「あ………」
誰も気に留めないほど小さな声が、男の口を付いて出た。
どう見ても安物のジャケットに、洗濯を重ねて襟口のだらしなく緩んだセーターというラフな格好だが、男はこの国際空港の風景に見事に溶け込んでいた。
色褪せ角の破けた小さな鞄を傍らに、男は捲っていた文庫本を閉じた。
バックパッカーと呼ばれる旅行客が増えた今日の世界への窓口には、男以上に小汚い様子の若者が少なくない。
ロビーのベンチに腰掛けている男は、鞄の中をゴソゴソと掻き回し、徐に立ち上がった。
高くはない背丈に痩せ過ぎにも思える体格の、どこにでもいそうな中年だった。
ただ、纏う空気だけが異様に重い。
軽い体を移動させる足取りは緩やかだが、白いロビーの床に落ちた影はそこに縫い付けられているように暗い。
事実、男ここからどこかへ飛び立つことはなかった。
飛び立つ者、降り立つ者を静かに見送りつづける。
それが、男の日課で人生の全てだった。
受話器の向こうの低い声は、独特の怠惰さと無気力さを孕んでいた。
くぐもった感じがするのは、煙草を銜えているせいだろう。
『相原か。ご苦労さん。で、何番だ?』
「74番。女が一緒だったな」
書類を捲る音がして、盛大な溜め息が吹き込まれる。
遠慮のない男なのはわかっている。
「日高さん。疲れてるな」
相原が笑いながら言ってやると、今度は荒い鼻息が届く。
『馬鹿言ってるんじゃねぇよ。俺はいつだって疲れてる。』
やや巻き舌調子の話し方はいかにも刑事らしい。
「忙しいのか?」
『暇にこしたことはねぇけどな。いいさ、これから行く。時間は大丈夫か?』
受話器の向こうでは既に立ち上がっている気配がする。
行動の早い男だ。
同時に判断力も優れている。
結果がいい悪いに関わらない優れ方だが。
「今日みたいな天気だからな。欠航にはならなくても、遅れは出るさ。早く来るんだね」
先に電話を切ってやると、切断された回線の向こうから舌打ちが聞えてきそうだ。
もう、10分もしないうちに、くたびれ薄汚れたコートをひらめかした長身の男がここへやってくるだろう。
眦がやや下がり気味ではあるが、それが逆に凄みを増している。
削げた頬にしっかりした鼻筋と、饒舌だが真一文字に引き締められている乾涸びた口唇と、無精髭を綺麗に剃ってある骨格のしっかりした顎。
精悍な顔立ちに仕上げとばかりに点睛された、暗い眼。
それらの触れば墜とされるような空気を紛らわすために浮かべているのだろう、ニヒルな笑みはかえって逆効果になっているとしか思えない。
筋者。
そんな言葉がぴたりとくる。
日高という、壮年の捜査課の刑事。
相原は日高の情報屋のようなものだ。
ような、とつけたのは相原が日高に売る物が情報でないからだ。
相原が売るのは人間そのもの。
例えば、数メートル先で新聞を広げながら、飛行機の出発を待っている白いコートの男。
この男は、これからもうすぐやってくる日高に手錠をうちこまれるのだ。
相原の商品は、国外逃亡を図ろうとする指名手配犯だ。
密告屋(タレコミ屋)、日高はそう呼ぶ。
薄汚いコートの端が、颯爽と歩く日高の膝の辺りでなびいている。
薄汚いが、それがバーバリーのコートであることを相原は昨年のこの季節に気付いていた。
粋なのだ。
この男は。
洒落者というわけでもないが、仕草やら立ち姿が他の刑事に比べて粋に見える。
なのに、その存在はしっかりと刑事であることを主張している。
わかる者にはわかるだろう。
刑事であることも、はみ出し者であることも。
粋な刑事というのははみ出し者の同義語だ。
女房と娘が殺されたのだと、いつだったか日高は相原に語った。
飄々とした中にどうしようもない暗さを抱えた男ではある。
「よう」
空港内のカフェのカウンターに腰掛けていた相原の隣に座ったが、顔はこちらを向かない。
コーヒーを一杯注文する。
「どこだ?」
相変わらず、視線は正面に向けたまま日高が尋ねる。
空港利用者たちの生み出す喧騒の中で、やっと聞き取れるほどの声だ。
「窓辺の一番奥の席だ。女の服が濃紺」
相原の声も小さい。
