江口家のいつもの食卓にはなんとも言えない空気が流れていた。
 いつも賑やかな次男が、何か言いたそうな顔をして、でも黙っているからだ。
 家族はそれに気がついて、何か言い出すのをひたすら待っている。
「……あのさぁ」
 英介の第一声を待つ間の雑談は途端に途切れ、四つの視線が英介に向いた。
「今日、告られた」
 江口家に混乱を呼ぶ報告は、長兄の手から箸と茶碗を落させた。

シスター


 江口英介が通うK高校は、過去に芥川賞作家を輩出したような文系色の強い学校だった。
 そこに突如表れたサッカー少年はみるみる頭角をあらわして、ついにはユースのサッカー日本代表に召集された。
 そんな人物が注目を集めないわけがない。
 明るく、おごらず、素直で強い。
 彼を慕う人は多くいた。
 だから、
「えっちゃんが告られるなんて、いつものことじゃん」
 妹の反応は素っ気無い物だった。
「「……いつものこと………?」」
 しかし、父と長兄の反応は顕著だった。
 しまったと友里は舌を出す。
 同じK高に通う妹は、有名人な兄の噂をいくらでも耳にする。
 ただ報告の義務はないと、英介のもてっぷりを話題にはしたことがなかった。
 それが家族のためでもあると思っていたし。
「うーん。告白されたのは初めてじゃないけど、今日のはなんか……OKさせられたみたい」
「「「「は?」」」」
 今度は全員が箸を取り落とした。

 家族の勢いにおされつつも、英介は今日の出来事を話し出した。
 放課後の部活前に英介の教室に女の子がやってきて、告白して、キスをされてしまった。
 挨拶や親愛を示すためではないキスは初めてだった。
 呆気にとられているうちに付き合うことになっていたと、英介は腑に落ちない表情のまま報告を終える。
「……キス……」
「されちゃったのか……」
 がっくり項垂れる父と長兄をよそに、母はのほほんと可愛い子なの? と尋ねてくる。
「可愛いのは、可愛いかった、かな」
「誰?」
 尖がった声を出したのは友里だった。
 英介を溺愛する父や長兄を呆れてみるくせに、英介の女性関係に関しては非常にナーバスなのが友里だ。
「……三年の、F組の……、……」
「名前もわかんない女と付き合うことにして、キスまでされちゃったの?」
「いやっ、わかります! 早野幸恵って言う子です!」
 にわかに下がり始めたダイニングの温度に事態の深刻さを理解した英介は、冷汗が伝うのを感じつつ報告した。
「……早野、ユキエ……」
 ぎっしり寄った眉間の皺。
 半眼気味になった眼差しが空を睨む。
 こういう表情は、英介よりも友里の方が迫力がある。
「ど、どんな子なんだ、友里!」
「いい子かっ? いいお嬢さんなのかっ?」
 詰め寄る男性陣にぎっと眼を飛ばして、友里は英介に向き直る。
「付き合うの?」
「え……、だって、もう付き合うことになっちゃったし。俺、サッカーしてるから時間ないよって言っても、それでいいって言うし。デートもしなくていいから、とにかく付き合ってって。なんか、知らない間にそうなっちゃったんです……ケド」
「じゃあ、好きじゃないのね」
「……ちゃんと話したの今日が初めてだし。可愛いとは思ったけど、まだ好きじゃない、デス」
 一生懸命英介が説明したのに、友里の反応は「ふぅん」だった。
「…………駄目ですか、友里ちゃん……」
「べっつにぃい。駄目とは言わないけど、気にくわないわ」
「……問題がある子なのか?」
「さぁね」
 さぁねって返事じゃないですけど。
 言い募ることはできず、勲は口を閉ざした。
 早野幸恵ちゃんに問題ありなのか、英介に彼女ができること自体が気に食わないのか判別し兼ねる。
「えっちゃんが本気じゃないならいいわ、別に」
 そう言い残した長女は、不機嫌なオーラを纏わせたまま食卓を後にしたのだった。


