言ノ端七題_ver1【A】
3:愛しい背中



 居残り練習を終えてロッカールームに戻ると、英介が切ない声で空腹を訴える。
「さっさと帰って飯食おうぜ」
 もう死にそうと言う英介がもう一本もう一本と強請ってこんな時間になったのだけど、絶好調のストライカーはそのあたりを気にする様子もない。
 二人きりのロッカールームで英介がウェアを脱ぎ捨てる。
 アンダーシャツにも手をかけて、一気に頭から抜く。
 汗に濡れた背中が露わになって、ロッカールームに差し込む夕日を受ける。
 英介の体は、若木のようなという表現がいつまで経っても外れない。
 下肢こそフットボーラーであることを証明する強靭さが表現されているが、上半身は華奢と言ってもいい。
 細く薄い体ながら、バランスのとれた背筋と腹筋を備えた胴回り。
 細い腕に少し力が加われば、普段は密やかに隠されている筋肉が隆起して見える。
 練習グランドで駆け回り躍動した肉体が、今は静かに休まろうとしている。
 甘さなど微塵も感じさせないストイックなラインで構成される体は、天真爛漫な魂とは別の人格が宿っていそうだ。
 今にも唸り、咆哮を上げそうな野性の獣のような。
 生きること以外の欲望を持たない生物のような。
 これを飼い慣らし甘いもので食欲を満たし温いもので包み大事に大事に囲んだら、この体はどうなるだろうか。
 トロトロと溶けて消えていくか、それともブヨブヨと膨れていくか。
 きっと、枯れてサラサラと崩れて落ちていく。
 ピンと張った皮膚の下にある組織に無駄なものなど何一つないだろう。
 その細胞の全ては、サッカーのためにある。
 俺の体を作り上げる万か億か兆か知らないが、途方もない数の細胞たちも、サッカーのためにある。
 遠くに感じられた相棒の肉体が、急に身近なものに戻ってくる。
 このロッカールームに汗みずくでいることは、俺達が同じ目的を持ってこの体を維持している証拠だ。

 英介はタオルを掴むと、さっさとシャワールームに消える。
 早く汗を流してさっぱりして、飯。
 きっとあいつの頭の中にはそれしかない。
 食う、寝る、サッカー。
 俺の身にも沁みてくる三大欲求。
 シャワールームに続きながら、本当の三大欲求は何だったっけと真面目に考えてしまった。
 食欲に似た欲求には俺の方が飢えているかもしれない。
 湿ったタイルを踏み、閉じられたカーテンを開くと、頭から湯を被った英介がぎょっとした顔をして振り返った。
「腹減った」
 汗を流した体を見て、飢えはひどくなる。
「それ……、減ってるの腹じゃねぇだろ」
 来るなと英介がシャワーヘッドを向けてきた。
 綺麗な湯が体のべとつきを流していく。
「お前、もう一、二時間練習してこい。俺は帰って飯食うから」
「そんなの、腹減るだけだろ」
「じゃあ、さっさと帰る支度しろよ」
 顔面に水の粒を掛けられながら、目を閉じて一歩踏み出す。
 狭いブースで英介の体を捕らえるのは容易い。
 下手に刺激すまいと思ってか、英介は大人しく腕の中にいる。
 シャワーヘッドを英介の手から取り上げて一番高いフックに掛け、項に歯をたてた。
 酷使した体からはシャワーを浴びたからではなく、内側から湧き出る熱で火照っている。
「何がしたいの」
「甘えたいの」
「気持ち悪ぃ!」
「……」
 きつい言葉を投げながらも、英介はされるがままになっている。
 背骨を指で辿ると、居心地が悪そうに体を揺らす。
「俺の」
 思ったまま、そうであればいいのにと願ったままに口にすると、そうだよとあっさりした返事があった。
「お前のだから、帰ってゆっくり食えばいいだろ。とりあえずは俺の胃を満たしてくれ」
 どんな顔をしてそんな色気のない誘い文句を言っているのかと顔を覗き込もうとしたら、英介の腹が切なく鳴いた。
 早く支度しなさいと、ぎこちない手が髪の毛を洗い始めた。
 満たしたいのは食欲か、それとも俺の飢えか。 


2007/8/15
夏になると汗だく描写を書きたくなるよ。

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