日高にしか聞えていないだろう。
相原もこんなやりとりにもすっかり慣れてしまった。
「ほう。ありゃ、切れたはずの女だがな。金が入ったと聞いて食らいついたか」
チラリと店内を見回す振りをして、日高が背後を振り向く。
極自然に見える仕草だ。
煙草取り出しながら、くつくつと喉を震わせている。
「女のためにヤマを踏んだってとこかな」
銜え、ジッポで火を点ける。
煙草の銜え方もいい。
「あんがとよ。後で、会おう」
「時効まではまだ時間があったのか?」
「たっぷりな」
日高が笑った。
それから、滑るように店内を移動し、指名手配犯に接触する。
怒鳴り声と、日高のせせら笑いを背に、相原は店を出た。
勘定は日高につけてある。
時効間際の商品は高く売れる。
罪名よりも時効までの時間が料金に関係するのだ。
今回はあまり儲けにはならないようだった。
相原という密告屋、どこにでもいそうな男だ。
そこの往来を歩いていても、なんの違和感も覚えはしない。
そんな男がドヤ町に塒を拵えて、一日中を空港のロビーで過ごす。
往来を行けば違和感がないのに、空港の床に影を落としその風景に溶け込む様は、日高のような人間から見れば異様だ。
あの若造が20そこそこの小僧だった時に、その婚約者が殺された。
大手の会社のデスクから姿を消して、一歩間違えば危険を伴う家業をおっぱじめた。
相原は待っているのだ。
婚約者の首をかき切ってそのまま、鉄の翼でとんずらした憎い野朗の再来を。
全てが終わった………いや、始まったこの空港で。
「ニューフェイスはいないのか?」
最近、口ぶりまでがどうもきな臭くなってきた。
それが日高には気に入らない。
「足、洗う気はないのか?」
「洗えばあんたが困るんじゃないのか?」
日がな一日を空港で過ごし始めた被害者の婚約者に、気紛れに渡した指名手配犯の手配書。
有名大学出のこの若造は、持ち前の記憶力に異常な執着心を加えて、月に一本は電話を寄越す。
手柄をたてさせてやるよと。
「そこまで墜ちちゃいねぇよ」
「そうかい」
「洗えよ」
「罪悪感とかいうやつか? 日高さんらしくないな。我関せずって顔して思う存分利用してくれる方がありがたい」
お前なんかに、『らしくない』なんて言われたくない。
いいから、洗っちまえ。
遅くはないんだから。
日高の眼の奥がそう語る。
が、乾涸びた口唇から出てくる言葉は違う。
「そうかい」
ぶっきらぼうなポーズだけとってみせる。
半分は本気だった。
「勝手にしろよ」
「今日の日高さんは日高さんらしくないな」
若造にらしくない、などと言われるようでは俺もおしまいだ。
肩を竦めた日高に、相原は呑気に笑う。
「ニューフェイスだ」
ジャケットのポケットに入れていた手配書を押し付けて腰を上げた。
「日高さん」
呼ばれ、足だけ止めて言葉を待つ。
「私は待っているだけだよ。あんたのような刑事が気に留めるほどの存在でもない」
こんちくしょうめ。
どいつもこいつも世話が焼ける。
バラガキどもがよく吠える。
「俺は気にしてるんだよ。これでも肝っ玉が小さくてな。助けられなくて、悪かった。
相原の婚約者は、虫の息ながらも生きていたのだ。
救急車の中で、息絶えた。
暴走族が救急車の行く手を阻み、間に合わなかったのだ。
日高が追っていた族だった。
一人の女が死んで、一人の男が壊れた。
自分のせいだとは思っていない。
日高の背負う家業が家業だ。
憎むべきなのは、自分ではなくて犯人や暴走族だ。
そう言い聞かせている自分の本音が自分で見えるから、余計に始末に負えない。
こんちくしょう。
「だから、ほっとけねぇんだ。ま、俺の都合さ。こっちも、ほっとけってんだ」
嫌な予感が背筋を這う。
喪失、なんて縁起でもない言葉が頭を過ぎる。
確かに、らしくない。
相原にとって、待っていることは苦ではない。
自分にできることがそれだけだと知った日から、延々と待ち続けたのだから。
「あぁ………」
口をつく吐息になんの感情も含まれていない気がして、自分で自分を慰めてやりたくなる。
