ファイナル・サービス



葡萄美酒夜光杯

欲飲琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑

古来征戦幾人回



 太股が、何かに貫かれた。

 肉を引き裂き、組織を断絶し、幾つもの血管がぶちぶちと引き千切られる。
 石原は地面に転がった。
「……いってぇ!」
 地面に突っ伏すまでに、自分が撃たれたのだということはわかった。
 けれども思わず口をついたのは間抜けな喘ぎだった。
 バタバタと兵士達の足音。
 ガチャガチャと肩にかけた弾丸ベルトが鳴っている。
 大丈夫かと声をかけられたが、返事をする前に彼は逃げ去る。
「くそったれ!」
 意識よりも先に体が死を感じたのか、勝手に歯がガチガチ鳴りそうになる。
 それを噛み締め、上半身を起こした。
 戦場カメラマンとしてのキャリアもあった石原の、初めての失敗だった。
 ある国が反政府組織に仕掛けた戦争。
 その軍に同行取材ができることになった。
 最前戦の部隊について回っていたのだが、その部隊が奇襲された。
 戦場は反政府軍が自治区として生活している村を目前とした岩山だった。
 岩山の頂上から、いきなり狙撃された。
 銃弾を無駄遣いするつもりはないのか、的確に一人一人を狙撃していく。
 政府側も政府側で金がないから、ミサイルも空襲もかけられない。
 戦争経済難はお互い様らしい。
 戦争なんぞしとる場合とちゃうやろ、と思いつつもジャーナリストとしての血が騒ぎ、週刊NOWの鬼デスクに行って来たいんですけどと告げると、胡散臭そうな顔はされたが一発やってこいとゴーサインを出され、自分は高い保険への契約にサインをさせられた。
 ここで死ねば高額の保険金が両親に支払われることになる。
 喜ばれるのか悲しまれるのか。
「多分、喜ぶんやろな」
 こんなときなのに笑いが零れた。
 デスクはどうだろう。
 数ある週刊誌の中でも伝統ある『週刊NOW』の編集デスクだ。
 石原の殉職をネタにして荒稼ぐぐらいはするだろう。
 倒れた場所はちょうど岩陰。
 それはいいが、頼りの政府軍の連中は石原に目もくれずに退却していく。
 パンっと雷管のようなライフルの銃声から一拍置いて、岩場を人間がゴロゴロ転がっていく。
 その様が不法投棄現場の撮影で見た、ダンプから転がり落ちていった家電を連想させた。
 さっとカメラを構えて撮った兵士は、見えなくなるところまで落ちていった。
 自分も仰向けに転がっていたら、岩場に叩き付けられて死んでいただろう。
「……めちゃ、痛い……」
 投げ出した右足の迷彩服には黒いシミが広がっている。
 ドクドクと血が溢れ出る音が脳の中で響いている。
 レンズを自分の足に向けて、シャッターを切った。
 報道写真にタイトルはないが、もしもつけるとしたら、
「撃たれちゃいました、やな」
 顎がガクガクする。
 カメラを握っている手が震えている。
 死は確実に近付いてきている。
 このまま反政府軍に見つかってもそうでなくても、死は石原を侵蝕してく。
 痛みは酷い。
 けれど、自分が死ぬという緊迫感はまだ薄い。
 走馬灯もまだ回らない。
 何故なら、このフィルムを届けなければならないから。
 それがここに来た意味だから。
 夜を待ち、這ってでもいいからキャンプにまで戻る。
 カメラマンとして腕力には自信はある。
 できないことはない。
 こんなにあっさり死んでたまるか。
 これで生きて帰れれば、いい記事も書ける。
 傷口をしっかりと止血し、岩陰にできるだけ身を隠した。
 しっかりと胸にカメラを抱いた。
 死んでたまるか。
 奮える体を押さえ込み、自分の記事が他社の紙面にまで載る快感を思い出す。
 あれを味わうまでは死ねない。
 このフィルムを届けるのは、自分しかいないのだ。



 ダンプカーに追いかけられる夢を見た。
 自分の身長の倍はあるタイヤが足を砕き、胴を這い上がってくる夢だ。
 痛いと叫んでいた。
 その悲鳴で目が覚めた。
 目が覚めても痛かった。
 シャレになってない。
 目を開けた石原の目の前に誰かいる。
 傷口を、抉っているのだ。
「なっ、に、してんねん!」
 恐怖よりも先に怒りが爆発した。
「関西弁か。懐かしいな」
 中東の地で日本語に、一瞬痛みが退いた。
「……日本人か?」
 目の前で、男がニタリと笑った。
 黒い瞳に黒髪。
 目鼻立ちも確かに日本人だった。
 中東の戦場で、日本人ジャーナリストが日本人に傷口を抉られている。
 この図をどう理解したらいいのか、石原には即時に判断はできなかった。
 上半身を岩に預けている石原に、男は圧し掛かっている。
 そして太股の傷口にナイフのグリップを押し付けている。
 着ているのは迷彩服だが、政府軍が迎えに来たのではなさそうだ。
「……手ぇ、離してくれへんかな? 痛いねんけど」
 歳は石原と同じくらい。
 彫りの深い顔をしているが、石原の言葉にただニタリと笑う様は無気味だ。
 ぐっとグリップが傷口を圧迫する。
「――っ、ぐ、あぁっ!」
 痛みに天を仰ごうとする石原の頭を鷲掴みにされ、顔を付き合わされる。
「あんた何者? 軍の人間? 殺し屋?」
「――、はぁっ? お前、頭悪いんか! 見てわかれ!」
 痛みを咽の奥へと押し込み、罵声に変える。
 指差したカメラに視線を降ろした男は、へぇと声を出しカメラに手を伸ばす。
 石原の手がその手を掴んだ。
「触んなや。っちゅーか、お前こそ何者やねん! 普通な、外国で日本人同士が出会ったら、フレンドリーになるもんやで。っつーか、痛い言うてるやんか!」
 ズキズキと、太股に心臓があるような錯覚さえする。
 傷のせいで熱が出ているのか、体中が痛いし熱いし重い。
「俺? なんだと思う?」
「はぁ? 人の足抉りながら言うセリフちゃうで」
「人に足抉られてるのに呑気なヤツだな。頭大丈夫かよ」
「くっそ、ごっつ腹立つ。ゲリラか雇われ暗殺者か! バックパッカー言うたらしばくぞ」
「あんた面白いねぇ。しばくぞって、この状態で?」
「くっそったれ!」
 石原には殴りかかれる状況でもないし、体力も残っていなかった。
 グリップが左右に動かされる。
 たまらない痛みから逃げることもできず、顔をそらすこともできない。
 男の手は石原の髪を鷲掴み、自分の抉られる傷口を見せつけるのだ。
 バタバタと上を向いたナイフの刃に汗が滴る。
 再びカメラに伸びた手を、石原は力を振り絞って叩き落す。
「さわるな」
「カメラくれれば助けてやる」
「いらんわ」
 ニタリ。
 また笑う。
 石原も、何故か笑った。
 また伸びる手を拒み、逆に男の持っているナイフに手を伸ばした。
 ナイフで払われ、ピリピリした痛みが手の甲に走る。
「俺のナイフに手を出すな。大事なその指切り落とすぞ」
「俺のカメラに手ぇ出しなや。なんもできへんけどな」
 男の目が、奇妙な歪み方をした。
 楽しんでいるのだと気が付いたのは、男の咽が震えて猫が咽を鳴らすような音が聞えてきたらからだ。
「どうせ死ぬぞ」
 それでも、フィルムは守らなければならない。
 自分の死体よりも、このフィルムには幾分かの価値はあるのだ。
「せやなぁ。ほんならこうしよか。俺のこと、殺すんやったら殺しぃ。せやけど、フィルムは日本に届けてんか。大洋出版の週刊NOWのデスク宛やで」
 危険な光を宿す双眸を、石原は真正面から見返す。
 自分も同じような目つきになっているだろうと思いながら、自分からは決して目を逸らさない。
 日本を発ったときから、覚悟はしてある。
 いつ命を落としても可笑しくはない戦場での取材だ。
 死んでたまるかとは思うけれど、フィルムが無事に日本に届くのであればそれでいい。
 死体よりもフィルムをデスクは待ち望んでいる。
 臨場感、緊迫感に溢れた石原篤弘の写真を。
「日本人ジャーナリスト殺害なんて、世間様にはあんまり心証よろしゅうないんちゃいまっか? ……っ、フィルム一本届けるだけで、印象変わると思うんやけど?」
 笑うことができただろうか。
「俺と取り引きしようって?」
「人情に、な、訴えとるんや」
 ぐらぐらと視界が歪みはじめる。
 吐き気が込み上げてきたが、胃の中は空だった。
 カメラのストラップを震える手に巻きつけて、腕の中に包み込む。
「俺な、石原言うんやけど、ホンマに頼むわ。頼む」
 歪み掠れていく視界の中で、男の両目だけが妙にくっきりと浮かび上がって見えた。
 こんな所で日本人に出会い、撃たれ、そいつの目の前で死んでいく。
 奇妙な運命だ。
 けっこうな経験をしてきたはずなのにやっぱり走馬灯は回らない。
「死ぬんって、寝るんとそうかわらんもんなんやなぁ」
 男の笑い声が聞えた。




