「ウッチ―まだぁ?」
「まだだ」
「早く早く」
「……手伝えよ」
それなりの稼ぎはあるはずなのに、いつまで経っても狭い狭いワンルーム暮らしの矢良薫の部屋のテレビは、いつもよりボリュームをあげてある。
普段は使われない狭い台所では、内田が料理している。
料理と言ってもキムチ鍋。
ただその味付けに拘りをもつ四十過ぎの独身男は、テレビの前で箸や取り皿を並べるといった手伝いもせずにコタツに潜っている友 人を叱りつけ、どうにか食事の準備を終えた。
鍋をカセットコンロの上に置いて時計を見上げると、どうにか間に合ったようだ。
今日の食事準備は七時までに間に合わせなければならなかった。
「お、きたきたー」
矢良が興奮気味に身を乗り出してテレビに見入る。
横浜の夜景の中、一際明るく照らされたスタジアムをヘリコプターからカメラが映し出している。
アナウンサーの煽るような声。
内田も、自分の目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
まだアルコールも入っていないのに、体中の血が騒ぐ。
『では、今日の解説陣をご紹介いたしましょう。解説は元日本代表でフォワードとして活躍されました、市井さんにお越しいただいています』
『どうも、こんばんは。よろしくおねがいします』
「はい、きたよ〜、ある意味俺らのストライカー!」
パンと矢良が手を叩いた。
「なんか焼けてるな、こいつ。ハワイ焼けか」
カメラに向ける笑顔も様になっている元同僚の喋りを、こうして茶化して聞いていられるようになったのも最近だ。
市井が解説者としてリスタートをきった当初は、見聞きしている方が不安で、いつ阿呆なことを言い出さないかと緊張しっぱなしだった。
凝った言い回しをしようとして、数々の迷言を生み出していたが最近はそれもない。
「頼むよ、イチ。盛り上げていこうぜー」
「高視聴率はお前の喋りにかかってる!」
画面越しの茶々が聞こえたのかどうなのか。
さっそく市井は相手側の注目選手の名前を噛んだ。
それに爆笑して、一旦コマーシャルの間に合掌していただきます。
今日は日本代表戦。
親善試合の相手になってくれたのは、サッカーの母国だった。
器用な男だ。
内田は思う。
ワンサイドゲームも最悪の場合予想されたが、A代表が見せる粘りと大胆さがゲームを面白くしている。
だから目が離せない。
離せないから鍋の中に箸を突っ込みにくくなっている。
それなのに。
ゲームが途切れる合間に鍋の中を覗くと、もう半分ほどになっている。
同じようにテレビに釘付けになっているはずなのに、矢良の箸と胃袋だけは活発に動いているらしい。
暫らくゲームではなく矢良の手を観察してみた。
顔は画面に向いたまま、手だけが上がる。
鍋の中に突っ込まれた箸は適当に見える動きで、しかし正確に牡蠣やら白菜やらを掴み出て行き、矢良の取り皿に移動した。
そこからさらに矢良の口の中へと移る。
この男に二人羽織りの後ろの役をさせたら、さぞかし面白くない演芸になりそうだ。
「……っ、いけ! いける! いけって! シュート! いきゃあいいんだ! 大丈夫だ、打て! 打っちゃえ、真吾! ゴール! 入ったー! っしゃー!」
余計な観察をしていたら、大事なシーンを見逃してしまった。
矢良が頭上に突き出した拳を開いて、内田の方に向ける。
条件反射でハイタッチは交わしたが、愕然とした内田の表情を見逃す矢良ではなく、
「ばっかでー。見逃したのかよ。食い意地張るからだ」
コーチ失格の烙印をぐいぐい押してくる。
いつもは屈託だらけの男なのに、こういう人の神経を逆なでするタイミングでだけ無邪気なのはこの男の損な部分だが、そういうとこ ろがあると理解する人間が回りにいるのは得なところだ。
精一杯の友情を無言の態度で示してやっているうちに、矢良の意識が再びテレビに向く。
「皿寄越せ」
「んー」
受け取った皿に具を入れて、上から一味をしこたまふりかけて差し出した。
「ほらよ」
「おう、さんきゅ」
一瞬後に響く絶叫。
隙もミスも見逃さず、すかさずツッコミ。
ここもまた、ある意味でピッチの上なのかもしれない。
涙目でのたうち回る矢良の姿の向こうでは、青いユニホームの選手が緑のピッチでボールを追いかけていた。
2005/10/22
鍋の季節です。
薫センセイは人気がありまして、薫センセイと市井の話をと嬉しいリクを多々いただいております。内田コーチはまだ地味目ですが、出張ってみました。四十路の友情です。