変わらない空港の変わらない喧騒が薄れていく気がした。
日高は相変わらずの巻き舌調ですぐに行くと言って電話を切った。
もうすぐ、薄汚れたバーバリーのトレンチコートを羽織った日高がやって来る。
眦の下がった双眸を歪めるように、『よう』と、愛想もないこれ以上縮めようがない挨拶を投げかける。
私に、同情とか言うくだらない感情で接触してきた酔狂な刑事。
婚約者が殺されてからもう15年が立つ。
日高と知り合ったのは、事件の直後だった。
今よりもずっと若く、当時少年課の刑事だった日高は、まだ象牙色だったコートの下に喪色のスーツを着込んで、真一文字に結んでいた口唇を解いた。
謝罪の言葉を吐き出した刑事を、相原は殴り倒した。
感情のままに、呻き声一つ上げない日高を、サンドバックのように殴り続けた。
静かに見上げてくる双眸が『もっとだ。まだ足りねぇだろうが』そんな挑発を繰り返していた。
渦巻いていたわけのわからない感情を吐き出しても、楽にはならなかった。
ならなかったが肝が据わった。
肋骨数本を提供してくれた刑事は、ついでにハガキホルダーにパンパンに詰め込まれた手配書を寄越して、自分の足で病院に向かった。
あれから15年。
日高と相原の間に友情が成立するのか、刑事とタレコミ屋の微妙で危うい信頼が成立しているのかは、追及しないことが暗黙の了解になっている。
15年。
あれから、15年以上の月日が流れていた。
まだまだ待てる。
叶うか叶わないかわからない思いを携え暇潰しに密告屋を営む男を、どうする気なのかはわからないが。
相原の足は緩やかな歩調でロビーを横切る。
15年間通いつづけた空港だ。
日高が裏から手を回しているのかどうかは知らないが、15年間ボケ―とロビーで時間を潰す男が不審に思われたことも時々やってくる所轄の刑事からも不審尋問を受けたこともない。
視界に氾濫する白い世界から、もうすぐ解放されるのだ。
次の行き先は、灰色の壁に囲まれた世界か、若しくは………漆黒の、地獄か。
死んだ女をそれほどまでに愛していたのか。
どうだろう。
今となっては曖昧だ。
ただ、15年の月日をここで過ごしたのは女のためではない。
自分のためだ。
戦って、みたかったのかもしれない。
仕事を完璧にやってのけることだけを求められる自分を否定して、ほんの些細な関わりによって不幸にした男のために躰を差し出してくるような人間に憧れたのかもしれない。
叩きのめした相手に憧れるのなんていうのは、不思議な話だが。
白いコート。
気に食わない。
人殺しが時効を終えて、何もかもが綺麗さっぱり片付けられたと勘違いしてやがる。
日高の薄汚れたコートの方がよっぽど小奇麗に見える。
名前を呼んだ。
緊張した背中が僅かに戦き、振り返る。
色眼鏡越しに、男が相原の姿を捕えた。
黒いレンズに、白い光が跳ねる。
痴情の縺れ。
そんな言葉で片付けられる殺害動機と、復讐で片付けられる動機と。
どちらの罪が重いだろうか。
「待ってたよ」
15年間。
決して、長くはない。
そして、短くもない。
「老けたな。お互い」
痙攣地味た様子で男は躰を震わせ、喘ぐように首を横に振る。
相原の手には、丈こそないが閃くナイフが握られている。
血でも流さない限り、周囲に気付かれることはない。
「もう、十分生きただろう? 束の間の夢は見せてやった。これからは、現実を見ろよ。それも、直に終わるがな」
踏み出した。
踏み出そうとした。
瞬間、
「相原さん」
耳元で名前を呼ばれた。
酷く掠れた風のような声だが若い。
知らない声だった。
手首を掴む手がある。
後ろから抱き込むように相原の手を掴んでいる男がいる。
後頭部に胸板の感触。
でかい。
頭上から声が降る。
薙ぎ払おうと手を動かそうとするが、とてもじゃないが敵わないような握力で相原の手首を拘束している。
「誰だ………!?」
「刑事です。日高さんに頼まれました」
一匹狼なのかと思っていたら、そうでもないらしい。
ゴソリ、と大きな気配が背後で蠢く。
「素人がナイフで確実に仕留めようなんて考えない方がいい。確実に殺したいのならね。これを………」