 江口英介に彼女ができたと言う情報は、瞬く間に広がって翌日には学校中知らない者はいないほどだった。
「スキャンダルみたいだな」
 複雑な表情を見せる英介の前に、サッカー部の部長を務める笹岡が座る。
「なにが?」
「早野とのコト」
 自覚ないんだなと、笹岡は笑いながら弁当を広げ始める。
「お前が前から早野のことを好きで、はっきりしない態度に焦れた早野が告白してやったってことになってますけど?」
 はぁ? と顔が歪むのを見て、笹岡はやっぱりと納得する。
 この友人は隠し事ができない性質だ。
 好きな子がいるのなら、わからなかったわけがない。
 随分と脚色された噂が流れたものだ。
「ササは、早野ってどんな子か知ってる?」
「お前の彼女だろ」
「……彼女って言われてもなぁ。なんか流されちゃったから断った方がいいかもって思ってんだけど」
 珍しく難しい顔をしている英介は、笹岡に恋愛の相談を持ちかけているつもりらしい。
 噴出しそうになるのを堪え、笹岡は相槌をうつ。
「やっぱ、こんなんじゃないよなぁ。付き合うって。俺、早野さんのこと好きじゃないし」
 重い溜息。
 今までの告白は上手くかわしてきたのに、早野の強引さには負けてしまったらしい。
 彼女よりもサッカーという理由で交際の申し出をかわしてきた英介には、まだ女の子との付き合いはピンとこないようだ。
 高校生にしては初心すぎるけれど、英介にはまだ早いのかもしれない。
 代表のユニホームに袖を通すという夢を叶え、これから更なる高見を目指すストライカーは、今はサッカーに恋していればいい。
「それに、友里がすっげぇ怒ってた」
 自分の気持ちよりもそれが最大の問題であるかのような英介の口ぶり。
「友里ちゃんが?」
 笹岡も意外そうな顔をする。
 英介の一つ年下の妹は、ませていると言うかクールと言うか。
 そっくりな顔立ちからしても、兄妹というよりは双子にも見える。
「声上げて怒るわけじゃないけど、機嫌が悪かった」
「勲さんじゃなくて?」
「勲兄はびっくりしてた」
 ショックで石化する様が目に浮かぶ。
「だいたい、友里って俺が女の子と仲良くするの、嫌がるんだよな」
 クールに見えてわがままなところがあるらしい江口家の末っ子は、兄をとられるのが嫌なのかもしれない。
「友里ちゃんもお兄ちゃん子なんだな」
「可愛いだろ」
「お前もシスコンだなぁ」
 熱烈な兄弟愛に、最近は笹岡も慣れてしまった。
 最初は戸惑いまくったが、この頃は微笑ましく聞いていられるようになった。
 この強烈なまでの兄弟愛、家族愛が、ピッチ上の英介の半端じゃない力になっているのだから。
「でもあんな怒った友里は滅多にみないから、早野さんはひょっとしたら物凄い悪女じゃないのかって想像したりする」
 早野幸恵は可愛い。
 今時の女子高校生という印象ではあるが、ちょっと飛びぬけて整った顔をしている。
 大きな目と上手なメイク。
 以前、ファッション雑誌に載ったこともあるらしい。
「いろいろ話しは聞くな。遊んでるのか恋多きタイプなのかわかんねぇけど、高校入ってからでも付き合った男の数は……」
 目の前で笹岡が折り曲げていく指が右手から左手にうつったところで、英介はストップをかけた。
「俺、ひょっとしてやべぇの彼女にしちゃった?」
「しちゃったかもね。せいぜい食べられないようにね。お兄ちゃんも友里ちゃんも悲しむよ」
 英介は天井を仰いだ。
 きっぱり付き合えないと拒絶してしまえなかったことを後悔しているのだろう。
 ようやく順風に乗った英介の高校生活にも、どうやら暗雲が立ち込め始めたらしい。


