一瞬、スタジアムが静まった。
残り時間十分を切ったスタジアムは凍りついた。
ゴール前の混戦。
ゴールマウスを守っていた神尾は飛び出すことを選択した。
ふわりと浮いた体が伸び上がり、頭上へと伸びた手の間にボールはしっかりと収まった。
そこに相手チームのヘディンガーが突進してきたのだ。
激しい空中での接触があり、両者がもつれるようにしてピッチに落ちた。
下敷きになったのが神尾は苦悶の表情を浮かべて体を僅かに痙攣させた。
審判のホイッスルが空気を切り裂くように響いた。
「……どーすんだよ」
呟いたのは見方か相手か。
神戸レインボーチャーサーの交代カードは全て使い切った後のことだった。
「内田、神尾は下げろ。骨折してる! 本人が何と言おうと外に出せ!」
神戸ベンチで矢良が叫び、義足の足を自ら放り投げるようにして一歩踏み出す。
「神尾、出ろ! そんな腕でボールがとれるか、馬鹿野郎!」
もがきながらも立ち上がろうとする神尾に向かって、誰よりも激しい声をかけながら救急箱を担ぎ、走り出す。
交代カードを使い切った神戸には、新しい選手を投入することができない。
できることは、今ピッチに残り神尾を心配そうに見送った十人のフィールドプレーヤーの内誰か一人が、ゴールキーパーになることだ。
経験者はと、監督が尋ねた。
「寺尾が中学一年の時に三ヶ月、高山が小学校五年生の時に半年間」
内田は即答する。
選手のデータはどんなに細かいものも頭の中に入っている。
「センスがあるのはタカですね」
神戸レインボーチャーサーのデータベースが答えると同時に、監督が叫ぶ。
「キーパー、高山!」
まだ戸惑いから抜け出せないスタジアムに響く指示。
神戸イレブンの視線がベンチを振り返り、七番の背中へと移った。
一瞬、驚愕に目を見開いた高山も、この状況で驚いてなどいられないと思ったのかしっかりと頷いた。
駆け足でピッチの外で治療を受けている神尾の許へ急ぐ。
スタッフと矢良に囲まれていた神尾が固く閉じていた目を開き、高山を見上げた。
「タカが?」
高山が頷くと、スタッフから神尾のキーパーグローブが渡された。
試合時間は残り十分、見分けがつくようにとセカンドゴールキーパーの黒いユニホームを借りた。
「枠の中で待ってろ。自分だったらこっちに打つだろうなって想像して体動かせ。あとはディフェンスがやってくれる」
痛みに耐え、悔しさを噛み殺す神尾の目はまだギラギラと輝いていて、高山は奥歯を噛み締めながらそれを聞く。
気を抜けば緊張と不安に体が強張ってしまいそうだった。
小学生の頃、体の大きさだけで判断されてゴールキーパーを任された。
たった半年の経験で、試合に出たのは片手で数えるほど。
失点の数は覚えていないが、あの時の悔しさは覚えている。
「活躍すんなよ」
呻きを飲み込み、神尾は言う。
「あんまり活躍されたら、俺の立場がねぇだろ」
一瞬だけ口角が上がり、笑みをつくった。
「……。はい」
高山には少し大きい神尾のグローブをしっかりと嵌め、高山は返事をした。
その口元が不器用な笑みの形をつくる。
行ってこいと促され、ゴールマウスへと向かう。
時計は相手選手の負傷もあって、止まったままだ。
富永が声を上げ、守備的布陣への変更を急いでいる。
向かった先のゴール裏は相手チーム、大阪ライジングチェアフルの桜色に染まっている。
対極には、両手を腰に当てた状態で事態を見つめている水内純平。
まさかこんな状況で対峙する時が来ようとは。
ゴールマウスから見るピッチはとてつもなく広い。
そして背後の相手サポーターの野次のクリアに聞こえることと言ったら。
迫力ある野次から幼稚な悪口まで、色々なものが聞こえてくる。
ブーイングの声は低く、これを背中で聞くと言うのは物凄い圧力を感じるものなのだと初めて知った。
しかし救いは正面にある。
水内の守るゴール裏を染めた白いユニホームと虹色のフラッグ。
自分の名を呼ぶ頼もしい声。
両手を叩き、グローブを手に馴染ませる。
ゴールキックからのゲーム再開。