ナイフがあっさりと手から離れ、代わりにナイフの柄よりもずっと硬い冷たいものが渡される。
「額に突きつけるか、口の中に突っ込むかして、トリガー………引き金を引いて下さい。安全装置は外れてます。引けばいいだけだ」
骨張った刑事の手がゆっくりと離れる。
それにつれて、重みが手の平に伝わり圧し掛かる。
カツンっと、一際大きな靴音がして気配が薄れた。
「誰の………拳銃だ?」
「聞けば、撃てなくなる。そんなことを気にかけるくらいなら人を殺そうなんて考えないことですよ」
耳元に声だけが届く。
悪魔の囁きというやつだろうか。
これは。
帰国を待ち望んだ男は、瞳孔を開き膝を震わせ立ち竦んでいる。
背後の男が、ただならぬ気配でもって制しているのかもしれない。
「簡単ですよ。その男もやってのけた」
誘われるように相原の足が踏み出された。
今まで気にもならなかった自分の足音が、冴え冴えとした音をたてて鼓膜を刺す。
夢ではないのだと、逃避しようとする自分にそうはさせないとでも言うように。
あと、3メートルか。
「簡単ですけどね、俺刑事ですから、ワッパ、打ちますよ。俺が、です」
よく響く声に、よく喋る男だ。
相原は振り返ってもいないから、若いであろう刑事の風貌は見ていない。
気配だけは感じられるが、日高のそれによく似ていた。
「日高さんには打たせませんよ。見ず知らずの若造にぶち込まれてください」
「止めればいい。止めたいのなら」
「止めたいですよ。でも、そうしたら俺が日高さんに叱られちまうんで」
「怖いのか」
「怖いですよ。あの人は。あぁ見えてもね、殺人犯ですから」
玄関口に、くすんだ色彩に覆われた人影がちらほらと見え始めた。
「女房と娘を逆恨みで殺されました。それから、犯人を射殺しちまった。その上、正当防衛なんてもので死んだ野朗にトドメを刺した。刑事の風上にもおけねぇ大悪党だ」
くつくつと笑う。
聞き慣れた笑い声だった。
今、相原の視界にはっきりと姿を見せたバーバリーのコートの男。
真一文字に結んだ口唇を、僅かに解いて漏らす笑い方をする男。
「何もかもやり遂げた後のあの人は抜け殻みたいなものでしたよ。飯も食わねぇ、小便だっててめぇ一人で行けない。廃人だった。張り詰めていた糸がふつりと切れたんだ。そりゃぁ、惨めでしたよ。反吐がでるくらいに。罵声も激励も聞きやしねぇ」
輪郭までもが、はっきりと確認でき始めた。
粗野な風貌に灯る光が、消えたことがあったのか。
「それが、ある日突然目ぇ醒ましやがった。俺が、署の管理庫から拳銃一丁持ち出しましてね。あのおっさんの額に押し当ててやった。俺も相当まいってたんで、泣きながら殺すぞって言ってやったら、跳ね起きやがって」
くつくつと笑い声。
白いコートの男の肩に手を掛けた日高が、真一文字を歪めた。
「死ぬのが怖いんじぁないんだとよ。俺があの人を殺して、どんな気持ちになるのか、どんなふうに墜ちるのか、あの人は知ってるから、味わってほしくなくて起きたんだとよ」
くつくつくつくつ。
「相原」
日高が呼ぶ。
「それでも殺るって言うんなら、ついでだ。俺もヤレ。殉職なんて俺に似合いすぎるか?」
「お似合いだ」
若い刑事が茶々を入れるのに、睨みを利かせ、日高は躰を相原と白いコートの男の間に滑り込ませる。
「やめときなよ。相原さん。惨めだぜぇ?俺はこのおっさんがいくら格好つけてもあの時の姿を知ってるからね。忌々しくてならねぇや。それに、」
靴音が二つ。
若い刑事の手が、再び相原の手に触れて、重みを取り除く。
「これ以上、始末書を書くのも面倒だ」
日高が苦笑した。
苦い苦い笑みだった。
どうしようもない翳りを晒して、日高が相原の眼の玉にその生き様を焼き付ける。
「まったく、人使いの荒い先輩様だ。人の出世の邪魔してそんなに楽しいもんかな」
相原の横を巨大な黒い影が通り過ぎる。
煙草のむせるような香を撒き散らしながら、若い刑事が日高の隣に立った。
漆黒のコートを粋に羽織って、結べば真一文字であろう口唇を歪めている。
