その年、俺は大切な人を失った
高山の両親は、ドラマにでもなりそうな純愛を貫き通す代償として帰る家を失った。
周囲の猛烈な反対も二人の絆を断ち切ることができなかった。
だから高山は幼い頃から帰省だとかUターンラッシュだとか墓参りだとか、そう言う言葉に縁がなかった。
そして『おじいちゃん』も『おばあちゃん』も、『伯父さん』も『従兄弟』もいないものだと思ってきたし、この先も会うことは難しそうだ。
英介と生きていこうと決めてから、自分と繋がる人が一気に増えていった。
家族が互いに思い合う優しい感情や、揺るがない信頼や、帰る場所があると言う安心。
遠慮のない言葉と、深い思いやり。
自分もそんな輪に入っていくことに戸惑いながらも、喜んでいた。
どうやら自分に『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼んでいい人がいるらしいと知ったのは、夏に英介の両親に挨拶をした半年後。
天皇杯敗退が決まった、その年最後の一週間に突入してからだった。
英介の母方の祖父が、高山と英介の交際に反対しているらしい。
説得と挨拶ついでに浩二くんも一緒に行きましょうよ。
おっとりとした英介の母はそう微笑んで、正月明けの自分の実家への帰省に高山を巻き込んだ。
田舎を知らない高山に、是非とも自分の田舎を見せてやりたいと思ったらしい。
そんな事情で江口家のファミリーワゴンに押し込まれた高山は、山に囲まれ始めた窓の外の景色を眺めて溜息を飲み込んだ。
「うちの母方のじいさんはな、近所でも有名な頑固親父で偏屈でなぁ」
高山を後部座席の窓際に追いやって、その隣を勲ががっちり固めてこれから会わなければならない祖父についてあまり嬉しくないデータを提供してくれる。
英介の母の旧姓は木内と言って、祖父母は長男夫婦と農業で生計を立てている。
英介の暮らす神戸の選手寮には定期的に旬の野菜が送られてきて、寮生みんなで美味しく頂いている。
祖父・英一郎氏はアルバムの中の家族写真で見たことがある。
小柄だがしかめっ面がよく似合う、日本のジジイとはこうあるべきって顔だと英介が言っていたのを覚えている。
広島遠征の際には欠かさず観戦に来ているらしいが、高山はまだ顔を合わせたことはなかった。
写真で見た顔と前評判とで、これからお宅に向かってよく来たなと歓迎されるとは思い難い。
憂鬱になって思わず零れそうになった溜息を慌てて噛み締めていると、
「兄ちゃん、タカにプレッシャーかけるなよ」
前の席に座っていた英介が体ごと振り向いて、勲を睨みつけた。
「心構えを説いてるだけだよ」
「楽しそうな顔しすぎ。タカも気にすんなよ? じいちゃんは俺と喧嘩したいだけなんだから」
円満な江口家だが、英介と祖父の間では口喧嘩が絶えないらしい。
不器用な祖父のコミュニケーション手段なんですよと友里は言う。
「親父だって、母さんとの結婚許してもらうために苦労したんだろ?」
「えー、僕はそうでもないかなぁ」
ハンドルを握っていた英介の父は、曖昧に首を傾げた。
「反対はされたけどね」
「おじいちゃん、人になにか言われると取り合えず駄目だって言っちゃう人なのよ」
「時ちゃんがフォローしてくれたからね」
「靖さんが誠実だったからよ」
勝手にやってろと子供たちが盛大な溜息をつく。
車窓の風景はのどかさを増していた。
それとは反対に、高山の胸中には暗雲が立ち込めていた。
「別れてしまえばえぇ」
どきっぱりと言い切った年季の入ったダミ声に、高山はそれとはわからないほど程度に表情を強張らせた。
「男同士で好きおうて何になる。英介はうちの大事な男孫じゃ。嫁さん連れて来るならわかるが、こねぇな大男連れてきてからに」
「じいちゃんが連れて来いって言ったんだろ! だいたいな、今更反対したってもう無駄なんだよ。残念でしたー」
「英介は黙っとれ! 男色なんぞに現を抜かしとるから、勝てる試合も勝てんのんじゃ」
「それはっ、タカとは関係ねぇだろ! サッカーはチームスポーツなんだから、いろんな敗因があるけど、俺とタカが付き合ってるってのは関係ねぇよ!」
「やかましい。とにかく、英介はお前なんぞにやらんからな!」
「なんでじいちゃんが決めるんだよ!」
