましたね」
 ピッチの上で、富永は表情を表に出すようになっていた。
「サッカー選手というのは、スランプの脱出や移籍といったきっかけで、その表情を見てわかるほどに変えますが、富永にとって、長い選手生命の中でも初めての移籍は彼にとってプラスだったようです」
 ピッチ。
 広島の陣地内の角度のないラインで江口が原と競っている。
 江口が勝ち、クロスをあげた。
 走りこんできた昴に体を寄せた富永。
 ゴールから池沢が走り出て飛ぶ。
 空中でキャッチした。
 ゴールに押し寄せていた選手が引くのを待って、池沢がボールを蹴り上げる。
 それととったのは神戸の坂本。
 プレッシャーをかけられ、昴にパスをした。
 ドリブルで走り出した昴に向かって富永が真っ直ぐに走り出す。
 目があった。
 富永が、にやっと笑った。
 ただ、擦れ違っただけだった。
 富永が横を通り過ぎただけのように見えた。
「……っ!!」
 足にあたっていたボールがなくなっている。
「……くっしょ」
 風が通り過ぎた。
 前を行く赤いユニフォームに追い縋ろうと、逆方向に走りだす。
 早い。
 うそだと思うほど。
「ちくしょうっ」
 何故だか無性に悲しかった。
 追い縋ろうとした。
 けれどできなかった。
 トップスピードでハーフラインを超えた富永の足がパスを上げた。
 広島の若きストライカーのヘッドにボールはあう。
 神尾の頭上を越えて、ボールはネットを揺らした。
「うっしゃぁ!」
 声を発した富永のもとに得点者が駆けて来る。
 手を打ち合わせて歓びを分かち合う。
「富永がみせました! 広島の先制です。富永の真骨頂といったところでしょうか。神戸の選手は呆然としているようです」
 富永が昴のもとまでやって来た。
 そして笑う。
 いい顔だ。
「どうした?」
 からかうような口調に昴が泣き笑いにちかい表情を浮かべた。
「別にっ。これからだからな。油断してたら負けちまうぜ?」
「そりゃ、楽しみだ」
 再びゲームが始まる。
 富永の表情に変化がでたのは、足掻いているからだと市井は思っている。
 今まで、彼はチームから当然のように必要とされてきた。
 そんな男が、今は必要とされる存在であるためにもがいている。
 苦しいだろう。
 苛立ちも覚えるだろう。
 それが富永の表情を変える。
 ボールをもった高山の横を、また富永がすり抜ける。
 ボールは富永のもとにあり、それを坂本がインターセプトする。
「激しいボールの奪い合いになってきました。いい試合ですね」
「そうですね。広島は選手の補強がうまく行ってますし、強豪相手に勝ってやろうという思いが強いでしょうから、神戸の方がモチベーションを保つのは大変かもしれません」
 活きのいい広島の選手は縦横無尽にピッチを走り、富永は鮮やかなインターセプトから36歳とは思えない疾走、そしてロングパスを繰り出す。
「どうしたぁ? 昴。もうばてたか?」
 ハーフタイム。
 ピッチから降りる昴に肩に富永が手を回してきた。
「うっせぇ。元気なおじんだな」
「あぁ、元気だね。後半もばしばし行くぞー」
 赤いユニフォームで汗だくの顔を拭いながら、富永は広島側のロッカールームへ向かい、昴は神戸側のロッカーに向かった。
 赤いユニフォームに背負った番号は27番。
 それは神戸の10番とは重みが違うのだろうか。
 昴はそんなことをふと思う。
 神戸の富永真吾の表情と、広島での表情があまりにも違うから。
 そして、プレーも違う。
 悔しい気もするが、面白いとも思う。
 ドキドキする。
「うっしゃー! 後半もいっくぞー!」
 スタジアムの廊下に響いた昴の大声を聞いた神戸は後半に挽回し、一点を返したが、それから五分後に広島のカウンターを受けて失点。
 2-1となった。
 広島は終了10分前から守りの体勢に入り、富永も守備的なポジションに入り鉄壁の守備を見せた。
 試合終了のホイッスルが鳴り響き、この一戦は広島ジョウィナーズが勝利をおさめた。
 勝敗をわけたのは富永のプレースタイルの変化だった。
 富永のサッカー人生はまだ終わらない。
 今、この広島ジョウィナーズで始まったのだ。
 そして、神戸レインボーチャーサーもこれから新たなシステムを確立するときを迎えた。
 勝利の歓び、敗北の痛み、サポーターの声援、レベルアップやスランプの中にある自分。
 そして、サッカー。
 そんなものに病み付きになった器用で堅実なはずのミッドフィールダーは、今、ピッチの上で引き際を探しあぐねて足掻いている。
 それは無様な姿じゃない。
 それは、

『トミナガ! トミナガ!』

 サポーターからの声援を受けることのできる、汗だくのプレーヤーの姿だ。


Numberに掲載してあった、井原正巳選手の横浜M退団の記事が印象に残ってて書きました。Numberの記事の書き方が上手かったせいもあるんですが、いいなぁと思ってて。
書いてるうちに富永の性格がどんどん変わってくるのがちょっと苦しい(笑)
今度は移籍繰り返してる人をモデルに書きたいです。

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