繁華街の端っこにある居酒屋の大将は、階上から聞こえてくる悲鳴にやれやれと肩を竦めた。
「すみませんね、騒がしくて」
常連客に新しい燗を差し出しながら一言詫びるが、客はいいじゃないかと柔和な笑みを見せる。
「サッカー部か。いいね。何年経ってもあぁやって集える仲間がいるって言うのは、いいもんだよ」
私も学生時代はね、と昔話に転じかけたところ、一際大きな悲鳴が響いてきた。
「退場だ! 今のは一発レッド!」
「今の誰だよ! 完璧、アフターだろ!」
剣呑な怒声が続く。
「英介を傷物にしやがったら許さねぇ!」
熱い若者達の熱い信仰心に向かい、大将も声を張り上げる。
「おめぇら、もうちょっと静かにせぇ!」
怒鳴りながらも頭の片隅では心配が渦巻く。
何度かこの店に顔を出し、“おじちゃんのブリ大根めっちゃ美味しい”と無邪気な笑顔を見せてくれた馬鹿息子の大切な友人がしたであろう怪我が大したものでなければいい。
馬鹿息子を筆頭にサッカー部OBが見つめる画面では、試合が中断していた。
倒れている英介の周りに審判と選手が集まっている。
審判がジェスチャーで担架を要請する。
担架が必要なほどの重症なのかと、画面の前にかじりつく面々に緊張が走った。
画面が英介をアップで映し出そうとする。
集まった選手の足の向こう、倒れた英介がうっそりと頭を擡げた。
そして彼の顔から何かが流れ落ちる。
汗のような透明性のない、黒く粘度を持った液体が滴る。
血だ。
瞬間、座敷は静まり返り気温も下がる。
『あーっと、出血してますね。相手ディフェンダーと交錯した江口が、出血しています。額ですね。おそらくスパイクが当たったものと思われます。意識はしっかりしているようですが、治療のために一旦ピッチを出ます』
担架に横になった英介が左目だけを閉じている。
頭部からの出血は多いものとわかっているが、英介の綺麗な顔が赤く汚れている様子はあまりに痛々しい。
赤く染まったタオルなど、見ていられない。
矢良ドクターが駆け寄るまでを映した画面は、試合を再開したピッチに転じる。
「……、大丈夫、だよな」
「頭は血ぃでやすいから」
「意識もしっかりしてたろ。だいじょうぶ。大丈夫」
互いに言い聞かせあう間、試合は激しく動くのだが気持ちが向かない。
集まった面子の頭にあるのは、ピッチの外で治療されているであろう英介の姿だ。
以前も英介は額に傷を作っていた。
相手の肘が当たって割れたそれは、英介のすべらかな額に縫合の痕を浮かび上がらせていた。
痛そうだと顔を顰めたら、英介は呆気羅漢と言ったのだ。
『怪我した時よりもさ、ピッチ脇で薫さんにホッチキスでバチコーンって傷閉じられた時の方が痛かったんだよね。試合中って興奮してるからあんまり痛みないんだけど、あの時はさすがに怖くて』
サドっ気のあるドクターの話は英介からよく聞いていたが、それにしてもあの可愛らしい顔によくもホッチキスなどあてがえたものだと思う。
もしかしたら今この瞬間も、と想像して何とも言えない気持ちになる。
実況が神戸RCが一人少ない状況を伝えるのに、交錯したディフェンダーの名前を口にした。
思わずそれを反芻する剣呑な呟きが、二つ三つ聞こえてきた。
試合観戦にのめりこめないまま五分ほど経ったところで、カメラがピッチ脇に立つ英介の姿を捉えた。
チョコレート色の髪の毛は包帯に覆われていた。
血液の汚れの残るユニホームはそのままに、早くピッチに戻してくれと足踏みをしている英介に向けて審判が手招くような仕草を見せる。
血を流した分軽さを得たような足取りに、スタジアムが歓声に包まれる。
英介はまず交錯したディフェンダーに手を差し伸べて短い握手をかわし、手を叩いて周りを鼓舞する。
そして一瞬、笑顔を見せた。
試合中にピッチから離された不満が解消したのか、無邪気な少年のような笑顔だ。
「……、かーわいー!」
「サッカー観てるんじゃないのかね?」
手酌の常連客が首を傾げる。
大将は視線を逸らして肩を落とす。
階上からは犬猫の赤ん坊を目にした女の子の黄色い悲鳴にも似た声音が聞こえてくる。
サッカー観戦中には有り得ない類の悲鳴だ。
「やっべ、あいつなんであんなに可愛いんだよコンチクショー!」
ああ、もう聞いてられない。
2008/01/31
負傷ネタは幾つかあります。ドクター治療シーンをいつか書きたいのです。