渡されたボールを置き、数歩下がる。
神戸選手は下がり気味で上がる気配を見せない中、十一番の背中が相手ディフェンダーとの駆け引きを繰り広げながら前後に移動している。
ターゲットが定まればゴールキックもそれなりの精度を保てそうだ。
ホイッスルを聞いて、ボールを蹴りだす。
いつものセットプレーより長めのキックは、虹に向かって飛んでいった。
決定的なシュートを一本防いだ。
枠に飛んできたもう一本は、ユーキの顔面ブロックで防がれた。
活躍するなと言う神尾の言葉の通りの一失点。
だが、試合は一対一のドロー。
守備に徹した神戸布陣の中で、俊足が武器のFWに全ての攻撃は託され、たった一度訪れた神戸のチャンスをものにした。
攻め込んだ大阪が見せた一瞬の隙をついてのカウンターアタックは、英介の五十メートルドリブルとシュートを許した。
試合終了を迎えると、いつもよりも多くの選手が高山に握手を求めた。
審判も転職するかい?と笑って、高山の黒いユニホームの背を叩いた。
最後にやって来た水内は、面白くなさそうな顔をして、
「散々や」
と、まず愚痴った。
「えっちゃんに入れられるし、お前はなんやエェところもっていくし」
あぁあと、大袈裟な溜め息をつきながら使い込まれたグローブを外し、大きな手を差し出してくる。
「でもお前はやっぱ中盤向きやな。最後尾任されんの、不安やろ」
握り返した水内の手の大きさを、高山は思い知る。
無理やりにでも自信を持って、一番後ろは自分がいるから安心しろと大声で叫ぶ。
ゴールキーパーに最も必要なのは、精神的な強さ。
「見直したか?」
「多少な」
それでも水内相手に素直に認めてやることはできなくて、高山はさっさと撤退しようと歩を進めるが、
「タカ、インタビュー!」
強引な腕にキーパーユニホームのまま連行される羽目になる。
地獄行きの宣告を受けたような高山の表情を指差して笑い、水内はお先にと退散していった。
水内が向かう先は入場ゲートをくぐったばかりの英介で、高山は一瞬でも水内を尊敬した自分を恨むことになる。
本当に尊敬すべき人は、夕食が終わった頃に虹明寮に帰ってきた。
腕はギブスで固定され肩から吊った痛々しい状態だが、表情は暗くはなかった。
腕のいいドクターの説得やら説明が効いたのだろう。
食堂に顔を出すなり、高山に向かって、
「ご苦労さん」
笑いかけてくれた。
「まぁ、ほどほどの目立ちっぷりで安心したぜ、俺は」
くしゃりと高山の頭を撫でた。
今夜のスポーツニュースは高山の即席GKの話題ばかりで、高山のしどろもどろのインタビューも繰り返し放送されていた。
「ユーキも、顔面ディフェンスかっこよかったぜ」
点けっぱなしの食堂のテレビには、顔面にボールを受けて鼻血を拭っているユーキの顔がアップで映し出されていた。
「鼻血出さなきゃ尚良かったですけどね」
「まぁな。でも、よくやった」
ユーキの頭もわしわしと乱暴に撫でて、今日の勝利を誰よりも喜んで見せた。
「うちのチームはいいサッカーするなぁってVTR見てた」
これから暫くの戦線離脱を前に、神尾は自分のチームがいいサッカーをしたと喜んでみせる。
この懐の広さと頼もしさで、神尾はゴールを守る。
時に虹色のサポーターを真後ろに絶大な力を与えられ、時にアウェイカラーの相手サポーターからのブーイングとプレッシャーを浴びながら。
この人に背後を守っていてもらいたい。
そうすれば、自分達フィールドプレーヤーは大胆に攻めあがることができるのだ。
込み上げてくる感謝と尊敬の念を、高山は言葉にできない。
そのかわり、前へと進むのだ。
相手守備陣に切り込み、前へ。
後ろは神尾が守ってくれる。
得点は、俺たちが。
そうしてこのチームのサッカーが、いいサッカーだと言われるように。
自分達自身で、そう思えるように。
2005/6/25
5年の国内リーグで交代枠を使い切ったチームのGKが一発退場になり、急遽FWの選手がGKとなりました。その時の興奮とドラマティックさをBSシリーズで再現(笑)ちょっとタカが格好良すぎですね。