呼び出されたのは古いビジネスホテルだった。
日高達郎が疾走してからの間、吉野はあくまで日高の件に関わることをせず、単独行動をしていた。
意地になったように。
「何、考えてんですか?」
ビジネスホテルのベッドは日高の体は小さすぎる。
上半身裸の体は汗で濡れている。
肩に見慣れた色の線がいくらかはみ出しているのを見た。
刺青だ。
寝ていない証拠に、荒すぎる呼吸が入口に立っている吉野にも聞えてくる。
「会社、てんてこまいですよ。あんたの捜索に滝上の捜索」
「うっせぇ。いいからこっち来い」
「襲わないって約束してくれます?」
「してやるしてやる」
嘆息して吉野が近付く。
「覚醒剤でよかったんですか?」
電話で告げられた用件はこのビジネスホテルまで来ることと、管理庫から覚醒剤を持ち出して来いというものだった。
言われた通り、吉野は持ってきた。
ベッドに伏せたまま日高が目だけを上げた。
血走った目だ。
「寄越せ」
「遠慮しなくても打ってあげます」
「やなこった」
「こっちこそやなこったですよ。数週間ぶりに連絡寄越したと思ったら、覚醒剤もってこいだぁ? ばれたら私は首ですよ! 手前勝手なことして……死ぬ気ですか? 死ぬのは勝手ですけどね、あんたがいなくなったら誰が私の相棒務めてくれるって言うんですかっ? 死ぬんなら死ぬって一言言ってからにしてください。じゃないと、私はあんたを探しますから。そんなの、無駄骨なだけですからっ」
手にしていたビニール袋を日高の手に届かないところまで持ち上げて言葉をぶつける。
充血した目で日高が笑った。
「なんだ……、心配してんのかよ」
「心配してます」
明らかな禁断症状だ。
見苦しい、と思う日高の姿を見たくはなかった。
「美和……抱いてきた」
「そういう話、私にしますか?」
「最後だからな」
濡れたタオルで腕の汗を拭った。
溶かした覚醒剤を用意し、針をかざして見せた。
「これで、共犯です」
「……勝手にしろ」
「勝手にします」
肌に突き刺した針や、少しずつ押し出され自分の体に入り込んでいく液体を、日高はじっと見つめていた。
「落合さん、無理矢理、じゃあないでしょうね」
「誤解だ」
「ならいいんです。で、事情、話してくれますよね。全部」
拒むことも億劫なのか、わかったと言った日高はそれから数時間眠り込み、幾分すっきりした顔で一連の事件の真相を語りだした。
「……あんた馬鹿ですよね」
「おう馬鹿さ」
「開き直るし。この薬中」
「言うなよなぁ。かなり傷付いてるんだ」
「へぇ?」
「俺、刑事だから」
「なるほど。そりゃ、気持ちがわからなくもないですね」
「お前も刑事だからな」
じわりと胸に広がったのは、嬉しさだろうか痛みだろうか。
吉野にはわからない。
「後のことは頼まれてあげますよ。あんたが死んだ、その後のことは、ですけど」
日高の唇に一本、自分の口に一本、ハイライトを銜えた。
自分の煙草に火を点ける。
日高は相変わらず転がったままだ。
「共犯、ですよ? 忘れないで」
上体を傾ければ安い部屋のベッドが軋んだ。
煙草の切っ先を触れ合わせ、呼吸を合わせる。
日高の手が伸びてきて、結い上げていた吉野の髪留めを外した。
パチンという小さな金属音がして、さらさらと綺麗な艶のある髪の毛が日高の顔に降ってくる。
目を開けて見た吉野の下ろし髪は、普段見慣れないせいもあってかずっと吉野英子という女の女である部分を強調しているように見えた。
吉野の目が開く。
二人の間には二本の煙草が境界を引いている。
「私は、あんたを忘れません。教えてもらったことも、身勝手なところも、全部。あんたの相棒は私で、あんたに覚醒剤を与えたのも私だ。もうまっとうな刑事をやろうなんて気は捨てました」
「俺のせいにするんじゃねぇよ」
「あんたのせいですよ。だから、あんたが死んだら悲しんであげます。でも、泣いてあげません」
喋るたびに紫煙が零れた。