 メールの着信音が鳴る。
 携帯に伸びた手は、持ち主の手ではなく友里の手だった。
「え、と?」
 空で止まった英介の手は、行き場をなくしてうろうろと彷徨い、弄る気のなかった自分の髪の毛を梳いた。
 パカリと開いた携帯電話。
 厳しい顔でチェックすると、
「高山さんから」
 人の携帯を勝手に見たことへの悪気など微塵も感じさせない。
「……はい」
 だから英介も抗議できず、差し出された自分の携帯電話を受け取った。
 メールはサッカー友達の高山からで、ざっとそれに目を通していつもの調子で返信した。
 そして機嫌の悪い妹を盗み見る。
「友里ちゃん、機嫌悪い?」
 ピリピリした空気を発する妹におずおずと問い掛けると、友里は捲っていた雑誌を閉じて英介に向き直った。
「ごめんね」
 そして意外な一言を口にする。
「えっちゃん、来週から代表合宿でしょ。大事な時なのに、変なヤキモチ妬いてごめんなさい」
 妹に見えない妹がしおらしくしている。
 驚きつつも嬉しさは隠せない。
「ばか、何言ってんだよ。嬉しいよ」
 ソファに横たわっていた体を起こすと、いそいそと友里の正面にやってくる。
「大事な時だろうが何だろうが、友里が負担になることなんてねぇよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。だって、俺の大事な妹じゃん」
「うん」
 コツンと額を突き合わせ、英介は友里が微笑むのを見届ける。
「合宿、がんばるからさ」
「うん」
 しっかり笑顔になった友里が、そっと英介の額に口唇を寄せた。
 至近距離で微笑み合うそっくりな兄妹に、
「なんで俺にはしてくれないのに、英介にはそーゆーことするんだ……」
 仕事帰りの長兄が詰め寄った。
「あ、おかえり」
「おかえりなさーい」
 これ見よがしに友里が英介に抱きついた。
 思春期も年頃も感じさせない仲の良さはけっこうだが、他人が見ればカップルにしか見えないだろうし、兄妹だとわかっても仲が良すぎる。
 まったくけっこうなことだが、仲間外れにされる長兄には面白くない。
 歳の離れた長男が小さな妹や弟を可愛がるのはわかるが、一番下の妹が年子の兄をこうまで慕うのは珍しい。
「仲がいいことは美しいことって、昔の人も言ってるじゃん」
 よく似た可愛らしい二対の瞳が見上げてくるのに負けて、勲は肩を落しながら自室に向かった。
 英介に彼女ができたことは、妹を不機嫌にして兄を消沈させている。
 英介自身も気持ちのない交際をはじめてしまったことに悩んでいたが、それよりも周囲の反応を気にして焦る。
 ちゃんと話をしようと思うのに、肝心の『彼女』の連絡先を知らないし、学校でも会う機会がない。
 放課後は部活に専念するため時間もない。
 曖昧なまま、一週間が経っていた。


 友里にとって勲は、多少の我侭も許してくれていざと言う時は守ってくれる大きな存在だ。
 例え普段の扱いが粗悪であろうが、勲を頼りにする気持ちは幼い頃から変わらない。
 もう一人の兄は、ちょっと違った。
 友里が物心つく頃には、英介はサッカーと出会い、どんどんやんちゃになっていた頃だった。
 勲とは違いたまに喧嘩もしたけれど、友里は英介が好きだった。
 それはひょっとしたら、宝石や花や景色を見て綺麗だと思う気持ちと同じものかもしれない。
 ひたむきな英介の瞳が綺麗だと思っていた。
 キラキラしてるから。
 すぐに涙ぐむくせに、真っ直ぐ前を向いているから。
 英介自身が、幼い友里の宝物になった。
 思春期を迎えてもその想いは変わらなかった。
 そして迎えた、悲劇の時。
 英介が十四歳。友里は十三歳だった。
 病院からの一報は、家族を混乱させた。
 駆けつけた病院の白い廊下で項垂れた勲の姿。
 ゆっくりと立ち上がった勲のシャツについた血液。
 本当に英介が事故にあったんだと認識した。
 そしてその怪我は、ひどいのだと。
 血が流れるくらいに。
 なんだかんだと頼りにしていた長兄が、取り乱すほど。
 このまま英介が死んでしまったら。
 目の前の光景は容易にそれを想像させ、友里を震えさせた。