 再び、石原は目を開けた。
「俺でも天国送りやなんて、神様言うんは寛大なんやなぁ」
「馬鹿か、お前」
「……やっぱ、ここは地獄やー」
 独り言に返ってきたのは、日本にいるはずの住吉デスクの声だった。
「うちの石原の死体が見つかったって連絡があったんだ。軍のキャンプの近くで発見されて、設備が一番整っていた赤十字に搬送されたって聞いてな。病院に送られたんなら、まぁ生きてはいるんだろうと思って来てやった」
「……じゃあ、俺は死んでないっちゅーことですね?」
 当たり前だと素っ気ない言葉が返ってきた。
 聞けば石原が打たれた日から一週間が経過していた。
 キャンプ近くまで引き摺って行ったのは、おそらくあの日本人なのだろう。
「住吉サン自ら迎えに来るなんて、なんや豪儀ですね」
「お前を迎えにきたんじゃないんだよ。お前のカメラにフィルムが入ってないって言うから、それを確かめに来た」
 何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
 軍は石原の同行取材を許可しているのだから、今更奪うわけがない。
「……、カメラ!」
 起き上がろうとした体は全く言うことを聞かなかった。
 一週間の寝たきりはかなりこたえているらしい。
「ホラ」
 見かねた住吉が差し出してきたカメラは、確かに自分のものだ。
 慌ててフィルムを確認するが、確かに入っていない。
 背負っていたリュックには撮り終えたフィルムが入っていたはずだが、リュックすらなかったと言う。
 ニタリと笑った男の顔が、脳裏にくっきりと浮かんだ。
 頼むぞと、何度も繰り返す自分の無様な掠れ声。
 固定された足とぶらぶら揺れる点滴。
 怒りは沸点を越えて、一体どう罵ってやったらいいのかわからない。
「死んでもえぇわ。もう」
 ぐったりとベッドに沈んだ石原の言葉に、住吉が頷くのは解せないが。
「くそったれ」
 撃たれて抉られて、それでも大して憎いと思っていなかったあの男が、腹の底から憎いと思った。
 戦場に存在する馬鹿らしい因果は受け入れられる。
 それ以上のことをしたあの男。
 二度と会うことはなくても、一生をかけて憎んでやる。
「死にかけたのにただ働きなんて、ご愁傷さま」
 週刊NOWの鬼デスクの一言で、ギャラは消滅した。



 仕事先で怪我をした石原には、ギャラのかわりに労災がおりた。
 リハビリが必要な期間は仕事もできない。
 住吉が珍しくいくらかの憂慮をしてくれた。
 スクープを嗅ぎつける嗅覚と度胸、情報網は週刊NOWの記者の中でも群を抜いている。
 ここで駄目にするわけにはいかないと思ったのだろう。
 現場に出たくても出られない状況で、石原は記事を書いた。
 写真のない、文章だけの戦場ルポだ。
 政府軍がいかに勇敢に反政府組織と戦っているかを書く約束での同行取材だったが、そんなものは知ったことじゃない。
 石原はただ事実を書くだけだ。
 記事は前戦部隊が岩山まで辿り着き、次々に狙撃されていったところまで仕上がった。
「ちょー、灰皿かたしてんかー」
 パソコンに向かったまま、石原はベッドで退屈だと顔に大書している女に声をかける。
 まだ足の痛みを抱える石原が、自分の面倒を見させようと呼んだ女だ。
 物憂げに立ち上がり山積みの灰皿を片付けた女は、石原の背中に凭れかかってくる。
「ねー、あっちゃん、まだー?」
「まだ」
「しよー」
「まだ言うてるやんか」
「しようよ」
「……」
 背中を這う女の指に、ここ暫らく萎えていた精力が一気に回復するのを感じる。
「あっちゃーん」
「あっちゃん言いなや」
 吸い始めたばかりの煙草を消して、ぎしぎし言って仕方がないパイプベッドに上がる。
「足、大丈夫? 上、乗ろうか?」
「まだ、えぇわ」
 久々の高揚感をしみじみと感じていたその時に、ボロアパートのドアがガンガンと叩かれた。
「ほっとき。新聞の勧誘やろ」
 ガンガンガンガン。
 ドガッ。
「蹴ってるよ?」
「嫌がらせかも。俺、ぎょうさん恨まれとるから」
「あっちゃん、かわいそー。お仕事してるだけなのにねー」
「なぁ? 慰めてぇ」
 ガンガンと、ドアを壊しそうな勢いで乱暴なノックは続いている。
 耳障りなことこのうえないが、生憎そんなことで萎える石原ではない、が。
「石原さーん。いるんだろ。開けろよな。俺だよ、俺」
「誰?」
「知らん」