「上等」
日高が笑った。
真一文字の唇を緩めて笑う。
吉野も笑った。
零れるように唇にのる笑みで。
本当は縋りたい。
置いていかないでと縋りたい。
例え実らせる気のない想いでも、隣にいることの心地良さがあった。
それすらも失ってしまう。
けれど、命を投げ出そうとするこの男の行動を黙認することこそが、自分が男に少しでも想われているその理由なのだから。
「吉野ぉ」
「なんですか?」
「灰が落ちる前に、キスしよう」
返事の代わりに吉野の手が二つの火種を握り潰した。
手の平が焦がされる痛みも、苦い煙草の味しかしないキスで紛れた。
レンアイカンジョウなんかじゃない。
きっと、もっとまったく違う感情だ。
キス一つで満足できる。
離れてしまうことに同意してやれる。
レンアイカンジョウなんかじゃないよ。
こんなの、恋愛なんかじゃない。
煙草を握り潰した手に、異常な力が篭るのは痛いからだ。
感情が昂ぶっているせいじゃない。
悲しいからでも、苦しいからでも、悔しいからでもない。
痛いからだ。
「歯ぁ、そんなに食い縛んな。口、開けよ」
傲慢な物言いに吉野の眉間に皺が寄る。
刑事になって、日高の相棒になってからよく見るようになった。
「とれなくなるから、その皺もよせ。いい女が台無しだ」
そう言うと、泣き出しそうな顔を一瞬だけ晒して、次にはもう皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「たまにはスカートはけよ。きっと似合うから。厳しくするだけが刑事じゃねぇし」
日高の手は吉野の頭を子供にするように撫でていた。
長い髪の毛が、日高の指に絡む。
「髪、くくんないのもいいな」
吉野の手は、日高の肩にふれ刺青に触れた。
昇り竜だ。
肩に鋭い爪のある前足をかけ、日高を踏み台にしてなお上空へと昇ろうとしている。
「あんたの相棒は、やっぱり滝上順也だ」
「そりゃ、人生の相棒ってとこだな。刑事の相棒はお前だけだって。信じてぇ?」
「誰を信じろって?」
ぐりっと肩に爪をたてた。
痛がる。
なら大丈夫だ。
少しの安心を抱いた。
「お前を信じてろ」
「言われなくても」
「俺は幸せだな。俺が死んでも、お前がいる。お前は俺じゃないが、限りなく俺に近い。お前、きっとこの先言われるだろうな。吉野英子は日高達郎の申し子だって」
「いい迷惑ですね」
「そうやって、俺はお前と生きていくんだろう?」
「感動的で泣けてきます」
「泣いてくれ」
「やなこった」
「上等」
にっと鮮やかに吉野が目前で笑って、吉野は体を起こした。
乱れた髪の毛を頭を振って肩より後ろに流す。
「行きます」
「あ?」
ベッドに転がったまま、日高が素っ頓狂な声を出す。
「置いていかれるのはごめんです。街にはまだ悲鳴あげてる人がいます。こんなとこで燻ってらんないんですわ」
見送る背中だと女達は言う。
男も言うその背中を、敢えて見送らず逆に背中を見せつける。
吉野らしい、最後の挨拶だ。
髪は下ろしたまま、身なりだけきちんと整える。
手の平の火傷は気にしないようだ。
痛いだろうに。
「あんたは死ぬかもしれない。でも私は生きる。あんたがしなきゃいけないことは、私が引き受けます。刑事の仕事ばっかりは、滝上にも落合さんにも代われやしない」
毅然とした横顔。
安い愛情じゃ扱えない綺麗な獣だ。
「そうでしょう?」
綺麗に笑った口元が、返事を待たずに引き結ばれた。
きつい印象を与える綺麗な桜色の唇。
無邪気に笑うことはもうない。
「では、失礼します。幸運を」
真っ直ぐな視線を向ける双眸に迷いはない。
無駄のない仕草で敬礼をして、吉野は日高の目を見た。
そこにある感情を読み取ろうと。
だから日高も真っ直ぐに吉野を見つめ返した。
もう震えもおさまった手で同じく敬礼をした。
日高の唇がカーブを描き、吉野も同じように笑った。
踵を返すその動きに合わせて、綺麗な髪の毛が弧を描きなびいた。