烈火の如くと言う言葉はこういう言い合いを指すのだろう。
おっとりとした気質の江口家を見て、ひょっとしたら英介は貰われっ子なのではないかと心配したこともあったが、そんな不安も消えた。
英介は確かに、英一郎氏の孫だ。
「子どもも産めん、周りに非難もされる。そんなんで、幸せにはなれん」
何か反論してみろと言わんばかりに、鋭い眼光は英介から高山へと移った。
英介のことを心配し、幸せになれと願うが故に剣呑になる眼差しを、高山は正面からしっかり受け止めた。
後ろめたさがないとは言わない。
けれどもう英介の手を離すことはできないから、自分のできることの全てを言葉に託す。
「……確かに、子どもも作れないし、家庭と呼べるものも、俺達にはできないかもしれません。でも、他の誰を好きになるよりも、俺を好きでいる英介が一番幸せになれるように、努力、っつーか、えっと……、その……、英介が、笑ってられるように、しますから」
高山らしいしどろもどろの言葉は、背後で見守る英介の両親や兄弟を微笑ませる。
緊張して言葉が繋げないのではなく、胸に浮かんだ言葉だけを声に乗せる彼の言い分はいつも誠実で正直だ。
言葉数が少なく表情も多彩な方ではない高山は、その雰囲気だけで気持ちを伝える術を持っていた。
無自覚で無意識なソレは、彼の本音しか伝えない。
譲れない、そして許されたい。
祈るような気持ちが、英一郎に向けた瞳と族に向けた背中に滲み出る。
「俺は、まだ……、成長しきれてないガキで、頼りない男かもしれません。だから、信じてくださいとは言えません。でも、英介は家族に愛されて支えられて、頑張れるから……」
家族が見守る先で、英一郎の口元がぴくぴくと動いた。
「いかん。許さん。男同士なんぞ許されるわけがない。自然の摂理に反しとる。どうせ、もう一、二年もすれば厭きるのがオチじゃ!」
ダンっと農作業で厚く頼もしくなった手の平が食卓を叩いた。
ぴんと空気が張り詰める。
「そうなるのがわかっとって、可愛い孫をやれるか!」
「なら」
不貞腐れたようにそっぽを向いた英一郎の代わりのように、穏やかな声が滑り込んできた。
部屋の隅にひっそりと座り成り行きを見守っていた、優しい面差しの英介の祖母の和恵だ。
折れてしまいそうなほど小さなその人は、昔はさぞかし美人であっただろうことが窺える。その人は穏やかな表情のまま、とんでもないことを口にした。
「私と貴方もお別れしなければなりませんね」
今度こそ本当に空気が固まった。
「お、おばあちゃん?」
クールなはずの友里までもが目を大きくして、和恵の発言に驚いている。
「この年になって離婚だなんて、先が不安ですけどしょうがありませんね」
「な、なにを言うとるんじゃっ?」
「私が貴方を慕う気持ちと、英ちゃんが浩二くんを、浩二くんが英ちゃんを想う気持ちと、どこに差があると言うんです? 貴方が否定したのは、私の気持ちでもあります。貴方にそこまで否定されてまで一緒にいられるほど図太い神経はしていません。今までお世話になりました」
静々と頭を下げられ、英一郎もそれまで静観を決め込んでいた家族達も唖然となる。
和恵は大和撫子と言う言葉を具現化したような人で、かと言って保守的というわけではない。
英一郎の傍にひっそりと寄り添いながら、必要な時には自分の意見はしっかり口にする。
和裁洋裁が得意で、地域で開く裁縫教室で子供たちに縫い物を教えたりもしているらしい。
その大和撫子は淡々ととんでもないセリフを続ける。
「私が貴方と一緒になる時、私の両親は猛反対しましたね。それを押し切って一緒になりましたが、周りに祝福されない結婚と言うのは悲しいものです。可愛い孫をやるのが惜しくて意地を張っているのなら私も黙っていましたが、浩二くんの気持ちを一番よくわかっていいはずの貴方がここまで分からず屋だなんて思いませんでした。子ども達も大きくなっていますし、親権も問わずに済みます。英ちゃん、おばあちゃんとおじいちゃんはこれで赤の他人ですから、おじいちゃんの言うことなんて気にせずに、好きな人と一緒になりなさいね」
さぁ、役所に言って離婚届を貰いましょうと立ち上がる。
「勲、悪いけど役場まで車を出してくれる?」
「あぁ、いいよ」