「あんたの足撃って抉った男だよ。忘れられるほど安い出会いじゃねぇだろうが」
 ドアの向こうから返事。
 ぴたりと石原の動きは止まった。
「あっちゃん?」
「今日は、帰り。また、連絡するわ」
 いやらしいだけの表情が、不意に仕事中のものになった。
 僅かに足を引き摺って玄関に向かう。
 唾を飲み込み、ドアを開けた。
 黒いスーツに身を包んだ、あの男が立っていた。
 ニタリ、と忘れられないあの笑みを浮かべて。
 女はその男を不気味そうに見ながら、脇をすり抜け帰って行った。
「お楽しみ中だったんだ? 真昼間っから。お盛んだな」
 スーツを着ていても、隠せない危険な匂いがする。
 この国に埋没しきれない空気がプンプンする。
 石原のよく利く鼻には強烈なほどに。
 背筋にぞわっと走る悪寒を表には出さないように、ジーンズに突っ込んだナイフを、尻を掻くふりをして確かめた。
「怪我の具合はどうかと思ってね。見舞いに来たよ、石原さん」
「手ぶらでか。俺が一番喜ぶモンを、あんたは知っとるし、持っとると思うんやけど?」
 ヒタヒタと、どす黒い感情が滲み出てくる。
「悪いね。まだ渡せない」
 この国でも見ても、怖い目だと思う。
 すっと大股で一歩踏み出された。
 身構えた石原の横をすり抜ける。
 思わずナイフを握った。
 見えているのは背中。
 手を振り上げるのではなく、突き出す。
 殺人犯になるかもしれないだとか、そんな危惧はなかった。
 殺さなければ殺される。
 そういう次元の問題なのだ。
 ジャーナリストとしてそういう現場を見聞きすることはあっても、足を突っ込むことになるとは思ってもいなかった。
 マフィアの殺し屋になら、石原も接触したことがある。
 それよりも危険な男だ。
 突き出した手はあっさりと掴まれ、頭上に捻り上げられた。
 骨が軋む。目の前にあの笑み。
「安心しなよ。別に取って食おうと思っちゃいないから」
 ぱっと手を離され、足掻いていた分が反動になって尻餅をつく羽目になる。
 勢いで太股に鈍い痛みが走って呻いた。
 男はずかずかと部屋に上がりこみ、パソコンを触っている。
「お前っ、何してんねん!」
 痛む足を引き摺ってパソコンを覗き込めば、そこにずらっと並んでいたはずの文字は綺麗になくなっている。
 さらにポンポンとキーを押されて、画面は終了した。
「……なっ、あ、あぁ?」
 真っ暗になった画面を前に、泣きそうになる。
 今までも何度か書きかけの原稿をパーにしたことはあったが、それはすべて不可抗力のアクシデントであって人災ではなかった。
「な、に、さらすんじゃ、ボケェ!」
「困るんだよ、俺のこと書いてもらっちゃ」
「あほんだら! まだそこまで進んでへんかったわ! あぁっ、くそったれ!」
「あんた足抉っても泣かなかったのに、原稿消されて泣くのかよ」
「涙も出てくるっちゅーねん! フィルムは取るわ、原稿消すわ、そんなんする前に俺を殺せや! 殺された方がずっとましやわ!」
 カタカタとパソコンをいじってみても、消された原稿はどこにもない。
 保存した分さえも綺麗に消去されていた。
 本当にじくじくと涙腺が痛んできた。
 ただの原稿じゃない。
 掲載されるはずだった写真を補うだけの記事に仕上げたつもりだった。
 冒した危険も、記事が掲載されることで報われるのだ。
 それが、消えた。
 締め切りは目前だったのに。
 手の中にはまだナイフもあったが、それを捨てて拳を固めた。
 無言のままで思い切り、振りかぶる。
 バキッ、と鈍い音と拳に痛み。
「……いってぇ」
 頬を押さえて鼻血を気にしている男は、石原のベッドの上に転がっている。
 当ったのだ。
「……なんで、よけへんのや」
「は?」
「あー、もー、えぇわ」
 この男に悪意がないことはわかった。
 余計に居た堪れないが、憎めはしなくなってしまった。
 愛らしい兎を獰猛な狼が捕えて食らう様は残酷で、とかく狼は悪者扱いになってしまうが、狼も兎を食べなければ生きてはいけない。
 男と石原の立場というのは、そんな食物連鎖の図式に似ているのかもしれない。
 しかし、疑問も残る。
「で、もう用は済んだんやろ。帰り。自分見とると殺しとうなるわ」
「いいねぇ、その関西弁」
「……帰れ」
 何故この男はこんなにも親密に話し掛けてくるのだろう。
 殺せたし、この男ならたぶん不法侵入して自分と顔を合わすことなく原稿も消せただろう。
 大体、殺しておけば面倒は全て省けたのだ。
 自分の命が、男の手の平でコロコロ転がされているようで腹が立つ。
「わざわざあんたの原稿を消すために帰国したんだ。もうちょっと相手してくれよ」
「原稿なんて何度でも書ける」
「口止めもかねてな」
「名前は?」
「今は楠木って名前を使ってる」
「正直やな。あの自治区におったのは何でや。雇われたんか?」
「ご名答」
 自分のアパートに殺し屋。
 緊張感と虚脱感が奇妙なバランスは崩れ、石原はどさりとベッドに倒れこんだ。
「あんたを殺す気はないよ」
 そう言って、楠木は煙草に火を点けた。
「殺し屋にも、友達をつくる権利はあるんじゃないかと思ってね」
 ひょいっと煙草を差し出してくる。
 知らない銘柄のパッケージには、あの国の文字が羅列してあった。
 差し出してきたジッポの火は断った。
 貰い火をするほどまだ親しくない。
 親しくないどころか、今の二人の関係を表現しろと言われると、険悪なものにしかならない気もするのだが。
 楠木は素直にジッポを引っ込めて、肩を竦めた。
 自分のライターで火を点けて、吸い込む。
 とたんに全ての粘膜を除去されたかのような不快感が咽を襲った。
「……げぇっ、きっつぅ……!」
 咳き込む石原の隣で、楠木は平然とそれを肺に流し込んでいる。
 仕事先でマズイ煙草とは何本もめぐり合ったが、これはワーストワンに輝く不味さだ。
 頭がクラクラする。
「自分っ、ほんっまにろくな事せんな」
「好意が裏目に出るんだよ」
 ニタリとあの笑み。
 今は口元だけでなく、妙に透き通っている双眸までもがニタリと歪んで笑みを形成している。
 気に入られたのだ。
 死神だか疫病神だか知らないが、自分は気に入られてしまったのだ。
 暗殺者と友達になる。
 悪くないかもしれない。
 投げやりな頭で石原は考える。
「好きにしたらえぇよ。もう。殺すも生かすもあんたの勝手。お友達になりましょう」
 ヤケクソで差し出した手を、楠木はさも当然のように握った。
 暗殺者の手で、自分を殺そうとした男の手は硬く温かかった。
「あの時」
「あぁ?」
「殺してもいいからフィルムを頼むって言った時のあんたは、マジだった」
 締め切った部屋に漂う、自分の匂いに楠木の煙草の匂いが混ざっていく。
 石原はそれを許している。
 石原も自分の煙草を銜えた。
 再び差し出された火を、今度は素直に受けた。
「かっこつけてるわけじゃなかった」
 それがこの世の最大の謎だとでも言うように、楠木は石原を不可解そうに見下ろす。
 気に入られた理由が、少しわかった。
 のどかな青空の下に四肢の千切れ飛んだ人間。
 地面を揺るがすミサイル攻撃。
 ライフルを担いだ少年兵。
 そして、何故そんなにと問い詰めたくなるほど気さくな兵士達。
 彼等の力になれもせず、帰る場所は食料も物資も溢れかえった日本という国で、パシャパシャと不快なシャッター音を響かせ、孫が埋まった瓦礫の山を見て呆然と立ち尽くす老人を撮っていくカメラマン。
 被害者の遺族を追いまわすハイエナ。
 ただそれだけの自分の仕事に疑問を持ったことは石原にもある。
 自分達の習性を嫌悪した。
 けれど、今は違う。
 自分達のカメラやペンがなければ、平和ボケしたこの国の人間は、海の向こうのたくさんの死や、同じ国で理不尽な死を遂げた人の痛みや、遺された遺族の苦しみを知らないままなのだ。
 だから、俺達は鼻をくんくん鳴らして駆けずり回るんだ。
 そう言って笑った年配の記者がいた。
 彼は日本で起きた連続殺人事件に固執し、時効を迎えても尚追い続けた。
 定年退職を余儀なくされた今は病床についている。
 地縛霊のように一つの事件に縛られてしまった記者を、石原は他にも知っている。
 だから、石原はこの仕事に誇りをもっている。
 例えハイエナだと蔑まれ、マスコミだからと言う理由で罵声を浴びせられようが、そうして忌み嫌われることすら、この仕事の誇りだと思ってきた。
 自分の体よりも自分が書く記事にこそ価値があり、その記事こそが戦地で今なお散る命への償いになるのだ。
 無冠の帝王は警察官と違って、武器も権力もないままで現場に飛び込んでいく。
 警察には人命第一と言うスローガンがあるが、石原達はスクープ第一。
 危険な場所に自ら向かう。
 裸の王様ではなく、その足で現場の足場を踏みしめて、自分の手で写真を撮り、記事を書く。
 絶大な影響力を自覚しても誠実であろうとする。
 それが、ジャーナリストだ。
 普段は石原の飄々とした人格の奥底に隠されている信念だが、死を目前としたあの状況で表面に浮かびあがった。
 それをまざまざと見たのが、楠木だった。
 石原のプライドは、殺し屋を墜とした。
 より深く石原の腹の底を探ろうとする視線を交わして、石原は携帯を手にした。
「住吉サン? 石原です。あー、いや。まだっちゅーか、ぱーになったっちゅーか」
 奥歯を食いしばりながらの謝罪を、元凶は隣で聞いている。
 きょろきょろと動いた視線は、壁に無造作に貼り付けてある写真をじっくりと眺め始めた。
 電話からはデスクの怒鳴り声。
 覚えてろと決めセリフで締められて、電話は切れた。
 これでまた無茶な取材をしなければならなくなった。
 今度はアマゾンかナイル川の秘境美女探しでもさせられるかもしれない。
「ロバート・キャパか」
 楠木の指先が石原のカメラマンへの道を照らし続けた一枚の写真に触れる。
 崩れる兵士の体のラインを、指先が辿る。
 殺す者、殺される者、撮る者の図式がこの部屋にある。
 戦場の因果。
 楠木の指は写真の上を移動する。
 掲載できなかった凄惨な事件現場
 容疑者として警官に両脇を固められた男
 沖縄上空を飛び交う飛行機の腹
 大量発生したクラゲに被害を受けた猟師たちの表情
 パンダの赤ん坊を見るための行列
 歌舞伎町の路地裏を行き交う外国人
 携帯片手に屈託なく笑う女子高校生たち
 密航者の乗っていた古めかしい船
 乱射事件の起きたアメリカのハイスクール
 勝訴と書かれた紙を掲げる弁護団
 地雷を踏んだ物乞いの老人
 インドの売春宿の少女達
 破壊された世界遺産
 玉突き事故の起きた高速道路
 重油に汚れた海岸
 不法投棄の瞬間
 まるでその全てに介入してきたかのように、楠木の指先は辿って行く。
「あっちでの仕事は終ったわけ?」
「終った。もう俺に出せる金もない。暫くはバカンスさ」
「そんならハワイでもグアムでも行って来い」
「日本の方が安全なんだ」
 起きあがり、勝手に冷蔵庫を空ける。
 もうどうにでもして下さいと言う態度で、石原はそれを眺めている。
「ろくなもんねぇな」
「ほっとけ」
「殺し屋の作るディナーはいかがかな?」
「……いっそ毒でも盛ってくれ」