消える背中。
あいつの背中だって、見送るモンだ。
一人になった部屋で日高は自分の乾涸びた唇をなぞった。
前を見る。
その力をもらった気がした。
それが日高達郎と吉野英子の別れだった。
そして、日高達郎は殉職した。
吉野がその報せを聞いたのは登庁してからだった。
血痕が残るエントランスのフロアを見て、笑い出したい気分になった。
管理庫から持ち出した拳銃にはタグが巻いてあった。
それを取り払い、手に握った。
日高のこめかみを打ち抜いたのは警察拳銃だったから、握った感触はよく馴染んだ。
手の平の火傷にグリップが触れ、少しだけ疼いた。
喪服とも普段の仕事着ともとれないパンツスーツのジャケットの内側に隠した。
葬儀に参列する人数は多い。
報道陣も多いようだ。
喪主は日高幸太郎。
日高達郎の父。
相変わらず官給品のものらしい安っぽい、それこそ仕事着と何ら変わらない姿で煙草を銜えていた。
傍らには落合美和。
黒いワンピースはそこに存在するどの喪色よりも深い哀色だった。
綺麗な女性だと、吉野は思った。
涙こそないが、今にも消え去りそうな儚さを見せる。
「……日高達郎の申し子……」
日高幸太郎が婀娜っぽい笑みを見せて呟いた。
落合がふいっと幸太郎を仰ぎ見る。
「あの、阿婆擦れさ」
幸太郎が顎で指したその先に、色の薄いサングラスをかけて早足に葬儀会場へ向かう女がいた。
ウルフカットの髪の毛が、自らが作り出す風にたなびいた。
「あの人……」
「吉野英子つってな、日高達郎刑事の唯一の相棒だ」
「綺麗な、人ですね」
「何かやらかすぜ? まぁ、見てなよ」
ごついスポーツシューズはいつものスタイル。
そお足が颯爽と歩いていく。
行き先は出棺間直の屋内だった。
がぁんと大きな音がした。
それは土足で上がりこんだ吉野の一際大きな足音らしい。
いっきにざわめきがひろがる。
警察官の、おまけに暴力団対策課の名物刑事の葬儀だ。
多くの警官と昔世話になったと言う人間。
果てはまったく知らぬ顔の人間までが葬儀の会場の外にも数人うろついて瞑目しては去って行く。
「何、やってんだ!?」
「確保しろ!」
喪服姿の警官の声が飛び交う。
吉野はかまわずジャケットから拳銃を取り出し握った腕を突き出した。
周囲が一斉に一歩引いた。
雄々しい。
拳銃をかまえる姿は綺麗に伸びている。
見惚れるような美しさがある。
「あんたへの餞別は、貴重な貴重な私の涙じゃありません。弔銃一発、それで上等でしょう」
僅かに動いた口元が言葉を紡ぐ。
言い終えたと同時に銃声が響いた。
ピシリとガラスの割れる音がした。
ぶっきらぼうな表情の遺影に皹が入っている。
「……吉野」
「何を……」
静まり返った周囲の様子を気にした様子もない。
「始末書書きます。謹慎します。階級全部いりません。私は現場の刑事でありたい。お騒がせしました。失礼します」
吉野が放った拳銃は重い音をたてて床に墜ちた。
踵を返す。
その後姿にまだ呆然とする者。
未来を予感し嘆息する者。
心浮かれるような高揚を覚える者。
様々な視線を背中に浴びて吉野は去って行く。
「英ちゃん」
途中、幸太郎が声をかけた。
サングラスをとった吉野がはにかんだような笑みを浮かべて近付いてくる。
「派出だな」
「こうでもしなきゃ。私には現場の方があってる」
「んー、贅沢な悩みだ。髪、切っちまったのか」
顎のラインにかかる髪型はよく似合った。
きつく結い上げている前のものよりも柔らかさがまして、動きに合わせて風を孕む様も綺麗だ。
「失恋、しちゃったんでね」
「お前をふるなんて男は大したことねぇってこった」
「でしょうか」
「そうさ」
風が吹いて、僅かな沈黙が落ちてくる。
美和の鼻腔に嗅ぎ慣れた煙草の移り香が流れてきた。
「これからが大変です。大きな組織を一つ、潰します。そのうち他の組織の連中がここぞとばかりに動き出すでしょうね。日高さんはいるだけでいい牽制になっていたから」