「兄ちゃん! ちょっと待ってよ、ばあちゃんっ。早まらないでっ」
「わかったっ!!」
飄々とした兄を一喝し、仕度しようとする祖母を止めようとした英介の声は大きな怒鳴り声に掻き消された。
「……わかった」
もう一度、今度はいかにもバツが悪そうに英一郎が呟く。
「ばあさんが……、そこまで言うなら、わしも、考え直さんこともない」
搾り出すような言葉に、場の空気が一気に緩んだのが感じられた。
英一郎と和恵の結婚は、周りの反対を押し切った形だったらしい。
名家に生まれた和恵と百姓の英一郎は身分違いの恋をして、両親の反対や戦争や、大きな壁を乗り越えてここまで来た。
和恵があまりに幸せそうに笑うから、結婚して二十年も経った頃には誰もがお似合いの良い夫婦だと認めるようになっていた。
和恵は英一郎を支えると同時にしっかりと手綱を握り、英一郎は彼女を信じて今までやって来たのだ。
その一端を目の当たりにした。
和恵はにっこりと微笑んで、お茶を淹れますねと台所へ消えて行った。
「さっすが、おばあちゃん」
友里が尊敬の眼差しを送っている。
英一郎は居心地悪そうに何度かもぞもぞと尻を動かし、やがて耐え切れなくなったように立ち上がった。
「畑に行ってくる。晩には、じいちゃんの作った野菜を食わしちゃるけぇ、ゆっくりしとれ」
誰の目も見ずにそう言うと、のっしのっしとした足取りで表に出て行った。
くつくつと、誰ともなしに笑い出す。
こうして、英介の両親が結婚する時も和恵のフォローが遺憾なく発揮されたらしい。
「まったく、素直じゃねぇじいさんだな」
「浩二くん、大丈夫? すごい汗よ?」
「大丈夫、です。緊張しすぎて」
試合の方がよほど楽だ。
存在するだけであれほどの圧迫感を与えられるのだから、その貫禄は凄い。
「サンキュ」
額に滲んだ汗を拭っていると、英介が顔を覗き込んできた。
「本当は誰の許可なんかいらないのにね。変に緊張させるような所に連れてきて、悪かった」
今の日本は自分達の想いを認めてはくれない。
だからせめて家族や友人達には、認めて許してもらいたいと思っている。
お互いにそう思っているから英介は謝辞を口にして、応える高山は無言のまま英介の頭をくしゃりと撫でた。
「お茶も出さんとごめんなさいねぇ。おじいさん、英ちゃんが可愛くて仕方ないのよ」
ついさっきとんでもないことを言い出した和恵の口調は柔らかい。
方言交じりだがとても上品で、浮かべる笑みも柔らかい。
なんだかまさに、日曜六時半のご長寿ファミリーアニメの大黒柱と着物が似合う奥方のようだ。
「うちの子は、みんないい人を連れて来るわ」
和恵と英一郎の三人の子どもは、それぞれに円満な家庭を築いている。
そして英介達を含めた七人の孫達の内二人は結婚し、英介が三人目として高山を連れてきたのだ。
「でも英ちゃんは、本当にサッカーばかりで……、私達が皆でそうさせてしまったのもあるけど、ちょっと心配してたんよ。あんまりにもサッカーに夢中すぎて、大事な人が傍にいるのに気付かないのは淋しいなぁって」
お茶を用意してきた和恵が英介と高山にお茶を出しながらしみじみとそんな本音を口にした。
「ばあちゃん、ごめんね」
「なぁに?」
「だって、俺、すげぇ心配ばっかりかけてるから。事故の事もだし、サッカーも。それから、連れてきたのが男で。近所の人とか、言われたりするでしょう?」
「心配をかけてくれない子も孫も、可愛くないんよ? だから浩二くんも、これからたぁくさん心配をかけて頂戴ね」
何度も声が詰まった。
たった一言の返事を言うのに時間がかかった。
その一言すら、みっともなく震えてしまいそうだった。
大事な人ができた。
愛していて、愛されたくて、信じていて、信じられたくて、支えたくて、支えられたい人だ。
大事な人ができたら、なんだか大切な人が増えた。
認められたくて、許してほしくて、信じてほしくて、幸せでいてほしい人達が。
英介が引き合わせてくれた人達は、自分達の幸せを願ってくれる。
それが幸せなのだと、高山は知った。
その人の訃報を聞いたのは、試合終了後のロッカールーム。
携帯電話を片手に握り締めて俯いた英介が、消え入りそうな声で告げた。
『ばあちゃんが、さっき、息、ひきとったって……』