 英介は目を覚まし、生まれ変わる。
 そこ以外にありえないのだと、プロを目指し始めた。
 高見を目指すための、プレー。
 無邪気な笑みよりは不敵な笑みを浮かべる方が多くなったピッチの上で、英介は前へとひた進んだ。
 誰かの目に止まるためのプレー。
 呼ばれるためのゴール。
 飢えたようなサッカーも、悪くないと自然と思えた。

 そして、友里はますます英介を好きになる。

 チャンスを掴み、青いユニホームを纏うことを許された英介の姿。
 英介が初めて呼ばれたヤングジャパンの代表戦はアメリカで行われ、一家は息子の晴れ姿を記憶に焼き付けるために渡米した。
 荘厳な入場曲が流れ、ゲートから選手が入場してくる。
 一際小さな選手が出てくる。
『来なくていーよ。起用されるかどうかもわかんねぇのに。アメリカまで行って出れなかったら無駄足だよ?』
 出発前にそんなことを言っていた彼が、十一番を背負っている。
 英介が代表入りするずっと前からレギュラーだった選手を押し退けて、彼がエースナンバーを背負っている。
 ゲートから顔を出し、ホームアメリカのブーイングとアウェイ日本の少ないが大きな歓声を浴びる。
 喜びに満ちた顔をしているだろうと思った英介の顔は、闘争心を瞳に秘めた冷静な表情だった。
 家で見る顔よりも、学校で見る顔よりも、校庭で見る顔よりも、ずっと男らしく大人に見えた。
 驚くほど似合う、深い青。
 整列した選手達に比べれば小さな体のはずなのに、友里には大きく見えた。
 国会斉唱の間、目を閉じる。
 一つ年上の兄は、あんなに精悍な顔つきをしていただろうか。
 事故の傷痕は青いストッキングで隠されていたけれど、そこに確かに存在する。
 ゆっくりと目を開けた英介は、どんっと胸のエンブレムを叩いた。
 見る見るうちに広がる笑みは、いつもの屈託のない笑顔ではなく不敵なものだった。
 何かやらかしてやろうという野心のみえるそれ。
「いい顔してるな」
 隣で勲が満足そうに呟いた。
 自分が思っていた以上の英介の成長は、友里を驚かせると同時に喜びと淋しさを感じさせた。
 一家の周りには日本サポーターが大勢駆けつけていて、選手に声援を送っている。
 新参者の英介にもゴールを期待する声がかけられる。
 それに、少し、嫉妬した。
 何も知らないくせに。
 えっちゃんの頑張りなんか知らないくせに。
 そんなことを思って、涙が出た。
 大好きな兄は、遠くへ行けるだけの力を手にしたのだ。
 気合の声を上げ、英介は肩を組み円陣をつくりあげる一員となる。
 同年代の選手達と真剣な顔で一言二言交わし、センターサークルに入る。
 キックオフの笛を待つ数拍の間の英介の深呼吸音を、友里は白熱するスタジアムで聞いた気がした。


「あれ、私のカレシ」
 耳障りな声を、友里は背中で聞いていた。
 すごいじゃんと言う騒がしい声も、背中で聞いていた。
「友里、やめときなよ」
 目の前では親しい友人が心配そうな表情で、ファーストフードのポテトを摘んでいる。
「だって、むかつく」
「お兄ちゃん、相手にしてないんでしょ。だったらいいじゃん。ほっとけば」
 ね、と友は説得する。
 放課後から数時間。
 日は長いが、時計の針は正確な時間を刻んでいる。
 そろそろ兄の定めた門限だが、友里はまだまだ立ち去るつもりはない。
「穏便には済みそうもないね」
 友里の座った目を見た友人は、肩を大袈裟に上下させる。
「気の済むまでやんなさい。付き合ってあげるから」
 こくりと友里は頷く。
 友里は大人っぽいようで、妙なところで子どもが駄々を捏ねるような言動をし始める。
 同性からの人気があるのはそのせいかもしれない。
 できるはずの計算を、友里は時々自ら放棄するようなことをする。
 それは、今のように家族が絡んだ時が多いのだけれど。
「本当にえっちゃんのことを好きなら私だって考える。だけど、他にも別れきれてない男が大勢いて、それでえっちゃんをアクセサリーみたいに扱うなんて許せない」
 友里の背後では、早野幸恵と他校の友人らしい女子高校生がお喋りに興じている。
 珍しくもない風景だが、その会話の内容がいけない。
 友里の神経を見事に逆撫で、刺激する。
 とてもとても、大切な存在。
 彼はただ真っ直ぐに、ボールを追いかけていればいい。
 余計なことにはもう巻き込んでほしくない。
 ただ彼を、守りたいのだ。


