「どうやったらあんな風にボールが曲がるのかしら」
多忙を極める大女優が獲得した安息のオフに、高山正一は寄り添った。
広島のマンションに妻が帰ってきたというだけで、普段未練も愛着も沸きそうにない部屋が一気に華やぎ、安住の地と化す。
主演ではないにしろ、主要な登場人物としてキャストに名を連ねた映画がクランクアップしたばかりの女優は、一時俳優の看板を下ろして妻として存在する。
盛る年齢も当に過ぎ、言葉遊びを繰り返しながら夫婦でいる時間を噛み締めるような休日の途中、彼女がもう一つの顔を出す。
母親だ。
眺めていたテレビではサッカー番組が始まっている。
今日の目玉特集として紹介されたのは、神戸レインボーチャーサーのMF高山浩二のフリーキック徹底分析らしい。
見ればDVDが録画モードになっている。
彼女の口に合うだろうと出張先で記憶して、今日のために取り寄せた日本酒の味もおそらくは朧気にしか感じられていないはずだ。
視覚と聴覚は薄型液晶の中に。
ブーメランの軌道のようなカーブを描くフリーキック、角度などないコーナーからゴールネットを揺らすセットプレー数本が紹介されるのを、食い入るように見つめている。
仕方ない。
アレは彼女が生んだのだから。
「聞いた?」
「何を?」
「浩二の好きな人」
「あぁ、聞いた」
「いつ?」
くるんっと顔がこっちを向いた表紙に、緩いウェーブのかかったロングヘアが揺れる。
その髪の動きが昔から好きなのだと認識しながら、反対に可愛いとはとてもではないが言えなくなった愚息が電話を寄越してきた日付を 思い出して告げる。
「ずるい」
「ずるい?」
「私より先に聞いたのね」
「これからママにも知らせますよ、いいですかってお伺いだよ。アレも俺に似て、君に弱い」
納得しかねる表情のまま、またテレビに向く。
「正一さんは、江口くんに会ったことがある?」
「あるよ。何回か家にも遊びに来た。あのまんまの、サッカー小僧だ。あのガキんちょ相手に、うちのエロガキはどこまで手を出したかな」
「どうかなー。大事にしてるって感じだった」
「見たことない顔してた?」
「そう。根は優しいのに、それが顔に出ない子だったでしょう? だけど江口くん相手だと、それが滲み出ちゃってた」
「俺に似て格好つけたがりだから、頼られるのが嬉しいんだろ。年相応の顔もするし、タイプは全く違うけどいいコンビみたいだな」
テレビ画面には愚息のプレーがスーパースローで再生されている。
幾つかの球種を蹴り分けるコツを、言葉少なに語る。
「お嫁さんをもらうようでもあり、お嫁にやるようでもあるわね」
「今度、江口家に挨拶に行こうと思うんだけど、君も行く?」
画面に注がれていた視線がこちらに戻ってくる。
「アレもどうやら本気のようだから、こちらも親の責任を果たしておこうかと思ってね。あちらの家では既に公認らしいけど」
電話口、素っ気無い口調を装いながらぼろぼろと緊張が零れていた息子の報告は、妻に告げたものよりも若干攻撃的だった。
今までは、誰よりも母親の幸せを願って生きてきた。
自分が秘密を抱えていれば彼女が幸せになると言うからそうしてきた。
でも今、もっと大切な人ができた。
その人を、幸せにしたい。
そのために必要となれば、親へ反旗を翻すことも厭わない。
そんな宣戦布告だった。
とは言え、あの隠れマザコン男が易々と母親を悲しませることもできないだろうという確信もある。
はぁそうですかお幸せにとあしらえば、無言ではあったが電話の向こうから苦虫がぶちぶちと潰れるような音が聞こえる気がした。
妻は暫く夫の目を見つめ、やがて潤んだ瞳をテレビに向けた。
テレビの中では相変わらず舌の滑りの悪いキッカーが、自分のプレー解説に苦心している。
実演を促され蹴りだしたボールは、プラスチック人形の頭上を越えてストンとゴールへ落ちる。
よし、と息を吐く息子の顔が、男の顔に見える。
俺の仕事は会社を儲けさせること、お前の仕事は勉強と遊び、お互いに頑張ろうぜと実にいい加減な教育方針を打ち出しておきながら、たった一度だけ授業参観とやらに顔を出したことがある。
可愛らしい新米担任に、無関心すぎると説教を食らったせいだが。
参観日のお知らせなど見せもしなかった息子は、他の子供ほど可愛く見えなかった。
参観日に沸き立つ同級生をよそにむすっとした顔で淡々と授業の準備を始め、ふっと後ろを振り返った。
そして目があった瞬間慌てて前に向き直り、数秒後にまた振り返った。
笑ってやると、怖い顔をした。
そのくせ机の下の足がパタパタと前後に振られていて、それを見た時に不覚にも泣きたくなった。
罪悪感のせいか、いじらしさのせいか、それとも父性とやらのせいなのか。
何も待っていないふりをして、何も期待していないふりをして、本当は。
保護者懇談会とやらからも解放されて運動場を見ると、少年たちが土ぼこりにまみれながらボールを追いかけていた。
アレがドリブルをして、ゴールを決める。
笑った顔を久しぶりに見たなと思った。
最終下校を促すチャイムが鳴る。
残念がりながら放り出したランドセルを背負った子供らは、懇談会から出てきた親たちの元へ駆けていく。
『浩二!』
名前を呼ぶと、目をむいて驚いていた。
『美味いもん食って帰ろうぜ』
手招くと、やはりむすっとした顔のまま、だけど一生懸命に駆けてきた。
あの一日で得た感覚、認識は忘れようにも忘れられない。
自分は父親なのだと、妙にしみじみと思ってしまったのだ。
アレの親は、他の誰にも代われない。
だけど増えるのはまた別の話。
「不束な息子を増やして、俺らは可愛い息子が増えるんだから、ちょっと申し訳ないけどな」
本人達は知る由も無い親同士の密会をいつか彼らは知って、英介は照れるのかもしれない。
愚息はおそらくは顔をしかめて、そのくせこっそりと安心したり喜んだりするのだろう。
想像すると楽しくて仕方ない。
仕方ない人だと彼女は笑って、またテレビに視線を向けた。
テレビの中では自慢の息子が巧みな足技を見せ、ほんの少し誇らしげに笑っていた。
2006/10/19
高山家、ちょこっと人気があるようなので夫婦の会話を。小さいタカを書くのも楽しかったです。主要人物たちを脇役目線で書くのは楽しいです。