緩急をつけて相手を惑わし、追い抜いていく。
フェイントは江口英介の特徴の一つだったのだが、最近、上回る奴がいることに気付いてしまった。
テレビの旅行番組に鎌倉の紫陽花が映っていて、綺麗だなと呟いたら翌日には紫陽花を見に行こうということになった。
老いたスカイラインの体調を心配しながらなんだかすごい山道を進んで、タカが車を止める。
自然のものなのか人工のものなのか、フェンスも何もないため池があって、その脇の山裾に紫陽花が咲いていた。
人気も車通りもない、本当に本当の穴場。
深い緑に囲まれた紫陽花は濃い紫色。
それが池を囲むように咲いている。
人気はないものの、手入れはされているのだろう。
池の周辺の草は綺麗に刈られていた。
「タカって、何でこういう穴場を知るの?」
「適当に走っただけ」
「俺が迷子になったのも見つけるし、方向に対しての勘がいいのかな?」
一歩進めば足元の土と草が柔らかく沈む。
聞こえてくるのは梢と鳥の声。
緑に抱かれて、心身が浄化されるような感覚を味わう。
「母さんの実家みたい」
「あぁ、ありそうだな。似てるかも」
二人だけで独占するのは勿体無いほど鮮やかな紫陽花は、昨日の雨を吸って艶々している。
草木の水気を帯びた色を放っている。
何をするでもない、ただ紫陽花を視界に入れてぼんやりと過ごす時間は心地よい。
木々の合間を吹き抜けていく風は涼しく、色も形も様々な葉が午後の日差しを受けて透き通るように輝いている。
「誰もいないし」
「ん?」
半歩後ろを歩いていたタカが、半端なところで言葉を切る。
何の話かと促す声に、
「手でも繋ぐ?」
真横に並んだタカが続ける。
返事を待たずに俺の手をとらえた。
ぎゅっと俺の手を握ったタカは上機嫌で、気持ち良さそうな深呼吸を一つ。
その横顔を見ていたら、自然と笑みが浮かんでくる。
タカとは美的感覚もテンションも言葉の数も異なるけれど、幸せを感じる器官は似た形をしているのかもしれない、なんて考える。
繋いだ手を見ていると、試合で結果を出せずにピリピリしていた気持ちがじわっと潤う気がした。
思わず強く握り返した手。
タカが反応して、少し視線を落とす。
それがどんどん近付いて、キスをされるのかなと思って目を閉じた。
なかなか触れ合わない体温にまた目を開くと、
「キスでもする?」
意地悪く、そして上機嫌に囁く男の顔が見える。
言いたいことは山ほどあったけれど、最近、どうにも素直になれずにいたのは自覚するところだから。
万感の思いを込めた溜め息を一つついて目を閉じて、踵を上げる。
下手くそなフェイントに惑わされるのは、やはりそこに愛があるから。
そろそろ紫陽花の季節です。二人がデートした場所は私の通勤道にあるのです。紫陽花の紫が本当に濃くて、いつもほっこりする。