 遅くまで変なことにつき合わせてごめんねと、友人の家の前で別れた。
 門限はとっくに越えた。
 きっとみんな起きて心配しているだろう。
 携帯電話は……門限三十分前から煩く鳴るのでオフにしたままだ。
 帰ったら、きっと勲が泣きそうな顔をして出迎えてくれるだろう。
 それから父は新聞越しにほっとした表情を見せて、母は遅かったのねと笑ってくれる。
 もう一人の兄は、どうだろう。
 どんな反応を見せるだろうか。
 勝手に定められた門限に不平は零しているが、連絡をしないで破ったことは一度もない。
 コツコツとアスファルトに響くローファーの音に、もう一つの足音が重なった。
「友里!」
 俯き加減の早足で家路を急いでいた友里の耳に、悲鳴のような安堵のような呼びかけがはっきり聞こえた。
「……えっちゃん」
 薄暗い街灯の下に立っていたの英介は、呼吸を整えながら友里に駆け寄る。
 駆け寄って、友里の髪の毛が濡れていることに気付くと血相を変えた。
「どうしたんだよっ」
 慌しく自分のポケットを探るが、ハンカチなんか出てこない。
「平気。ちゃんと拭いたし。友達とお茶してたの。そしたらお店の人が躓いて、水かけられちゃった」
「……本当に?」
「本当」
「……いじめられたり、してない?」
「してないよ」
 やっと安心した表情を見せた。
 心配で、迎えに来てくれたのだろう。
 勲ほどではないが、英介もシスコンめいたところが存分にある。
 烏龍茶をかけたのは、早野幸恵だった。
 ココアをかけてやったのは、友里の方だった。
 顔を真っ赤にさせて先に退席したのは、早野幸恵だった。
 よくもまぁあそこまで人の欠点を的確にあげられるものだと、事が終わるまで付き合ってくれた友人は呆れていた。
「ねぇ、早野さんとは上手くいってる?」
「は?」
 こんな時に何を、と顔に書いてある。
「いいから。上手くいってるの?」
 英介はあー、と言いにくそうにしてから、素直に暴露した。
「さっき、メールがあった。俺がサッカーしかかまわないから付き合いきれないって」
「ふぅん」
 帰ろうと、英介の真横に並んで家へと歩き出した友里の口唇に乗った笑みは、すぐに消えた。
「ショック?」
「べっつにー。あんまり、タイプじゃなかったし」
 並んだ英介の背は、一度は友里に追い抜かれ、今はまた友里よりも高くなっている。
「ね」
 足を止めた。
「んー?」
「おんぶして」
 英介も歩みを止めて、振り返る。
 驚いた顔をしてから、すぐに笑顔になった。
「いいよ」
 ホラと向けられた背中に乗っかった。
 すっと持ち上げられた体を支える英介は、力強かった。
 友里の方が低いと言っても十センチも差はない。
 それなのに、軽々と友里を背負う。
 広くはないが温かい背中に頬を摺り寄せた。
「足、もう痛くない?」
「ぜーんぜん。痛かったら、代表なんて呼んでもらえないよ」
「あんまり、遠い人にならないで」
 ぽろりと零れ落ちた本音に、英介の背中が振動する。
 笑っているのだ。
「それで最近、ご機嫌斜めだった?」
 友里は答えない。
「俺は、まぁプロになって代表常連な選手になる予定だし、海外も目指してるけどさ、どんなすげぇープレーヤーになっても、友里の兄ちゃんで、勲にぃの弟で、父さんと母さんの息子だよ」
 茶化しながら英介は真面目な言葉を続ける。
 そっと友里の体を揺すり上げながら。
「俺はみんなに助けてもらったし、自分のためだけじゃない、家族や周りの人に喜んで欲しくてプレーできる。サッカーする喜びを倍にしてもらってる。俺、サッカーとか運動しかできることないけど、俺にできることがあったら、なんだってするよ。お前がピンチの時は、いつだって駆けつけてやる」
 きっとピンチから救ってくれる。
 確信を抱かせる力強い体。
 嘘も隠し事もできない兄の性分。
 説得力のありすぎる言葉に、友里は小さな嗚咽を漏らした。
「俺、一応お前の兄ちゃんだからさ。心配するし、守ってやりたいし、かわいーんだよ」
 勲にいと同じこと言ってるなと照れ隠しをして、ポンポンと友里を背負ったまま数度低く跳ねた。
 その振動に思わず友里が吹き出す。
「門限破った理由は、俺とデートしてたからってことにしてな」
「え?」
「部活終わって、友里がまだ帰らないって勲にいから電話があったから、俺と一緒にいるって言っちゃった。そんで、そこの公園でお前が帰ってくるの待ってた」
「えっちゃん……」
「勲にい、すげぇヤキモチ妬くと思うから、帰ったらご機嫌とりしようなー」
「……うん」
「そんで、今度、兄ちゃんとデートしてな」
「……ん」
 やっぱり、英介はお兄ちゃんだった。