『あっちゃん、浮気してるでしょ?』
「は?」
『浮気っていうか、私の他に何人もいることは知ってたの。でも、今絞ってるでしょ。一人に。結婚するの?』
「は? や、ちょい待ち。お前、誤解やで、それ」
『いいの。私もあっちゃんとは無理って思ってたから。いいの。でもちょっと本気だったの。それだけ。じゃね』
 原因は、毎夜石原が帰宅するより前に部屋に灯る明りだった。
 石原が使わない台所が毎日のように使用されている痕跡だった。
 玄関に置かれた女物の靴だった。
 石原の携帯電話に勝手に出て、見事な女声を装った男だった。
 それによって、全ての女に逃げられた。
「ありえへん」
「悪いね」
「何が?」
「あんまり顔見られたくないんだよ」
「ホテルにでも泊まれ。何で俺んちにおんねん!」
「友達だから?」
「疑問系で聞くな!」
 楠木は、あれから石原のアパートの住人と化していた。
 食事をし、風呂に入り、寝る。
 起きて、出勤する石原を見送って、その間は本を読んでいると言う。
 あくまで本人談で、どこで何をしているのかわかったものではない。
 わざわざ女物の靴を買ってきて偽装工作をして、石原の周りにいる女の影を全部消した。
 いっそ見事なもんだと拍手を送ってやりたい。
「お前は俺からなんぼ奪ったら気が済むん?」
「じゃあ、ストレートフラッシュで三万」
 すっと石原の目の前に差し出された五枚のトランプは、スペードの三から先の数字が綺麗に揃っていた。
 石原が差し出したカードはスリーカード。
 机の上の札を、楠木の手は遠慮なく掴んだ。
「ありえへんで、こんな友情」
 夜毎の賭け事で、楠木は既に三万円を石原から巻き上げていた。
 空の煙草に手を伸ばして舌打ちを一つ。
 すかさず、
「俺の吸う?」
 善意を見せるが、
「肺がんで死ね」
 楠木の煙草なんて吸えたものではない。
 酷いなと笑う楠木の手から千円札を一枚ひったくると、煙草を買って来ると言って部屋を出た。
 近所のコンビニまで徒歩で数分。
 外気の冷たさに上着を持ってくれば良かったと思ったら、
「石原」
 声がかかる。
 自分の部屋の窓から楠木が顔を覗かせ、石原の上着を放り投げてきた。
 ひらりと宙を舞ったそれを受け取れば、ニタリと例の笑みを浮かべた楠木がいってらっしゃいと女声で手を振った。
 出会いが出会いだから、遠慮するようなことはない。
 楠木は石原の身辺調査をすっかり済ませているし、石原も楠木の仕事についてそれとなく探りを入れる。
 勿論、楠木は冗談で返してくるが、たまにこれは本当の話だろうという話もする。
 ある国の大統領の暗殺事件、要人を乗せた豪華客船で起きた毒物混入事件。
 そういう事件について、妙に詳しく話をする。
 けれども大概は、石原を馬鹿にしているとも脅しているともとれることばかりを口にしている。
 ジャーナリストとして当然の好奇心は揺れる。
 けれど、深く深く突っ込む気にはなれないのだ。
 それが楠木を傷つけるだとか、後が怖いからだとかいう理由とは少し違う。
 その違和感を、石原は抱えている。
「よぉ、わからん奴」
 角を曲がれば、多すぎるんちゃうかといつも疑問に思う数の蛍光灯に照らされたコンビニが見える。
 見えるはずだった。