俯き煙草を探る。
手にしていたのは水色のパッケージだった。
美和のよく見た、美和の部屋にもよく置き忘れられていたハイライトだ。
黒いスーツをバックに少し潰れたようなパッケージがよく映えた。
「次は私がそうなりますよ。警部補」
どうぞ、と煙草を差し出す。
優しいようで、凶暴にギラギラと輝く双眸がまるで宣誓するように幸太郎を射抜く。
美和はその目に見惚れる。
達郎に似ていると、そう思った。
そう思って見つめていると、吉野が自分の方に吹き付けてくる紫煙に目を細めながら美和を見た。
吉野の方が背が高いからか、見下ろしているような形になる。
それでも達郎とほどの背の差はないはずなのに、達郎に見下ろされているような錯覚がチリリと胸を焦がした。
「……」
何か言いかけた口を閉じて、警察手帳からメモを一枚取り出した。
「何かありましたら、連絡ください。淋しければ、話し相手にもなります。不安でしたら駆けつけます」
声や口調は達郎のものよりもずっと真摯だ。
女の人の声だからだろうか、安堵感がある。
唇に浮かんだ微笑は同性の美和からしても綺麗だった。
嫌味がない。
他者の考えなど知りませんと大書してある、自信に溢れる立ち姿のせいだろうか。
「……あ、りがとう、ございます」
受け取ったメモには携帯の電話番号が書いてあった。
女性の字だとわかる字だ。
「これからまた本庁に戻るのか?」
「えぇ。片付けたつもりだったらしい相棒のデスクの中に、捜査途中のヤマのメモが遺してありまして、私はその片付けから事後処理からこれから忙しくなるんですよ。謹慎、いつくだす気なのか知りませんけど」
溜息が紫煙の形を作っている。
それでもその表情はどこか誇らしい。
達郎の傍らに立つことができた女性。
似合うだろうなと美和は、ほんの少しの羨望を覚える。
「ま、骨ぇ、拾い拾いいきますわ。刑事なんで。私」
苦笑を浮かべた吉野がペコリを頭を下げて背中を向けた。
あ、と美和は思う。
本当にそっくりだ。
見送る背中。
「……綺麗な人」
「いい女だな。あれでもな、タツの野郎を背負い投げちまえる腕っぷしなんだぜ?」
「すごい」
颯爽と去って行った背中はあっと言う間に見えなくなった。
美和の鼻腔にはあのハイライトの香りが残っている。
失ってしまったものが、また見つかったような。
幸太郎がすぐ横で吸っている紫煙の匂いとはまた違う。
人の体に染み、体温を移し苦さの和らいだまるで香水のような匂いだ。
一人きりになってしまった気がしていた。
美和にはもう順也の腕も達郎の腕も求めることができない。
再び空っぽになってしまいそうだった心に、何か力強いものが満ちてくる。
渡されたメモにも染みた匂いが、美和の胸をチクリと刺す。
その痛みが、前を向かせる。
触発されたように。
達郎の残り香は予想外の形でまだ美和を包む。
立ち昇り、消えてしまうことなく、今もまだ鮮やかに。
この世界で。
『見惚れちまったんだよ』
達郎が吉野に背負い投げされたと言う噂を聞きつけて幸太郎は息子をからかったことがある。
達郎は開き直ったように笑いながらそう言った。
吉野はこのことを達郎から聞かされただろうか。
『姿勢も動きもあんまりに綺麗で、気がついたら投げられてたし、文句言ってやろうと思ったら、今度は背中があんまりに綺麗だったんだ』
ほぼ書き殴りに近い作品なんですが、こんな感じです。
またまたサイドストーリーはあって、「Auto Focus」の今野の助手の人とも吉野は知り合いで、犬猿の仲。
だけどよく組んでとんでもないことをしてたりして。で、達郎と今野がある日飲み屋に行くと、吉野と今野の助手が一緒に飲んでて、先輩二人で「おいおいまたかよ」って青ざめる。なんて小話もあったりします。あと、美和がなんらかの事件に巻き込まれた時に、美和を助けるのがこの吉野だという設定とか(笑)尽きないなぁ……。