勝利の余韻がすっと消えていった。
一ヶ月前に入院したと聞いていた英介の祖母は、昨夜から危篤に陥っていたという。
あぁ、だから序盤からあんなにも飛ばしていたのか。
後半早々に決めたゴールの後、喜びを爆発するでもなく、まるで祈るように空を見上げたのはそのせいか。
いつもと様子が違うと心配していたが、まさかそんな原因だったとは思わず、高山は言葉を失って立ち尽くした。
一緒に見送って欲しいのだと、今までにないほど遠慮がちな声で言われ、ただ頷くだけだった。
慌しくスタジアムを撤収して乗り込んだ新幹線の中で、ようやく英介の表情を窺うことができた。
茫洋とした表情を車窓に向けている。
まだ英介にも実感がわかないのかもしれない。
視線に気付いた英介が、ぼんやりとした視線を高山に向けた。
「元々ね、体、丈夫な方じゃなかったんだって」
ぽつりと、張りのない声を紡ぎだす。
「今回の入院も、ひょっとしたらって、言われてたんだって。でもばあちゃんは、よくなって退院するんだって言ってたんだ。だけど、昨日、父さんから電話があって……。帰りたいって言ったんだけど、ばあちゃんがね、言ったんだって。意識なくなる前に、俺は帰ってきちゃ駄目だって。試合に出なきゃ駄目よって、言ったんだって」
ゆっくりと、だが一息に告げた英介はそっと目を伏せた。
「言えなくて、ごめん」
涙を浮かべるでもない、悲しみに声を震わせるでもない、あまりにも平淡な声は余計に痛々しい。
「いいよ。着くまでまだ時間あるから、少し休んどけ」
うん、と声なく頷いてみせたけれど、おそらく眠ることはできないだろう。
目を閉じた横顔には疲労が滲んでいた。
昨夜から不安に苛まれ、それを抱えたままピッチで九十分動き回って見せた。
オフサイドがやけに多い焦りのみえるプレーでゴールを狙い、一得点をものにしてみせたのも、もう笑顔を見ることのない祖母へ捧げたいが一心でのことだろう。
疲弊した神経に、全力疾走した体。
こんなに疲れた英介を、高山は見たことがない。
どう声をかけたらいいのか、どういう態度でいればいいのか、高山はわからない。
父と母以外の家族を知らない高山にとって、身内を失うというのは初めてのことなのだ。
さっきから英介の顔を見る度にじくじくと胸が痛むのが、喪失感と言うのだと知る。
初めて訪れた夏の日以来、正月だとか盆だとか、折を見ては一緒についてきた英介の母方の実家。
辿り着いたのは夜中と言っていい時間帯だったが、家には灯りがあった。
まだ近隣の人の出入りがあるらしく、慌しい空気が感じられた。
「おかえり」
最初に二人に気がついて声をかけてくれたのは、英介の伯父だった。
物静かな声は疲れこそ滲むが、悲壮感は感じさせない。
英介の頭をぽんぽんと叩くと、会ってやってくれと屋内へと促した。
明日の葬儀の準備をしていた割烹着姿の女性達が、よく帰ったねと静かに声をかけてくれた。
奥の間には一組の布団が敷かれ、それを取り囲むように英一郎と親族が座っていた。
おかえりと、優しい声を掛けられる。
高山は少し頭を下げたが、英介は無言のまま、布団のふくらみを見つめていた。
「おいで。浩二くんも」
枕元へと手招いたのは目の赤い英介の母親だった。
促され、枕元へと回り込み腰を下ろすと、横たわる人の顔に掛けられていた白布をそっと外される。
眠っているのではないかと、本気で思ってしまうような穏やかな顔だった。
初めて会った夏の日の夕方、畑の脇に咲いた黄色い花を宵待ち草と言うのだと教えてくれた穏やかな表情そのままで、彼女は眠りについたらしい。
「ばあさん、英介が、戻ってきたぞ」
いつもは存在感のある英一郎が、背を屈めて力のない声を掛ける。
どっと、胸の奥が疼くような痛むような、心もとない感覚を感じて奥歯を噛み締めた。
視界が霞むようで、その反対に明確に見えすぎるようでもある。
「英介がね、ゴールするほんの少し前に、まるで眠るみたいに息を引き取ったのよ。きっと、重い体を置いて英介のサッカーを観に行っちゃったのね」
泣いた名残の残る鼻声で、母親は優しい言葉を紡ぐ。
その横に座っていた友里が、くしゃりと顔を歪めてハンカチに嗚咽を沁みこませた。
「……ばあちゃん」