「羽田さん」
 角を曲がる一歩手前で、違う名前で確かに自分に呼びかけられた。
 一瞬、思考が停止する。
 そしてすぐに思い出した。
「久しぶりだねぇ。羽田さん。あぁ、今はもう石原さんの方がいいのかな?」
 カツカツと数人分の靴音が近づく。
 前へと踏み出そうとしたが、角からもう一人が現れて進路も絶たれ、囲まれた。
「従順な信者だと思って期待してたのになぁ。記者だったなんて、残念だ」
 平廉教という、新興宗教が存在した。
 水内という老女を教祖をして崇めている、きな臭い団体だった。
 これは何かやらかすぞと、石原は自分の第六感を確信して一年以上に渡る潜入取材を行なった。
 別人に成りすまし、平廉教の自己啓発セミナーから道場まで上がり込んだ。
 幹部の信頼を得て、教祖の顔も見た。
 どこにでもいそうな外見だが、一線超えた目をした老女の顔を小型カメラで撮影した。
 その後、できるだけ教団からは遠のいた。
 そして、事件は起きた。
 子どもを中心にした集団自殺だ。
 どの報道機関よりも早く、週刊NOWのトップ記事に水内の顔写真と教団の全貌が掲載された。
 石原のスクープだった。
 石原が撮った水内の顔写真は各メディアを駆け回った。
 あの快感は忘れがたい。
 平廉教は解散を余儀なくされたが、あの手の団体は粘り強い。
 残党はまだ幾らでもいる。
 逮捕されなかった幹部を中心に、再結成の動きはある。
 新団体としての結成を止めることはできない。
 事件後、記者として彼らの目の前で写真を撮ったこともある。
 世間に、こいつらがこんな悪さをしたんだと、悪評をばらまいたのは石原だ。
 それを彼らは知っている。
 何らかの報復行為がある可能性もある。
 気をつけろ。
 報道関係者を始め、警察にも忠告された。
 注意していたつもりが、甘かった。
 だいたい、気をつけるべき連中なんて他にもたくさんいるのだ。
 いちいち覚えていられない。
「俺んことボコったってな、あんたらにはなぁんの特にもならへんで。暴行で警察の世話なって、うちの記者がそれを書いて、また平廉教か言うて言われるだけや。まぁ、それはそれでこっちの思うツボやねんけどな」
 がっしりと両脇を固められ、近くの公園に連れていかれた。
 昼間は子どもで賑やかだが、夜になると人気はない。
 世の中に絶望した青年や男に失望した女の子が俯いて存在していれば絵になる典型的な公園なのに、それもない。
 あるのは、逆恨みを買った命知らずな記者と、相変わらずモノの考え方が神様中心的な信者達。
 ジャングルジムに背中を押し付けられた。
 硬い鉄の横棒がちょうど後頭部にあって、痛い。
 まずは鳩尾にクリーンヒット。
 息が詰まった。
 更に続けざまに腹部に膝蹴りが入り、胃の中身が逆流してきた。
 足元に流れ落ちる吐寫物を正面の男が嫌悪の滲む目で見ている。
「……っ。なんやねん。俺の、書いた、記事が気にくわへんのんか。あることあること書いただけやないか。そんで逆恨みか。ホンマに……、ホンマ、根性曲がっとる連中やな」
「うるさいよ、ハイエナが」
「ハイエナにハイエナ言うても悪口になってへん。もっと捻れ」
 顔面に一撃。
 鼻も痛いが、打ちつけた後頭部も痛い。
「……いったぁ……」
「あんま調子にのってんじゃねぇぞ、この野郎!」
「調子にのっとんのはあんたらやろ。何が神様やねん。アホちゃうか。あんなオバハンどこにでも歩いとるわ。あのオバハンがホンマに神様言うんならな、アホ臭い戦争止めさせてみぃ。凶作続きの国に雨の一滴でも降らせてみぃ。ホンマに悪さした奴だけに天罰っちゅーの下させてみぃ。できへんやろが。アホらしゅーてかなわんわ!」
 体を捻る。
 右腕を押さえていた男の方が非力だった。
 護身術を身に付けている石原は、すらりと男の腕から抜け出して、左にいる男の顔面に拳を入れた。
 鼻の骨が拳の下で曲がる感触とリアルな音。
 もう一度右側を振り返り、肘鉄。
 咽に入れた。
 そして正面。
「あんたらみたいなな、どーしょーもない悪党の巣に一年本性隠しておった男やで、俺は。あんまり、なめんといて」
 鼻血を拭くが、後から後から滴ってくる。
 血と吐瀉物で汚れた上着を見下ろした瞬間、後ろ頭に蹴りだか手刀だか知らないが、一撃入った。
 びりっと痺れが手足を走り、膝が崩れた。
 膝を折って四つん這いになったところに、下から腹へと足が振り上げられる。
 形成逆転。
 今日はどうも油断が多い。
 仰向けに倒れた屈辱的な格好を見下ろされ、石原はまた舌打ちをした。
 彼らの頭上に浮かんでいる、まん丸い月にいると言う餅つきウサギの朗らかなイメージが何故だか知らないが頭の中に浮かんできて、余計に腹が立った。
 後頭部を打ったせいで、ネジが一本とんだのかもしれない。
 月から目の前の男へとピントは移り、手の中に光るナイフを捉えた。
「絶対、俺、今年厄年やわ」
「このままナイフを真直ぐ落したらどうなるかな?」
 ナイフの切っ先を右目の真上にちらつかせ、男は切らした息に笑みを混ぜて言う。
「耳がある」
「耳もなくなったら?」
「喋れるし、記事も書ける」
「舌も指も切ってやるよ」
「まだや。頭がある。考えられる間は、俺は終らん」
「……なら、お望みの通りに殺してやるよ!」
「えぇで、殺しぃ。殉職ならニューヨークの記念碑に刻まれるんがかっこえぇなぁ思てたけどな、まぁえぇわ。俺がお前等に殺された言う記事、誰か書くやろ。そんなら、えぇわ。えぇネタになる。あんたらを殺す、えぇ武器になれる」
 あの岩場で楠木に見せた笑みと同じモノが浮かんだだろうか。
 男達は楠木のようには笑わず、ぶるぶると震えた。
「やりぃ」
 ぶるぶると震える手に握られたナイフが、右目に触れた。
 縦に一閃。
 瞼は閉じたが、目の上がじわりと濡れる感触はする。
 利き目を変えるのにはまた時間がかかるだろう。
 楠木に撃たれた右足を治すのに休暇はほとんど使ってしまった。
 こうなれば、あの殺し屋に責任をとってもらうのもいいかもしれない。
 生きて帰れたらの話だけれど。
「石原、何やってんの?」
 本当に一瞬だけ、楠木の声が天声に聞こえた。
 天の声なんて、聞いたことはないけど。
 男達の怒声が飛んだ。
 負けずに怒鳴った。
「お前、頭悪いんか? 見てわかってくれ。えぇかげん」
「うわっ、スプラッタ」
 驚いていない口調が憎い。
 ばたばたと地面に何かが倒れる音が続く。
 肉を打つ音もする。
 起き上がろうにも起き上がれない状態で、音が止むのを待っていた。
 三分も経たないうちに、楠木がひょこりと片目分の視界に逆さまに現れた。
「痛そうだな」
「お前に撃たれて抉られた時よりは、まし」
「根にもつなぁ」
「もたずにおられるか、アホ」
「目?」
「目蓋切られただけや。たぶんな」
 上半身だけ起こすと、ボタボタと嫌な音をたてて血が滴った。
 自分の血を見ると、石原は何故かレバーを食べないと、と妙な義務感に襲われる。
「それより、自分、帰り。俺、警察呼ぶで」
 ごつっと転がっている男の頭を蹴っている楠木に告げると、奇妙な顔をされた。
「記事にする。せやから、帰り。あぁ、セッタと酒、買って帰っといて」
「状況説明は?」
「俺がやったことにしたら、かっこえぇかな?」
「過剰防衛だ」
 笑おうとしたら、口の中に大量の鼻血が入ってきて気持ちが悪くなった。
 ぺっと吐き出して、携帯を耳に当てる。
 踵を返す楠木を、呼び止めた。
「殺し屋と友達で、初めて良かったて思ったわ」
 ニタリとあの笑み。
「おおきに」
 そして破顔する。
 まるで、お前のその関西弁が聞きたかったんだとでも言うような、満足そうな笑み。
 カツカツと靴音が去る。
 電話の向こう、ガヤガヤとやかましい声が応えた。