まだ随分と若いが、日高に似た翳りを湛えている。
「ワッパはあんたが打てよ。俺は任同でひっぱっとくから。取り調べもあんたがするんだろうなぁ」
「あぁ、勿論だ。ご苦労。行ってよし」
「ラジャー。ダディー。いい子で待ってるから土産でも買ってこいよ」
「今日の飯当番はお前だろうが」
「借りはかえすもんだぜ?」
くつくつという笑い声が耳に残る。
若い刑事………日高の倅は、白コートの男の襟首を掴んで、刑事の貫禄たっぷりに連行していく。
「息子、か?」
「ドラ息子さ。母親と姉貴が殺された時は学校の寮に入っていてな。殺されずにすんだ。そうしたら、あの野朗、刑事なんぞになりやがって」
「そっくりだな」
「ははっ、どこに行ってもそう言われるんで、あいつは迷惑がってらぁ。俺の倅ってだけであいつは煙たがられてるからな」
横目で日高を見た。
いつもと何ら変わりのない、飄々とした刑事がそこにいる。
ゴソリとジャケットのポケットから煙草を取り出すと、黙って相原にも差し出す。
相原も黙って一本抜き取った。
「15年の禁煙を破ることになる」
差し出されたジッポの炎に切り口を近づけ、軽く吸う。
「願、かけか?」
刺激をもった思い気体が肺にねっとりと落ちていくのがわかる。
「さぁ、そんなつもりもなかったよ。………いや、どうかな、無意識にそう思っていたのかもしれないが」
「叶った、か」
不意にそっぽを向いてスッパスッパと紫煙を吐き出し始める。
相原の口元に深い笑みが刻まれていく。
「叶ったさ。あんたのお陰でな。日高さん」
「けっ、よく言うぜ」
日高の胸内にあるのだろう、僅かな罪悪感とやらが、相原には見えてしまった。
お節介をさんざんやいておいて、今更だとしか言いようがないが。
「あんたのお陰さ。私はこうして立っていられるんだ」
倅が殺してしまいたいと思うほど、反吐がでると言ったほど墜ちてしまった男とは違う。立って、笑っていられるのだ。
「私がもしも、引き金を引いたらどうする気だった?」
「どうも。ドラ息子が喜んだくらいだろうよ」
「いい息子じゃないか」
「俺が死んだら、あいつに情報は売ってやってくれ」
「いい親父さんだ」
「ありがとよ」
濃紺のピースの箱を相原に放って、日高は背を向けた。
「あぁ」
足を止めて肩越しに振り返る。生気溢れる眼差しを受けて相原は日高の双眸を見返した。立ち昇る紫煙が目にしみる。
「お前にゃ、似合いの棺桶だ。ココは」
ぐにゃりと口唇を歪める。
「素直に続けろって言えよ。困るからってさ」
「わかってるんならいいんだよ。頼むぜ、鳥は飛ぶ前に墜とすもんだからな。腕のいい猟師が必要だ」
くつくつと笑い声。薄汚れたコートをなびかせ日高が姿を消す。
手に残った濃紺のピース。
どこまでも粋な男だ。
煙草の箱にしてはやけに思いその中には残り1本のピースと、傷だらけのジッポが入っている。
笑おうとした。
肺に澱んでいたニコチンが喉をザラリと撫で上げ、不覚にもむせた。
煙も染みる。
15年ぶりの煙草のせいだ。
視界が霞むのも、頬を熱い涙が伝うのも。まだ、終われないと思うのも。
堪らなく美味いと感じる、一本の煙草のせいだ。
「あ………」
誰も気に留めないほど小さな声が、男の口を付いて出た。
どこにでもいそうな男だが、無害そうに見える眼の奥に翳りがある。
その暗い視線を落としていた文庫本を閉じ、口唇の端に挟んであった紙巻を傍らの灰皿に押し付ける。
見るものが見れば、思わず視線を持っていかれるような空気を揺らし、男が立ち上がった。
世間や社会を拒絶するほどの強い意志を、剥き出しにはせず、小憎たらしいことにオブラードでくるんだ不穏な空気。
筋者。
そんな言葉が似合う。
相原と言う名の密告者は、白いロビーに暗い影を落としながらゆったりと歩を刻んだ。
2001/02/16
とある縁から、先輩に捧げた作品。
限りなく北方&風間に染まっている自分がいる………。
先輩にはぼちぼちうけてたような………生き生きしていると言われる(笑)
現在、次回発行の部誌の作品(テーマ:さくら)で、日高の倅さんの話を製作中。