身を屈め、英介はもう目を開けてくれることのない人へと囁きかける。
「ただいま」
横顔にはようやく、表情が浮かんできた。
今にも消え入りそうな微笑を浮かべ、英介は祖母の横たわる布団を子どもをあやすように一度だけ優しく叩いた。
「……ゴールさせてくれてありがとね」
すすり泣きが、あちこちから聞こえてくる。
喉を震わせて泣き始めた友里の体を勲が抱いて、そっと部屋を出て行った。
握り締めたハンカチを目元に当てた英介の母の姿を、英一郎がぼんやりと眺めている。
暫く祖母の顔を見つめた後、英介はゆっくりと手を合わせた。
心が、受け入れたのだ。
たくさんの優しい言葉をくれた人が、この世を静かに去ったことを。
傍らで高山も手を合わせる。
もうこの人は、目を開けることはない。
もうこの人は、やんわりとした笑みを見せてくれることはない。
この人は、もう。
これ以上の歴史を紡ぐことは、ない。
目をそらすことなく、英介はその事実を受け入れたのだ。
別れの日の空は高く、澄んだ水色が広がっていた。
葬儀は静かに流れるように進行されていく。
この地域では昔から男孫が棺を担ぐものだからと、出棺の準備を整える中、英介の母に背中を押された。
いいのかと確認すれば、いいのよと、亡き人とよく似た微笑を返された。
和恵が元気な頃に、冗談で棺担ぎの男孫の頭数が揃ったと笑っていたのだと。
持ち上げた棺は、思いのほか軽かった。
軽い、と消え入りそうな声で呟いたのは、英介の従兄弟だった。
五歳年上の彼は自分の言葉を噛み締めるように顎に力を入れた。
英介は静かな表情で棺に視線を落としている。
自分の中に沸いてきた感情を外へと解き放ち周りの人たちの心を動かす英介が、ただじっと自分の胸の奥が動くことを抑えるように、視線の動きすら慎重にしている。
高山は、自分の中に生じる感情がどういった類のものなのかすら判別できずにいる。
英介は何を思うのだろう。
それを想像しかけて、あまりの痛さに怯えてやめた。
斎場に辿り着いた棺が見えなくなる瞬間、立ち会う人たちが瞑目するのに倣おうとした高山の視界の端で、何かが歪んだ。
数時間後には、祖母は土へと還るための形となる。
小柄だが背の曲がっていない上品さを感じさせる姿勢も、優しい面立ちも穏やかな眼差しも、白い骨になってしまう。
彼女の形を失うその瞬間に、英介の表情が歪んだ。
置いていかれた子どものような、泣き出す寸前の顔をして閉ざされた扉を見つめた。
もう一度。
もう一度、笑って欲しい。
声を掛けて欲しい。
悲痛な願いを乞う声が聞こえてきそうな表情はやがて消えていき、傍らで嗚咽を零す友里の肩を抱いた。
英介は知っているのだ。
自分の感情が周りに与える影響力を。
特に家族に対するそれ。
自分が悲しめば、家族はその倍悲しむ。
自分が苦しければ、その倍の苦しみを与えてしまう。
喜びは、その何倍も大きく、そして深いものになる。
だから奥歯を噛み締め、涙腺をきつく戒め、静かに祖母を見送ろうとしているのだ。
痛々しくもあるその姿に手を伸ばし、背を抱いてやることはあまりにも簡単だ。
だが英介はそれを望んではいない。
英介の思いを無駄にしてはいけない。
今はそっと、かつて彼の祖母がしていたように見守るだけだ。
そして今の高山には、そうする他には何もできはしないのだ。
家の中には、普段の時間の流れが戻ってきた。
日が落ちてきた空をふと見上げた英介が、
「散歩行ってきてもいい?」
朗らかにも聞こえる声音でそう尋ねた。
いいよと返事をもらった英介の視線がこちらを向くので、高山は英介のジャケットと自分のジャケットを手にして後をついていく。
山間の冷たい風に体を震わせるでもなく、英介は農道をゆっくりしたペースで歩く。
舗装されていない広い畦道をしばらく歩くと、山の中に小さな神社がある。
和恵を交えて散歩をしながら、高山は彼女に多くのことを教わった。
核家族もいいとこの父子家庭で育ち、田舎も持たなければ祖父母といった高齢者と接したことのない高山に、和恵は山の色や草花の名前、空から明日の天気を読み取る方法を教えてくれた。
思い出しながら、半歩前を行く英介の丸い後頭部を眺める 。
疲労感の滲んだ体は今にも大気に溶け消えてしまいそうだった。