 またお前は無茶をやる。
 ハイエナがまた妙なことに首を突っ込みやがって。
 刑事は口うるさく石原を罵った。
 きつい口臭に辟易しながらの簡単な取調べは、特に怪しまれることもなく終わり、怪我の手当てもしてくれた。
 幸い骨折はなく、目の傷も目蓋を切っただけで縫合され、立派な眼帯を巻かれた。
 三人の平廉教信者は、傷害事件の容疑者として取調べを受けているらしい。
 刑事とはお互いにもてる限りの情報を交換し合った。
 警視庁から解放されて、門前に立つ。
 片目で見る東京はやたらと窮屈そうだった。
 ふぅっと溜息を一つつく。
 吐き出された呼吸は色を持って、流れていった。
 怖かった。
 楠木を初めて目の前にした時も、平廉教の残党を前にした時も、本当は怖くて仕方がなかった。
 痛いのも嫌だ。
 けれど石原はそれを耐えて生き長らえた先にある快感を知っている。
 自分の撮った写真であれ書いた記事であれ、それがメディアを回されていく快感を。
 記者仲間は歯噛みする。
 どうやって撮った。
 どうやって調べた。
 ソースはどこだ。
 そうやって、問い詰めてくる仲間達にただニヤリと笑うことで得られる優越。
 あの悪党は自分が撮ったのだと、歪んだ正義感を持っているのも自覚している。
 人として自分よりも劣る行為をした人間を、蔑む気持ちもきっとある。
 それを恥じようとは思わない。
 これが自分の生きる術で、意義だ。
 そんな言い訳とも自己暗示ともとれる考えを巡らせながら、汚れたジャケットを手にした。
 探る。
 裏地、襟の裏、ポケットと探り、指先が見つけた着衣に有るまじき硬質な感触を掴み、引っ張り出す。
 盗聴器だった。
 とうとうあの殺し屋は、友達のプライバシーさえも奪おうとしているのか。
 タクシーを拾って明りの灯るボロアパートに戻ると、石原のセブンスターを物足りなさそうに吹かしている楠木が、当然のようにそこにいた。
「おかえり。お、眼帯。眼帯ってフェティシズムを刺激すると思わねぇ?」
「ナース服までやったら同意したるわ」
 よいしょと石原の正面に座って、テーブルの上に盗聴器を置く。
 それを見る楠木に悪びれた様子はない。
 ばれたか、と呟いた。
「まぁ、えぇわ。おかげで助かった。チャラにしといたる」
 咽を震わせ、猫がゴロゴロと音を立てるように楠木は笑っている。
「飲むか?」
 封の切られたセブンスターとワンカップ。
 ワンカップを受け取った。
 殺し屋としてランクが低いのかどうなのか、楠木のここでの生活は慎ましい。
 殺し屋ならもっとかっこよく、バーボンでも飲めば絵になるのにと思う。
 がらっと音をたてて窓を開けたのは楠木だった。
 今日の月は丸い。
 それを見上げて、感嘆の声を漏らす。
 寒い風は入ってくるが、それでも確かに見事な月だった。
「葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催、酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回」
 不意に、楠木が歌う。
「何?」
「葡萄の美酒、夜光の杯。飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す。酔いて砂場に臥すも、君、笑うことなかれ。古来征戦幾人か還る」
 朗々と、楠木は歌う。
 無精髭の生えた口元が、いつもとは違う笑みを湛えていた。
「夜光の杯」
 差し出したワンカップの酒の表面に、月が浮かんでいる。
「風情やねぇ」
「葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催、酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回。俺の一番好きな言葉だ」
 石原は、煙草にも手を伸ばした。
 昔から戦に出た兵士が、何人還ってきたというのだろう。
 そういう詩だ。
 アルコールを摂取したせいか、縫合された傷が痛んだ。
 そっと眼帯を押さえる。
 ちりりと、火を点けた煙草の先が鳴いた。