 あれから、何年経っただろう。
 恋も愛も、一生知らないまま生きていくんじゃないかと思っていた兄に大切な人が出来た。
 毎週テレビで確認するピッチ上の兄に、激しく照れながらゴール後のパフォーマンスとしてキスをしていた高山のそれが、どうやら罰ゲームのせいだけじゃないと知った時、友里は何故だか納得してしまった。
 あのどこか不器用そうな青年があんな大胆なマネをできる相手なんて、特別なポジションにいるに決まっていると思っていた。
 兄の大切な人は、ずっと兄の傍にい続けることを誓ったらしい。
 勿論、サッカー選手である二人だ。
 離れることはあるかもしれないが、帰る場所は一つだと確認しあった。
 友里がそれを知ったのは、英介の左手に光るアクセサリーを見つけたから。
 アクセサリーなどしたことのない英介の左手に、銀色の指輪。
 繊細すぎず、ハードすぎず。
 幅が広めのそれは、男である英介の手にしっくりと馴染んでいた。
「えっちゃん、どうしたの、これ」
 尋ねた瞬間、英介の顔が真っ赤に染まった。
 本当に、湯気が出るんじゃないかと思うくらいに。
 何があったのか、全部理解してしまった。
 言葉以外にも英介は色々ともらったらしいし、色々と奪われてしまったらしい。
「高山さんにもらったの?」
 わかりきっていることを確認すれば、英介は羞恥のために涙すら滲ませてコクンと頷く。
 それを見た母が、お赤飯を炊かなければと歓声を上げ、兄がどうしてそうなるんだと嘆いている。
 父は、複雑な顔をして花切りバサミを手に庭に出た。
「ねぇねぇ、なんて言ってもらったの?」
「そんなん、言えるか、ばかっ」
「見せてよ、どんなのもらったの?」
「やだよ! 俺、ちょっと走ってくる!」
「逃げないでよ、えっちゃん!」
「うるさい! リベロ、行くよっ」
 項も耳も真っ赤にした英介は、愛犬を伴い逃げるように出て行った。
 まだ居心地悪そうに英介の指を飾るシルバーリング。
 家族に気付かれて、驚かれたり説明を求められることを覚悟しながら、英介はそれを外さなかった。
 外せなかった。
 美人の熱烈なアタックに、よくわからないと首を傾げた兄が恋をした。
 愛を知った。
 蕩けそうな笑顔を見せて、切ない横顔を見せて。
 その顔のどれもが素敵だと友里は思う。
 幼い頃からの宝物は、人のものになってもやっぱり綺麗だった。
「なぁ」
「ん? 忘れ物?」
「や。変なこと聞かないんなら、友里も散歩、行く?」
「ん、行く!」
 そして、変わらず友里の自慢の兄なのだ。


シスコン、ブラコンが副菜的に添えられているのが好きなんです。

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