頑丈すぎるほどのメンタルを持つ英介が、心身共に疲労している姿など見たことがなかった。
小さくて細くて、でも決して壊れそうにないのが英介だった。
高山の前に存在する背中はどんな時も頼もしく、そこにいるだけで高山の気持ちを支えた。
折れることなどないのだと勘違いしていた。
項垂れることなどないのだと。
そうではないと知って途方に暮れた自分は、もう本当にどうしようもないと思う。
家族を愛している英介が、祖母との別れにどれほど打ちのめされているか。
気付き、気丈に振舞おうとする前に胸に溜めたものを全て吐き出させて、少しでも楽にしてやることもできただろうに。
身内を失った英介を支えきれていない自分の腕の、なんと頼りないことか。
自分でも嫌気がさす。
「タカ?」
知らず顔を歪めていた高山を気遣わしそうに振り向き見上げてきた双眸は普段通りで、それにも切なくなって、情けなくなった。
なんでもないのだと足を止めた英介の隣に歩み寄ると、英介は小さな神社の鳥居をくぐり、石段に腰掛けた。
「寒い」
隣に座った高山が空けた体一つ分のスペースを英介はいとも簡単に詰めてきて、高山の右腕に英介の左腕が触れた。
「俺が事故った夜にさ、ばあちゃん、ここに来たんだって。俺が助かりますようにって、お百度参りしたんだって」
毎朝、この神社に参るのが彼女の日課だったそうだ。
家族がみんな元気で暮らせますように。
遠く離れ、体を張って何万人を熱狂させる可愛い孫が、怪我などしないように。
「目、覚めて、またサッカーしたいって思えるようになった頃に、見舞いに来てくれたばあちゃんが、サッカー以外にも楽しいことがあるからって、言ってくれたんだ」
今にも崩れそうな曇り空のような表情で、英介は言葉を紡ぐ。
涙が出ない代わりに、言葉として溢れさせないと弾けてしまいそうだ。
「だけど俺、馬鹿だから。ばあちゃんに、そんなことないって怒って、勝手なこと言うなって、今まであんなに怒ったことなんてないのに、なんでか怒っちゃって、すげぇ酷いこと言って、じいちゃんにも物投げたりして……。わかってたのに、ばあちゃんがすげぇ心配してくれてたの、知ってたのに。だから、ごめんって言おうと思ってたのに。なんか、ずっと言えなくて。言えない、ままに、なっちゃった」
時折、曇天から降ってきた雨粒のように息をつっかえさせて、英介は高山を見上げてきた。
どうしようと、震えた口唇が声なく動いた。
「あの時のこと、謝んなきゃいけなかったのに」
泣けないのか。
英介の大きな瞳は混乱したように揺れている。
指が縋るように高山のジャケットの裾を掴んだ。
体が感情に反応しない。
そのもどかしさと恐怖と、それをも上回る悲しみに襲われて、英介は今にも壊れてしまいそうだ。
強張ったままの頬に触れると、英介はゆっくりと目を閉じた。
無防備な顔を見て、やはり自分はどうしようもない男だと思った。
英介が家族から距離ととり、そこに自分を呼んだ理由に今更気付いた。
引き寄せた仕草は少し乱暴なものになったかもしれない。
自分の肩口に押し付けた英介の目元はまだ乾いたままで、麻痺してしまったようで怖いと、くぐもった声で英介が訴えた。
冷たくなった髪の毛を梳いてやりながら、高山は逝ってしまった人の言葉を思い出した。
『事故に遭ってから、英ちゃんは私たち家族に心配を掛けないように本当に気を遣ってきたの。だけど、浩二くんの前でなら、英ちゃんは本当の意味で安らげるのかもしれないわね。あの子のこと、よろしくね』
何かの折に、和恵と二人きりで言葉を交わす機会があった。
慈しみにほんの僅かな切なさを混ぜた眼差しで、高山を見上げて言った言葉を思い出した。
ごめんなさいと、胸中で謝罪した。
ごめんなさい。
貴方との約束を、守れていなかった。
貴方の孫はいつも俺に勇気や希望をくれるから、自分が彼に何かを与えることができるなんて思えなくなっていた。
それじゃいけなかったのに。
支えられた分、支えてやらなきゃいけなかったのに。
高山の自己嫌悪を赦すような和恵の微笑が脳裏に浮かび上がる。
引きずり出されるように、彼女からもらった言葉の一つ一つが蘇ってきた。
おっとりしていて、清楚で、でも時々茶目っ気を見せて、いつも微笑んでいた。
