SMILE



 風も少なく日差しも柔らかな外出日和 のカフェテラスは、平日というのに盛況だ。
 客層は主婦らしい女性ばかり。
 あちらこちらから明るい笑い声が上がっている。
 その光景を見て、高山は目的地へと進むスピードを緩めた。
 おいおい、大丈夫かよ。
 口の中で呟いて、待ち合わせの約束を交わした相手の姿を探す。
 テラスに置かれた大きな観葉植物の隣。
 周囲と隔てられている席ではないが、座ってみれば周りの声も視線も少し遠ざかるようなテーブル。
 綺麗な亜麻色の髪の毛と、ゆったりしたスカートの後姿。
 色味こそ地味だがそれなりのブランド物で、何よりその人によく似合っていた。
 男を斬って捨てるキャリアウーマンから良妻賢母、艶やかな花魁にもなれる大女優の本日の役柄は、子育てからも解放されて自分の時間をようやく得た主婦といったところか。
 彼女の仕事の拠点は東京で、帰る場所は広島にある。
 この神戸の街はたまに訪れるだけなのに、彼女はこの街の住人であるかのように風景に溶け込んでいた。
 客たちが彼女の正体に気づいた様子はない。
 みんなお喋りに夢中なのだろう。
 変な騒ぎにはならないだろうと踏んで、高山はテーブルに近づいた。
 案内に出てきたウェイターを制し、コーヒー一つと短くオーダーを告げた。

 足音に気づいたのか、彼女が軽く振り向く。
 フレームのある眼鏡の奥の瞳が、ぱっと輝いた。
「久しぶり」
 逢沢瑠璃子の弾んだ声など滅多に聞けるものではない。
 そしてノーメークに近い顔も。
 高山は、ただ頷いて向かいの席に腰を下ろした。
 店内にいる人間誰一人として、ここにいる女性が女優の逢沢瑠璃子だと気が付いていない。
 高山自身もプロスポーツ選手としてそこそこ顔が売れているのだが、誰も高山に気づいた様子はない。
 不安と緊張を少しずつ解いて、高山は切り出した。
「忙しい?」
「ちょうどドラマ撮影が終わったところだから平気。浩二が話しがあるって言い出したの、二回目ね」
 ぽってりとした口唇が嬉しそうな弧を描く。
 口紅のコマーシャルの女王様は、息子が改まった話をすると言い出したことが嬉しいらしい。

 一緒に暮らしたことがない実母の存在を、高山はいつも少しだけ不思議に思う。
 幼い頃、友人たちの家庭と比べて不満を募らせたこともある。
 それが苛立ちに変わったこともある。
 しかしそれを、母にぶつけることはなかった。
 年に会えるのは片手で数えるほどだったが、顔を見るたびに溜めていた不満も怒りも消えていく。
 自分の顔を見るたびに、この女性が心底嬉しそうな顔で笑ってくれるからだ。
 遠く離れた場所から自分のことを心配し、気にかけてくれていたのを感じることができた。
 不満がなかったと言えば嘘だし、完全に心を開いているとも言い難い。
 けれどこの女性は自分の大切な人だとは思っている。
 だから、伝えなければならないことがある。

「一回目は神戸の入団を決めた時だったわ」
 懐かしそうに目を細めると、綺麗な笑顔になる。
 この笑顔に弱いのだ。
 愛されているという実感は、心地よい。
「初めて浩二から話があるって呼び出されて、正一さんと二人ですごーくドキドキしたのよ。球団を決めた相談か報告か、それとも大学進学かな、いや彼女ができたんじゃないかって、二人で想像したのよね」

 離れて暮らす母を呼び出したのは、高校三年生の夏の終わりだった。
 多忙だった母も、初めての息子の呼びかけに応じて帰ってきてくれた。
 改まって告げたのは、サッカーとともに生きる決意だった。
 プロ生活の第一歩を踏み出す場所として選んだのは、神戸レインボーチャーサー。
 事後報告だった息子の選択に、両親はただ頷いただけだった。
 どんな悩みも誰かに相談するのは苦手だった。
 弱い部分を晒す内に、秘密である母親のことまで言葉にしてしまいそうで、できるだけ言葉少なに過ごしてきた。
 だからいつも事後報告になる。

