ウェルカム



「わかったよ」
 人生はいろんな道があって、それぞれがそれぞれの道を歩いていて、望んだとしても他人と全く同じ道は歩めない。
 私が、彼女の人生を真似できないのはそのせいだ。
「何が?」
「母性が」
「……そりゃ、わからんかったら困るじゃん」
 彼女が腕に抱く生まれたての命を指すと、彼女はそうだねと笑った。
 顔つきが少し変わった。時に嫌気がさすほどの馬鹿話で盛り上がっていた頃の面影は見えないこともないが、薄れているとは言える。
 妊娠したよ。
 連絡をくれた時にはかなり驚いた。
 同級生で結婚した友人は少なくないが、幼稚園以前の母子学級からの幼馴染が結婚妊娠出産となると、ちょっと違った。
 遊んでいるわけではないが、中学時代から二十歳まで彼氏がいなかったことがなかった彼女が結婚しますと言い出した時は、よく考えろと説得した。
 世に言う『できちゃった結婚』を前には、付き合い二十年の大台に乗った私の言葉も成果をなさなかった。
 そんな半年ちょっと前のゴタゴタも、今を見ていれば悪くなかったのかもしれない、とか思ってしまう。
 女は、凄い。
 怖いところも勿論たっぷりあるけれど、本当に怖いのは母親という別のものになってからだ。

「母親になったら変わるとかね、よく聞くけどいまいちピンとこなかったんだよね。妊娠したってわかったときは、正直怖かったし。陣痛の間とか、もう本当に辛くて辛くて、なんでこんな思いしなきゃいけないんだろうって思ってた」
 ここにいるんだよと、自分の下腹部を撫でてみせた彼女の仕草を妙にリアルで生々しく感じたのは、彼女がまだ母親になりきらない成長途中の少女のように見えて、そんな存在が子どもを産むなんて、という抵抗があったからだろう。
 実際、彼女の妊娠報告の続いた他の友人がした同じ仕草にもそんな印象を覚えた。
 異物が自分の一部になるにつれ、彼女達の表情は変化した。
「あとね、父性って言うのもわかったよ」
 これが父親に、と思うような同い年の男が父親になってしまった。
「立ち会ってくれたんだけど、最初の方はこいつ邪魔だって思うくらい頼りなかったんだけど、生まれた瞬間号泣して、ありがとうって言ってくれて、最近は毎日通ってくる」
「へぇ」
「それ見たうちのお父さんがね、それまですっごい反対してたのに、旦那と飲んだりするようになってるみたい。私が生まれた時の話聞かされるんだって」
「……へぇ」
 男は単純とは言わない。
 女だって、負けず劣らず単純だ。

 ん、と腕の中の赤ん坊が声を上げた。
 起きるかと思ったが、目は覚まさなかった。
 さすが泣くことと飲むことが仕事の赤ん坊。
 これからも私と彼女の友情は続くだろうから、この子とも一生付き合っていくことになる。
 成長を、私も目にすることになる。
 そう思うと不思議な感情が生まれてくる。
 この子が大きくなって、高校生くらいになって、赤ん坊の頃はねなんて思い出話を聞かせることになるのか。
 ……その頃、自分、幾つだ。

「お母さんも、こうやって私のこと生んでくれたんだなぁって思った」
「そう」
「苦しいけどね、すっごいいっぱい考え直した。私、めっちゃくっちゃ幸せじゃんって」
「うん」
「お母さんが私にしてくれたこと、普通のことだって受け止めてたけど、そこにどれだけ愛情があったのかとか、わかった。反抗期とか受験の時とか、死ねとか思ったんだよ。この子もきっと、そんな風に思っちゃうんだよ。でも、乗り越えたいね。お母さんと私がそうだったみたいにさ」
 こうして、繰り返すんだ。
 おばあちゃんがそうだったみたいに。
 お母さんがそうだったみたいに。
 彼女がそうであるみたいに。
 その腕の中の赤ん坊が、そうなるであろう未来のずっと先まで。 
「愛って、こういうことなんだーって」
 はにかみ笑いに込められた説得力。
 テレビやドラマや小説や、芸能人の記者会見では感じられない説得力が、親友の言葉にはあった。
「思っちゃったか」
「思っちゃった」
 この時の気持ちを、母親も子どもも父親も一生忘れないでいられたらいいのに。
 片時も忘れないでいられたらいいのに。
 私にはまだそんな予定も見通しもないけれど、彼女から与えられた温かな感覚は大事にしようと思った。
「これからが修羅場だね」
「そう! これからだよ。もう、全然想像できないもんね。真っ直ぐ育てよ〜」
 すやすやと眠る赤ん坊をゆるく揺すって、願いを託す。
 彼女が生まれた時も、私が生まれた時も、母親がしてくれただろう仕草。
 こうして願いを託しながら、未来を想像しながら過ごしていく一日一日が、今の彼女になり私になる。
 呆れるほどにドロドロしてきた世の中も、ほんの少し愛しく思える。
 どっかの国の独裁者も、
 この国の総理大臣も、
 うざかった学校の先生も、
 思いやりのなかった友達も、
 嫌味製造機のバイトの店長も、
 テレビで見るトップアイドルも、
 スーパーのレジのおばちゃんも、
 アルコールの匂いを漂わせながら電車でブツブツ言っているおっちゃんも、
 愛しく思える。

「愛だろ、愛、だね」
「愛よ、愛」
 笑顔。
 あぁ、そうか。
 笑顔を最初に教えてくれたのは、母だった。
 ひょっとしたら、あまり思い出も残さないままに逝った父だったのかもしれない。
 恰幅のいいばあちゃんだったかもしれない。
 当時はまだ独身だった伯父だったかもしれない。
 とにかくそれは、私を、愛してくれていた人だった。

 外にはたくさんの悲劇や憎悪が渦巻いて、苦難が襲い掛かり、未来に灯っていた希望の光も見失うことがある。
 この子の記憶に残ることはないだろうけど、こんな慈愛に満ちた時間は確かにこの子の人生の中に存在した。
 それを、幸せなことと感じるのはまだまだ先のこと。

 幸あれと、こんなに心の底から思えることはなかった。

 無二の友が、これから精一杯に愛していくこの子に幸あれ。
 迷うことも、涙することも、怒りに震えることも、挫折の時も歓喜の瞬間もあるだろう。
 その先に、君も今日の私のように、生まれてきたと良かったと思える時があればいい。

 君に幸あれ。

 笑うとお母さんにそっくりだね。親戚に何気なく言われる言葉の理由を考える日がくればいい。
「こんにちは、よりも、ようこそだね」
「え?」
「この世界に」
「うん。そうだね」
「ウェルカム」
「ウェルカ〜ム」
 ようこそ、この世界に。
 世代を繋ぐことの意味を教えてくれて、ありがとう。
 お礼に、少しでも綺麗なこの星と、平和な世界と、明るい未来をできることならプレゼントしたいと思うよ。
 今まで考えもしなかったことを考える。

 やっぱり人一人が生まれるということは、奇跡だ。

 そしてそこから、幾らでも奇跡は起こるのだ。


2004/06/25
大学の最後の冬に書いた作品です。最後の部誌に掲載しました。楽しかった空間だったので、優しい気持ちで書きたいなと思って。
ニュースではドロドロした事件ばかりが流れていましたが、私が願うことができる目一杯の愛しさを世界に込めて。
みなさんにも、幸あれ!

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