英一郎との出会いを、懐かしそうに頬を染めつつ教えてくれたことがあった。
身分違いの恋だった。
理解されず、受け入れられない恋だった。
それを貫き通してしまった。
だけど幸せなのよ。
子ども達がそれぞれに家庭を築き、孫達も元気でいてくれる。
あの人の手をとったことは、間違いじゃなかったと子どもや孫達が教えてくれたの。
穏やかに、そう言って庭の花を眺めていた。
「……タカ?」
抱きしめた英介が体を離し、困惑しきった顔で高山を見上げてきた。
「なんで、タカが先に泣くの」
ぺたりと、英介の手の平に頬を叩かれるように触られた。
子どものような所作を受け、一気に視界が曇った。
ジクリと目の奥が痛み、同時に熱くなる。
「……っ、思い出してた」
みっともなく震えた声だったが、英介は呆然と高山を見上げたままでいてくれた。
「初めて、ここに来た時、俺がお前のこと好きなのは、おばあちゃんとおじいちゃんが好き合ってるのと同じって、言ってくれた」
顎先にまで滴った雫が冷えて、そこだけ冷たさを感じる。
悲しくて涙を流したのはいつ以来だろうか。
「嬉しかったんだ。どんなに胸張ろうとしたって、どっかで後ろめたさを感じてた。だけど、お前のおばあちゃんが、何十年も夫婦として暮らして、すげぇ家庭まで築いてきた自分達と同じだって言ってくれて……、許された気がした」
みっともない泣き顔を凝視されたくなくて、もう一度英介の顔を自分の肩へと押し付けた。
「……嬉しかったんだ」
たくさんの言葉と知識と優しさをもらった。
自分は何か少しでも恩返しが出来ただろうか。
それを思うと、悔しくて。
「……タ、カ」
腕の中で英介がか細い声を上げた。
泣いてしまえと、祈るように思った。
祈りは通じたらしい。
腕の中の英介が震え、背中に回された手がきつくジャケットを握り締めてきた。
「……っ、う」
押し殺すような嗚咽は少しずつ堪えきれない泣き声に変わり、高山が背中を摩ると声を上げて泣き始めた。
「くっ、う……っ、ごめん、なさいって、言わなきゃ、いけなかった……の、に」
子どものようにしゃくり上げ、英介は震えながら泣いた。
祖母の危篤を聞いてからずっと抑えてきた、不安や悲しみを爆発させるように。
英介の深い悲しみは涙と一緒に高山に沁みてきて、高山の目も乾くことを知らないように濡れ続ける。
悔しいと、何に対しての感情かはわからないが、そんな気持ちが浮かんできて、ぶつけようのないそれを持て余す。
和恵は、そっと眠るように逝ったのだと言う。
持て余す悔しさを溶かす、それは唯一の救いだった。
耐えてきた分の悲しみを溢れさせる英介の体を抱いて、英介を失う日のことを想像した。
自分が英介を遺して逝く日のことを想像した。
胸がジクリと痛み、息すらできなくなりそうで、英介の体を抱く腕に力を込めた。
いつか、必ず別れは訪れるだろう。
愛していればいるほど、その悲しみは深いものになる。
人を愛することの先にあるのは悲しみと恐怖なのだとしても。
愛する者と過ごす日々がもたらす幸福感には敵わない。
積み重なった幸福は、いつの日か訪れる別れの痛みを癒すだろう。
英一郎に遺されたのは悲しみだけではないはずだ。
だから彼は、最後の別れの時、組み合わされた妻の手の触れ、言えたのだ。
ありがとう、と。
自分は言えるだろうか。
言ってもらえるだろうか。
それを想像するには、まだ自分達が共有する時間は短すぎる。
そうして高山は、英介が目を真っ赤に腫らして声を掠れさせるまで、苦しげに震える背中をゆっくりと摩り続けた。
祖母から受け継がれた命、言葉、愛情とで英介は再び前を向き、歩き始めるだろう。
自分もまた、同じように。
だから今は泣いて泣いて。
目を腫らし、声を嗄らして。
だけどきっと立ち直る。
笑えるようになる。
この手を、英介が。
英介の手は自分が。
しっかりと、繋いでいるから。
スニーカーの紐を締めながら、英介は赤い目で家族を見上げた。
英介の両親や親族はもうしばらくこの家に留まるらしい。
シーズン真っ只中で、明日も練習が待っている英介と高山は一足早く、生活の拠点に戻らなければならない。
「じゃ、行くね」
トントンとつま先で地面を叩きつつ、英介は笑顔を見せる。
