無音だと言う人もいる。
大地の唸りだと言う人もいる。
歓声しか聞えないよと笑う人もいる。
そして、風になるのだと。
ズ、と板が滑り出す。
体重を乗せ、速度を上げる。
迫り来る絶壁。
柔らかい動作で、しかし素早く膝を伸ばしバネにする。
ザっと、あの独特の音を最後に、それぞれの音だけが支配する空間にダイブする。
「うわ、60だって」
ブレ―キングトラックをえっちらほっちら歩きながら、自分の出した結果に舌を出す。
「今日は風強いからな」
五輪で金色のメダルを二枚とったベテランの向坂さんが、ジャンプスーツを腰まで脱いで呑気な声をかけてきた。
「いや、それにしても失速っスよ」
ジャンプ台を仰ぎ見る。
ようやく雪の上を滑ることができるようになったのに、この数日は風が強すぎてベストコンディションでの練習にのぞめない。
この無闇な晴天が憎らしい。
「焦るなよ。今になって慌てないための基礎トレだろ」
天気を読むこのベテランは、もう暫らくは風が味方にならないと踏んでいるのだろう。
まだ上がるつもりはないらしい。
「早く天気、安定すればいいんですけどね」
「次、誰が飛ぶ?」
「阿部さんと徳重さんですね」
「あのヘルは……、阿部か」
「阿部さんのヘル、すぐにわかりますよね」
「センスねぇな」
真っ赤なヘルメットに、蛍光の黄色。
センスは悪いが、すぐに阿部さんだとわかるヘルメットだ。
ゲートで暫らく風がおさまるのを待った阿部さんは、諦めたように飛び出した。
低姿勢から、踏み切りへ。
日本一美しいV字を青空に刻んで、ぴたりとも動かず。
重力への僅かな反乱。
そのままふわりと再浮上しそうだ。
風を味方に、どこまでも飛んで行けそうなジャンプ。
K点を超えた時点で、
「落ちる」
向坂さんが呟いた。
ずっと続くかに見えたフライトは、まるで夢から覚めるように落ちてランディングに至る。
まっすぐこっちに滑ってきた阿部さんは、そのまま俺の前でターンして柔らかい雪を撒き散らした。
「ぶーっ。勘弁してくださーい」
「風、おさまんねぇな」
白い息を吐きながらの阿部さんの第一声。
「ありえない」
「何が」
「K点は超えてますよ」
「だって飛んだもん」
印象的なほど下がった目尻のせいで細く見える目をより細めて、阿部さんはジャンプ台を見上げた。
「飛んだもん、じゃなくて。この風であれだけ飛べりゃいいんじゃないんですか。それに、その歳でだってとか言わないで下さい」
「俺、この台との相性はいいんだけど、海外だと駄目なんだよ。ココでこれだけ飛べてないと、あっちでベスト出せないからな」
気負っているのか、それともあくまで自分のペースなのか。
阿部さんは掴みきれない。
「阿部ちゃん、怪我はすんなよ」
「うぃーっす」
「うぃっすじゃなくて。足が折れてもいいから飛ぶってのは本番だけで充分だから」
「そこまで気負ってないッスよ。久々に雪の上を滑るから、楽しくて」
「じゃあもっと大人になれってアドバイスにするよ」
「うぃっす」
板を外して、雪に突き刺しながらまた空を仰ぐ。
ジャンプ台からはまた一人、雪のせいで浮かれているジャンパーが飛び出してくる。
「トク、堪えろ!」
風に煽られV字がふらついた徳重さんに、向坂さんがゲキを飛ばす。
地上では一際強い風がスキー場を抜けていく。
堪えたかに思えた徳重さんは、着地まであとちょっとというところで態勢を崩して転倒した。
「あちゃ」
足を投げ出したまま滑り落ちてくる徳重さんは、すぐに起き上がって大丈夫だと合図した。
やっちゃったよという表情を浮かべながらやって来る。
「はしゃぎすぎだ。犬じゃねぇんだから」
そう言う向坂は、昨日の夜の天気予報をまるで競馬を見るようなテンションで凝視していた。
来年はオリンピックイヤー。
はしゃいでいると言うよりは、高揚しているのかもしれない。
「お、風が味方につきそうだ」
「テストジャンパー、飛んできまーす」
向坂さんの風予報を俺は何より信頼しているから、挙手して行ってこいとの激励を受けてから、板を担いだ。
ゲートに着くと、下から癖のある先輩達が見上げていた。
「風になってこーい!」
「ィッス!」
「怪我すんなよー!」