「だから今日もドキドキしてる」
 自分の胸を押さえて、深呼吸してみせる。
「はい、覚悟できたわ。なに?」
 居ずまいを正しながらも、その表情は楽しそうだ。
 この笑顔が崩れる様子を見なければならないのかと思うと、気が滅入るが。
 彼女の笑顔を守りたくてたくさんの言葉を飲み込んできた。
 その我慢を無駄にしてもかまわないと思う人ができた。
 これからは、あの笑顔を守っていきたい。
 守られてみたい。
 一世一代の親不孝に踏み切るだけの覚悟を決められる人と、出会った。

 好きな人が出来たのだと、簡潔に告げた。
 簡潔すぎる言葉だったが、それ以上にどう言葉を飾っていいのかわからない。
 これまでにも何人かの女性と付き合ったが、わざわざ母親に報告するような付き合いではなかった。
 最後だ。
 これで。
 もう他の誰かに恋愛感情を抱くことなんてない。
「誰って、聞いてもいい?」
 母親は柔らかい表情のまま、囁くように問いかける。
 控えめな声に、緊張が滲んでいる気がした。
「……あー、エースケ」
「え?」
「江口、英介」
 カミングアウトとはこう言うことか。
 気まずさを隠せず、高山は母から目を逸らした。
 女優としての怒った顔や泣き顔や、嫉妬に狂った顔、ベッドシーンを演じる顔、色んな顔をテレビ画面越しに見てきたが、母親としての逢沢瑠璃子の表情で高山が知るのは、柔らかく微笑んでいる優しい顔しか知らない。
 自分のために怒ってもらうほど一緒にいることがなかった。
 悲しんだり泣いたりしてもらうほど、心配をかけた覚えもない。
 その関係を崩してもかまわないと思った。
 そういう相手に巡り会ったのだ。
 今ならば、周りの反対を押し切り孤立してまで共に生きることを選んだ両親の気持ちがわかる。
「そう」
 悲壮な気持ちを噛み締めていた高山の耳に届いたのは、予想外にもあっさりとした母親の相槌だった。
 思わず顔を上げると、嬉しそうに口唇を綻ばせた表情があった。
「良かった」
 そうして心底安心したようにそう声をかけられて、どう反応していいのかわからなくなる。
「愛せる人と巡り会えて。それから、愛してくれる人と出会えて」
 それはともて幸福なのことよと、彼女は言う。
「あっちは、どこまで本気で考えてるのかわからないけど」
 気恥ずかしさが沸いてきて素っ気無い言い方をすれば、照れちゃってと笑われる。
 母の浮かべる表情の全てが、もう一度問い直さなくてもいいのだと教えてくれる。
 本当にいいのか、許してくれるのかと、そんな確認は不要なのだと。
 ひょっとしたら、母親と言う立場よりも一人の女としての立場を優先させてきた自分に、息子の恋愛に口を挟む資格がないとでも思っているのかもしれない。
 母親を好意的に思っているくせに、距離感はなんとも微妙。
 おかげで人間関係の構築が不得手になっていた自分の懐に無遠慮に入り込んできて、外の世界とのつながりを持たせてくれたのが英介だった。