 黒いコートに身を包んだ殺し屋が、ひょいと何かを放ってきた。
 柔らかな弧を描いたそれは、石原の手の中に落ちた。
 手の中に収まるそれは、フィルムだった。
 顔を上げた石原に、楠木は言った。
「バイバイ」
 最初は、フィルムだった。
 そして、記事。
 女、金、プライバシー、一人で気ままに過ごす時間、孤独に慣れた図太い神経。
 それらを、さも当然のように奪った。
 謝罪も弁償もない。
 最後に楠木が奪ったのは、友人だった。
 踵を返す動作に迷いはない。
 動揺している自分を自覚するのが、苦しかった。
 石原は歯を食いしばる。
 呼び止めない。
「……バイバイ」
 それ以上の言葉を、決して吐き出さない。
 フィルムを握り締め、耐えた。
 プライドはここに帰ってきた。
 楠木と最悪の出会いを果たしたあの日、自分の命よりも価値のあったフィルムは帰ってきたのだ。
 月のない夜のこと。
 石原の眼帯が取れた日の夜。
 薄く残った縫合の痕を見た楠木が、
「名誉の傷痕だな」
 そう言って笑った夜だった。




「何スか、それ?」
 暗室を使っていた後輩のを押し退けて現像をしていたら、浮かび上がってきた写真を興味深そうに覗き込まれた。
「俺、死んだことあったやん」
「あぁ、あの時の。見つかったんですか?」
「死神宅急便で送られてきた」
 現像液の中から次々と浮かび上がってくる写真。
 半分までは石原が撮った覚えのある写真だった。
 武装した政府軍の青年達。
 拙い武器と限られた弾丸を持って、家族に別れを告げている青年達。
 次のコマには死んでいく彼等。
 そして、血が噴出している太股のアップ。
「うっわ〜。これ石原さんの足っスか?」
「そう」
「よくこんなの冷静に撮れますねぇ。撮影状況でピューリッツァ狙えますよ」
「や、確かにえっぐいわ。ここ、まだ傷残ってん。」
 風呂や着替え、セックスの時にどうしても目を引く傷がくっきりと残っている。
「これは?」
「死神が撮ったんやろ」
 そこから先は真っ黒のはずなのに、浮かび上がってくる映像がある。
 無邪気な微笑みをピンセットで挟んで引き上げた。
「死神が、天使を撮ったんや」
 子供達が、笑っている。
 岩場の向こうにある真実。
 子供達は無邪気に笑っていた。
 大人達はライフルやナイフを手に、悲愴な顔をしている。
 老人は目を閉じている。
 野原に小さな山が無数に作られているのは墓だろう。
 そして楠木が、そこにいた。
 ピンボケした写真の中で、困ったように笑っていた。
 ひどい顔で横たわっている自分もいる。
 岩場の向こうにあった真実が、ピンセットの先で現像液を滴らせて石原の指先で支えられている。
 ぼんやりと、現像液の中に浮かび上がってくる写真のように、石原の頭に浮かんでくる答えがある。
 楠木が、何故石原の前に現れたのか。
 時を共に過ごしたのか。その理由。
 何故、石原に対して奪取を繰り返したのか。
 その理由。
「かなわんなぁ」
 ゆらゆらと揺れる現像液の中から浮かび上がってくる笑顔は、ワンカップの中に捕えた月を思い起こさせた。






 アメリカの大統領が代わった。
 イギリスの有名なシンガーソングライターが事故死を遂げ、アフリカでは異常気象による食糧不足で過去最大の被害が出た。
 アフガンを地震が襲ったが、死者は昨年から続く連合軍からの空襲によるものよりもずっと少なかった。
 南極の氷がどんどん溶けて、海面がまた上昇したおかげで水の都は危機に瀕している。
 日本では総理大臣が代わり、税金が増えた。
 老人が老人を殺害するという時世を映した事件が相次いだ。
 政治家や警官、判事による汚職もやたらと続いた。
 少年がどうしようもない心の闇をそれでもどうにかしようとして、傍らを通り過ぎた六歳の少女の頭に刺身包丁を振りかぶった頃、人を殺して金を稼いでいた男と出会った国で、自由を我が手にと唱える人々や、国のためにと唱う人々による殺し合いは終結の時を迎えた。

 石原は青いマニキュアをつけた手で料理をする女と付き合い、別れた。
 前の年に脳梗塞で死んだ記者仲間の墓参りをした次の日、一度取材に失敗した地へのリベンジ計画をデスクに提案してみた。
 ゴーサインを貰った。保険は変えなかった。
 乾燥した気候。
 薄い水色の高い空。
 銃声響くあの国。
 紛争は終結した。
 自治区はほぼ壊滅。
 少数部族はほぼ地球上から消えた。
 残ったのは戦争孤児達と老い先短い老人だ。
 これが結果だ。
 国内紛争にしても何にしても、戦争が生み出すものは大量の死だけだ。
 例え領土が得られようと、特需が発生しようと、自治の権限が与えられようと、報復が成功しようと、相反する宗教を撲滅できようと。
 どんな戦争でも共通する結果が、山積みにされた死だ。
 それは数字になり、世界を情報として駆け回る。
 その数字の裏にある、一人一人の人生が重視されることはない。
 石原の目は、その大量のワンオブゼムを見てきた。
 同じ目で、壇上に立ち終戦の宣言をする権力者を見てきた。
 日本で起こった殺人事件の現場を見てきた。
 汚職をした大企業の幹部を見てきた。
 ワンオブゼムは、石原の目を通してオンリーワンになる。
「しょーもな」
 汚いところを見るのなんて、もう慣れた。
 もう慣れた。
 もう慣れた。
 自己暗示に、いいかげんかかってもよさそうなものなのに。
 一年とちょっと前、石原が楠木に撃たれた岩場にはかろうじて道と呼べるものがついていた。
 自分が影を潜め、死んでたまるかと心の底から思った場所は見当たらなかった。