「うぃーっす!」
「バッケンレコード塗り替えろ!」
「公式記録にしてくれるんなら!」
「無理だ、飛べー!」
ゲートから離れる。
下降。
スピードをつくり、乗る。
このスポーツは、かつては囚人達への刑罰として生まれたらしい。
この滑走の先にあるものは、恐怖からスリルと快感に変化を遂げた。
そのスリルと快楽の中に身を投じる瞬間。
板が踏み切り台から飛び出す時の雪の音が好きだ。
地面のない場所を飛んでいる感覚が好きだ。
飛んでいる間は重力に縛られる血肉骨で構成される躰じゃなくて、風でできている躰になっているような錯覚に酔う。
ゆっくりと、地上から伸びる重力の糸に絡めとられて着地する。
その足下が作り出す記録に、一喜一憂するのも好きだ。
「ホー!」
長く遠く飛べた飛行に、思わず奇声が出た。
先輩達は笑いと拍手で迎えてくれた。
「お前、一生テストジャンパーしてろ。お前が飛べばどんな大会も開催されるぞ」
あまり嬉しくない、徳重さんなりのお褒めの言葉。
「俺が飛んでも、阿部さん達が飛んでくれなかったら意味ねぇし」
「言うなぁ、お前も」
「俺、笑点の山田くんのポジションですからね」
「どんな例えだ」
「鉱山のカナリアだろ」
「それじゃ死ぬじゃん!」
「え、なになに? カナリアって」
馬鹿な話をしながら板を担ぎ、再びジャンプ台に向かう。
「つーか、さっきのジャンプ、飛型は及ばないけど飛距離だけなら阿部ちゃんの超えてたな」
「……。……。うっそ! マジっすか?」
「下克上だな、阿部ちゃん」
「トクなんてさっきのジャンプなら失格だっつーの」
「言うね、阿部ちゃん」
ジャンプ台から先への恐怖をスリルだと取り違え、興奮だと思った最初の人も囚人だっただろうか。
そいつは刑の執行人に対して思っただろうか。
ざまぁみろ、俺はこのフライトをこんなにも楽しんでるぞと。
「今度、カナダでしょ。俺、時差ボケするんスよね」
「頼むよ、テストジャンパー」
「もー、このまま飛んで行っちゃいたい」
「カナダカまで? 行け行けー」
「わりぃけど、このジャンプ台、カナダ向いてねぇよ。オーストラリアの方向だ」
「あぁ、それも悪くない……」
「冬は俺達の季節だろ。常夏の国では暮らしていけないね」
「冬は温泉の季節だよ」
「この後、温泉寄って帰りましょうよ」
「いいね〜」
「温泉入って、ビール飲んで、今日も一日頑張ったって思えるくらいに飛ぼうぜ」
ゲートから滑り出して行った向坂さんの背中を見ていると、『スリルの囚人』なんて上手い言葉が浮かんだ。
踏み切り宙に飛び出した向坂さんの体が、風をはらんでふわりと浮く。
白銀のジャンプ台に、シルバーのジャンプスーツと黄色いスキー板のV字。
重力に反抗して、風とスリルに囚われて。
その先の喜びも悲しみも挫折も味わったベテランのジャンプは堂々と、『実は人間って飛べるんだぜ』なんて言われても納得してしまいそうな飛距離を見せつける。
バッケンレコードは遠く。
それでも俺は、飛ぶ。
「もっと遠く」
阿部さんがゲートに腰掛け呟いた。
呪文のような呟き。
徳重さんは笑いながら、さぁと息を飲み込んで飛び出す。
こうして一人、また一人と飛び出し風になり、地上に降り立てば人になる。
俺もゲートに腰掛けた。
地上とは違う風が吹く。
腰を浮かせる。
体を押し出す。
痛みすら覚えさせるほど凍てついた大気に溶ける。
もっと遠く、もっと長く。
夢は、五つの輪っかが交わりあうスポーツの祭典の大舞台。
その時は、できることならばテストジャンパーとしてではなく、俺が刻んだ記録に日本中が沸き立つようなそんな立場でありたい。
大会開催の命運だけじゃなく、たくさんの夢を背負って、いつか、あの踏み切りから飛び出すんだ。
2004/10/03
マニアックですみません。専門用語とかは私もネットで拾ってきたのですが。スキーのジャンプの話です。
サッカー以外のスポーツにはまり出したのは長野からかなぁ。長野冬季五輪の年、私は高校生で、ジャンプの結果を気にしながら授業してました。そわそわしてたら休み時間に美術の先生が来て、「杉山、原田飛んだぞ」と言ってくれたのを覚えてます。雪の中の五輪も待ち遠しいです。