頑張って浮かべた笑顔ではないのに安心しつつ、高山は眼力を感じなくなってしまった祖父の姿をこっそりと盗み見た。
大丈夫だろうかと、不安がよぎる。
「じいちゃん」
その祖父に英介は声をかける。
呼ばれて英介に焦点を絞るが、やはりどこか力がない。
あの夏の日、可愛い孫をやれるかと高山を一喝した人物と同じ人だとは思えないほど。
「寂しいなら、俺を見てて」
祖父を射抜く眼差しは、生命力に満ち溢れて光り輝く。
「俺は、おばあちゃんから受け継がれた命もらって、ここにいるよ。じいちゃんとおばあちゃんが夫婦になったから、俺はここにいられるよ。寂しくなったら俺を見て。俺がいることの意味が、おばあちゃんがじいちゃんと一緒に生きてきた意味だ」
そうすればきっと寂しさなど忘れてしまうよと、英介は笑った。
空を覆う灰色の雲を押しのけ、地上に光をもたらす太陽のように。
じわっと、英一郎の双眸が揺らいだ気がした。
その目に、一瞬のうちに力が漲る。
「行ってきまーす」
バイバイと家族達に手を振って、英介が踵を返して車へと向かう。
後に続こうとした高山の手を、がっしりとした手で掴まれた。
驚いて振り返れば、英一郎の渋面がそこにある。
昨夜泣き腫らした名残のある高山の目を、英一郎は見上げてきた。
「……あ、あのな」
「……」
搾り出すような声を待っていると、英介も振り向いたようだった。
「また、帰ってけぇ。それで、怪我には、気をつけぇよ」
怒ったような声音で、だが言葉はしっかりと優しく。
英介がくしゃりと顔を歪めるように笑った。
高山はその優しい言葉が自分にも向けられているのだと認識するのに数秒を要してしまったが、やがて困ったような嬉しいような照れたような、複雑な感情で視線をうろつかせた後、自分より下にあるが威厳ある双眸を見返して返事をした。
「はいっ」
それは、高山にしてみれば随分と幼い印象の返事になった。
思わず浮かんだ笑みも、少年のようなものになった。
この人に誇ってもらえる存在になりたいと思った。
英介と同じように、自分の活躍を見て誇らしく感じ、期待してもらえる存在に。
あなたには俺達がいると、胸を張って伝えられるように。
「行ってきます」
言うと、英一郎は強い力で高山の腕を叩いた。
頑張れよと、その力の強さから伝わってきた。
背中がひどくあたたかく、心強い。
愛することで繋がっていく人たちが、自分を強くするだろう。
自分はもっと、強くなれる。
それは、あの優しく穏やかな面差しをした女性が、高山にのこしてくれた力だと思った。
『神戸レインボーチャーサーの攻撃が続きます。先ほどから神戸の江口が非常にいい動き出しを見せています。実は前節の試合中、大好きだったおばあちゃんを失いました。悲しみを耐えながら挑んだ前節のゴール。あのゴールは祖母が入れさせてくれた得点だと江口は言います。今日、もしも自分が得点をあげたら、応援してくれている大勢の人には悪いと思うけど、それは天国のおばあちゃんへ捧げるゴールです。試合前、報道陣にそう語ってくれました。悲しみを乗り越え、今日のピッチを駆け回ります』
一陣の冷たい風吹き込むスタジアム。
それでもスタンドはチームカラーに染まり、熱を帯びる。
『ボールを持った、ボランチの佐藤。佐藤から富永へ。相手陣内へじわりと攻め込みます、神戸。富永から高山へ通ります。相手ディフェンスの枚数は揃っています。フィニッシュまで持ち込めるか、コースを探していますが……。中央を選択! ディフェンスの間を抜くグランダーのボールに、裏から江口! 早い!』
ゴールは揺れる。
ストライカーは、空へ向けて人差し指を突き出し咆哮する。
『神戸先制―!』
『あぁ、きっと天国のおばあちゃんも喜んでいるでしょうね』
スタジアムは絶望も歓喜も飲み込んで、声援は空へと吸い上げられる。
繋がれた命を存分に燃え上がらせて。
優しく磨かれた魂を輝かせて。
呼吸が、鼓動が、貴方への感謝の言葉のかわりになるだろう。
雲の切れ間から太陽が覗く。
光が差し込む。
あの人の眼差しのような光だ。
推奨BGM:ORANGE RANGE「花」
切ない話を書こうと思って書いてみました。もっと上手く書けるようになりたいよぅ。まさに「花」を聞きつつ、歌詞を解きつつ書きました。