「……まぁ、そういうこと。で、お袋達の事はいずれ言うつもりだけど、まだ待つから」
 英介には両親が離婚したことは伝えてある。
 まさか母親が女優だとも、今も普通に母子として接しているなど夢にも思っていないだろう。
「ごめんね」
「なにが」
「江口くんにまで、隠し事をさせて。……ねぇ、言ってもいいのよ?」
 さっきまでの微笑みは消え、痛みを抱えるような視線を向けられれば自分にはもう何も言えなくなるのだ。
「俺も、時期を見るから気にしなくていいよ。表に出した時に、俺のことで少し騒がれるかもしれないから、それだけ知っといてくれたら」
 それでいいからと言い切って、高山は冷めかけたコーヒーを飲んだ。
 尚も言い募ろうとした瑠璃子も、小さな溜め息を一つついて話題を変えた。
「江口くんは、どんな子?」
「見たまんま」
 即答すれば、面白くないと魅力的な口唇を尖らせる。
「怒らせると、怖い」
 一つ暴露話をすれば、想像できないと首を振る。
「眉間に皴寄せて、なんか、ちょっと元ヤンっぽい。喧嘩も強い」
「負けるの?」
「五分五分」
 今度は声を上げて笑った。
「一緒にいて、楽しい?」
「……楽しいよ。喧嘩もするし、サッカー優先だし、他とは違うかもしれないけど」
 楽しいと、噛み締めるような言葉が溢れた。
「お袋の前でこんなこと言うと、責めてるみたに聞こえるかもしれないけど、あいつが俺のことを一番理解して、踏み込んできてくれる気がする」
 言い訳じみた前置きに、母は痛みを隠すように目を細め、静かな相槌を打ってくれた。
「いつか、江口くんともゆっくり話しが出来たらいいな」
「連れて行くよ。俺も、会わせたいから」
 夢を見るような口調で呟くから、近いうちに叶う望みなのだと伝えたかった。
「俺は英介の家族のこと好きだから、英介にも同じように思ってもらいたいし」
 言っているうちに恥ずかしくなって、語尾はコーヒーカップの中に消えた。
 いつか、江口の家の人たちと自分たちとが賑やかに時間を共有する時がくる。
 それは胸が詰まるような、楽しい想像だ。
 出会いを重ねても大切な存在を作ることのできなかった自分に、どんどん大切な人が増えていく。
 自分の環境が心地よく安らげるものになっていくことに鈍感だった高山も、最近ではちょっとした変化を幸福に思えるようになった。

 変わったのねとしみじみ言われ、何と応えたら彼女を傷つけないだろうかと思っていると胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
 断りを入れてから通話ボタンを押すと、
『今、いい?』
 珍しく控えめな英介の声が聞こえてきた。
「どうした?」
『帰りにさ……』
「モロゾフのプリン?」
『なんでわかんの?』
「お前がわざわざ電話してくるなんて、それくらいしかないだろ」
『愛してるよーって、伝えようと思って』
「真実味に欠ける。喜んでパシリに甘んじるよ」
『やった。もー、マジで愛しちゃってます!』
「うるせぇ、ばか」
 笑いながら電話を切ると、目の前で母が満面の笑みを浮かべていた。
 誰からの電話とも言っていないが、察したのだろう。
「かーわーいー」
「誰がだよ」
「どっちも」
 勘弁してくれと、笑うことができた。
 隠し事ばかりが増えていく自分に嫌気が差していたが、今日、彼女に告白できて良かった。
 距離が少しだけ縮まる。
 そのことが嬉しいと思えた。
 ちらりと腕時計に視線を落とした仕草を見逃さず、高山はそろそろ帰ると告げる。
「浩二」
 腰を浮かせかけたところで名前を呼ばれ、どきっとした。
 自分のことを名前の呼び捨てで呼ぶ人は、そうそういないのだ。
「幸せに、してあげてね。それで、あなたも幸せになってね」
 どこか必死な響きを感じ取ってしまった。
「俺もあいつも負けず嫌いだから、大丈夫だろ」
 安心させたくて笑ってみせたその表情は、どんな風に映っただろう。
 いつか彼女と再び手を取り合い生活する日を待つ、自分に似た中年男が浮かべる表情と似ていればいいと思いながら、帰途へと向かう。
 柔らかな日差しの中で微笑む大女優の微笑は母親のそれで、自分の幸せを願ってこんな風に笑ってくれるこの人の子どもに生まれて良かったと、生まれて初めて思った。
 甘く柔らかなプリンを土産に帰ったら、自分の最愛の人はどんな笑顔で迎えてくれるだろうか。
 想像したら自然と笑みがこぼれてきて、高山はこっそりとキャップの鍔を引き下げた。


たまには高山家の一コマを。「悦楽と疼痛のバランス」よりも前の話になります。

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