 岩山を超えた先に村はあった。
 あったと言う、過去形が相応しい。
 あったのは、瓦礫の山と無数の墓だった。
 唯一残った建物も半壊状態だが、それが戦争孤児のための施設だと言う。
 一人の老人が家の前に座り込んで、かつて村だった場所を眺めていた。
 その視線がゆらゆらと彷徨っている。
 まるで目の前を行き交う人々の波を眺めているように、視線が動く。
 家の中から、子供が顔を出した。
 目の大きなかわいらしい子供だ。
 石原を見つけ、驚いた顔をして家の中に引っ込み、また出てきた時には後ろに何人かの子供が続いていた。
「ヤコウ?」
 口々にそんな言葉を口にして、石原の前にずらりと立った。
 みんな目が大きい。
 痩せてはいるが、石原の周囲をピョンピョンと飛び跳ねる手足は日本の子供よりもずっと屈強そうだ。
 死ぬまで政府の監視下におかれる子供達だ。
 彼等は石原の顔をじっと見て、コソコソと話している。
 老人は石原を一瞥し、一瞬目を大きく見開いた。
 上げかけた腰は浮くことなく、脱力したようにまたその場に蹲った。
 子供達は石原を指して、ヤコウという言葉を繰り返す。
「ヤコウ?」
 石原が案内として雇った青年を振り返ると、青年もさぁと言った様子で首を傾げた。
「……ヤコウ……? ヤコウ、ヤコー……」
 口の中でその言葉を繰り返してみる。
「夜光……、夜光の杯、か」
 すぐに石原は答えに行き着く。
 そして、その答えを知っている自分が存在していることを知る。
 殺し屋が好きだと言った歌があった。
「俺、ヤコウの友達やねん。ヤコウはどないしたん?」
 少年達は駆け出した。
 野兎のような身のこなしで、点在する墓の間を抜けていく。
 墓は土を盛り、その上に木を突き刺したり石を置いたりしただけのものだ。
 眺めてみると、夥しい数の墓が存在している。
 ちらほらと墓から草が生え、花が咲いているのも見える。
 何度も石原を振り返った少年達は、やがてある墓の前で足を止めた。
 その墓は、他の墓と少し違った。
 村を見渡す小高い丘になっている場所にあり、大きな石が一つ置かれていた。
 少年達はその墓を指し、ヤコウの名を呼ぶ。
 バタバタと高山に吹き付ける風が、石原の服の裾をうるさく鳴らす。
 世界を股にかけた殺し屋で、この村の英雄ヤコウだった男を、石原は楠木と呼んでいた。
 ヤコウは、この村を最後の仕事場として選んだ。
 金次第で女子供も容赦なく始末してきただろう殺し屋が、無償の仕事をした。
 私利私欲、権力、誇り。
 そんなもののためではなく、自分をヤコウと慕うこの子供達の命を守るために。
 たぶん、彼は触れてしまったのだ。
 触れないように触れないように、触れたとしても疑ってかかっていた、人情に。
 生きようと足掻くこの村の、その意志に。
 命をかけていいかもしれないと思ってしまったのだろう。
「楠木ぃー。来たったで」
 石原に、楠木という人間が生きていたのだと刻み込むための数々の奪取。
 それは全て成功し、石原の中に楠木と過ごした日々は鮮明に消えない記憶として刻まれた。
 奪取は憎しみを呼ぶ。
 そして、憎しみは喜びよりも深く人の心に残ることを、殺し屋は知っていた。
 セブンスターを銜え、火を点けたそれを土に突き刺し、もう一本を銜える。
 喫煙者が喫煙者の墓を参るときの礼儀だ。
 高い空を見上げる。
 冷たい風が紫煙をなびかせる。
 首にかけていたカメラを手にした。
 銜え煙草のままでピントを絞り、シャッターを切る。
 向けられるレンズを、困ったような顔で払い除けられることはもうない。
 この国の土に還ることを覚悟した殺し屋は、墓を見つけた。
 楠木という一人の殺し屋が存在した事実を、真っ向から受け止める目を持つ墓標を。
 繰り返された奪取は、刻印。
 楠木は石原の記憶にしっかりと刻まれた。
 そう言えばあの男は、意外にも淋しがり屋なところがあった。
 誰にも知られずひっそりと死んでいくのは耐えられなかったのかもしれない。
「お前の感情表現はな、ひん曲がり過ぎてよぉわからんかったわ」
 友達になろうと、楠木は言った。
 友達が欲しいのだと、殺し屋が言った。
 渋々差し出した手だったが、何時の間にかそれは本音に成長していたらしい。
 だから、今、本当は悲しくて淋しいのだ。
 そして、憎い。
 けれど楠木の仕掛けた罠は精巧すぎて、石原の胸には何故かいっそ清々しいような思いが残っている。
 墓を選び、名を刻み、そして死んだ男は決して不幸ではなかったはずだ。
 殺し屋はおそらく、天使みたいにゆっくり眠りこけていたに違いない。
 平和を願うほど愚かじゃない。
 どこかで諦めをつけて、死んでいった。
「楠木」

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人回

「俺は、笑わへん」
 お前がこの国の大地に膝を折り、崩れ落ちたその死に様を。
 どこにでも溢れている情に墜ちた殺し屋の犬死を。
「お前の墓標は、ここにある」
 ジャーナリストという墓標を選んだのには、きっと意味がある。
 石原の目と指先で手繰るペンの力を、楠木は信じたはずだ。
 壁に貼られた石原の写真を、一枚一枚指先で辿ったあの行為の意味。
 自分達が、友であったことの意味。
 石原が今生きていることの意味。
 全ては、石原のジャーナリストとしての魂に賭けられた。
 家の前にいた老人が覚束ない足取りでやって来て、墓の前に立った。
 石原をちらりと見てから、僅かに失望の色を湛えた目を伏せ、ゆっくりと祈りの歌を歌い始める。

「葡萄の美酒、夜光の杯。飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す。酔いて砂場に臥すも、君、笑うことなかれ。古来征戦幾人か還る、か」

 老人の歌を邪魔しないように石原が低く小さく呟いた『涼洲詞』は、楠木に最も似合う祈りの歌だ。
 冷たい風が砂を巻き上げて吹き付けてきた。
 砂が目に入り、石原は固く目を閉じた。
 平廉教の残党が残した目蓋を縦断する傷よりも、楠木が撃ち抜き抉った足の傷よりも、バイバイと簡潔すぎる別れの言葉をのこして去られた時よりも、涙腺を破られる痛みは激しく、耐え難かった。
「……いってぇ」
 耐え難い。
 しかし、逃れる術はない。
 頬が濡れる。
 一度溢れた感情は簡単に押し戻すことはできず、石原は開き直り素直に泣いた。



 混ざり物ばかりの不味い酒だって月を映せば美酒にもなる

 杯を月へと掲げれば、それを合図に誰かが故郷の歌を口にし始める

 なぁ、もしも俺が酒に飲まれてこの砂漠に突っ伏しても、笑ってくれるなよ?

延々と続くこの戦いで、この国は何を得た?

 失うばかりじゃねぇか

 見ろよ、幾万の兵の亡霊が故国を目指して俺等の横を通り過ぎていく

 あの後に、俺達は続くんだ

 さぁ、臓腑を焼くこの粗酒を飲み干して逝こうじゃないか

 遺される君よ

 どうか笑ってしまって

 悲しい戦争の意味の愚かさを

 散ったこの命の小ささを

 どうか泣かないで

 悲しい戦争の意味の愚かさに

 散ったこの命の小ささに



2003/03/22
「夜光の杯と紙コップ」は没原稿でしたが、こちらは部誌に掲載したバージョンです。一応改稿ってことなんですが、高村薫並みの改稿です(笑)
名前は一緒ですが、こっちでは楠木が殺し屋です。そうすることで、自然とストーリーも変わってきました。
テーマ「月」へのモチーフ(?)は、変わらず「涼洲詩」です。
2003年3月20日、アメリカがイラク攻撃を開始しました。そんな今だからこそアップしてみようかなと思って掲載しました。あくまでフィクションです。感想などありましたら、ぜひ!

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