夜光の杯と紙コップ



葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人回



「ヤコー」
 少年達は繰り返す。
 ヤコーというのは名前なのか、その言葉を呼び続ける。
「ヤコーはいつ帰ってくるの? ですって」
 通訳が、呟いた。
「ヤコー……?」
 少年達の連呼する言葉を口の中で転がしてみる。
「ヤコウ。夜光……の、杯、か」
 葡萄の美酒、夜光の、杯。
「貴方は彼と同じ日本人だから、彼のことを知っていると思っているようですよ」
 懐っこく、石原のジャケットの裾を握り締めて少年達はヤコーと繰り返す。
 どうしますか。
 尋ねられ、逡巡した。
 この地でヤコーと呼ばれていた男は、どの国の子供とでも仲良くなれた。
 よしよしと上から子供を可愛がるのではなく、対等に接してよく泥まみれになって遊んでいた。
 少年達の大きな目は、不安そうに揺れている。
「ヤコーは、死んだ」
 通訳の言葉に少年達が顔を見合わせた。
 くるりと踵を返すとわっと散って行く。
 それを見送り、石原は苛々した手付きで煙草を銜えて火を点けた。
 つい先ほど石原は、数年年ぶりに楠木に挨拶をしてきた。
 大学、会社と、一緒に過ごしてきた。
 時には貶しあい、時には励ましあった。
 気が合うというよりは腐れ縁。
 そして、無二だった。
 楠木の手にはカメラ、石原の手にはペン。
 楠木が撮り、石原が書く。
 石原もカメラを携えてはいたが、楠木と現場に向かう時にはそれはただの重い不要品だった。

 再会した楠木は、何も言わなかった。
 手は、片腕だけだった。
 腹から下にある、空間。
 そして下半身。
 右足首から先はなく、体中、肉が露出していた。
 人間の皮膚の下の構造が見て取れるような体。
 首から上は、意外にも綺麗なものだった。
 見れば楠木であると、判別できる程度には。

「ブドウの美酒、夜光の杯、飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す。酔いて砂場に臥すも、君、笑うことなかれ。古来征戦幾人か還る、か」
「なんですって?」
 石原の歌に、通訳が怪訝な顔をした。
「漢詩や。楠木がよう歌っとった。ガキどもはそれを聞いたんやろ。そんで、ヤコー」
 有名な歌だ。学校の授業でも習うような。
「えっらいけったいな訳し方しとったけどな」
 歌う時は、どこで覚えてきたのか中国語の響きで歌った。
 独特な抑揚で朗々と紡がれたその漢詩は、まさしく歌だった。
 その詩一つを胸に、楠木は戦場へと向かった。
「阿呆が。俺に迷惑かけんな言うたやんか。えっぐい死体なんぞ見せおってからに」
 遠く、銃声が聞えてくる。
 戦場は、すぐ傍だった。



「なんや飽きたな」
「飽きた?」
「あぁ、飽きた。悪さした政治家を待ち伏せてノーコメントっちゅーコメントもらう仕事に飽きた」
 編集社の一角のソファーに寝そべりながら、石原がくるくると指先でボールペンを回していた。
 楠木はその隣で、熱心にカメラの手入れをしていた。
「スクープらしいスクープ言うたら、半年前の銀行強盗ん時か。お前の大事なカメラちゃんもそろそろえっらい現場撮りとうて、うずうずしてるんとちゃうんか?」
 くるくるくると、石原のペンはまるで生き物のように親指から小指の間を行ったり来たり。楠木は咽を鳴らして笑うことで同意にかえる。
「こんなことなら、スタジアムのミックスゾーンで張ってた方がましって?」
「あぁ、ましやな」
「石原は元々スポーツ記者だったもんなぁ。優秀すぎて事件記者にコンバートか。まぁ、その態度と根性は現場向きだ」
「お前に言われたないわ」
 ふあっと大きな欠伸を一つ、お互いに噛み殺した。
 昨夜は昨夜で、汚職事件を起こした議員を追っての張り込みで徹夜だった。
「なぁ、楠木」
「なんだ」
「俺な、一つ、考えとることがある」
「平廉教の潜入取材だろ。そろそろきな臭くなってきたしな。いいんじゃねぇの?」
「は?」
「いいんじゃねぇの?」
「お前、この前、俺が話しした時には時期尚早や言うたやん」
「お前、好きだろ。そういう、ピリピリした感じがビンビンにする現場」
 そう言って、楠木はカメラを置いた。
 転がっている石原を見る。
「俺も、好きだからな。そういう、わやくそな場所」
 東京に来て随分経つが関西弁が未だに抜けない楠木とは違い、岡山出身の楠木が話すのは綺麗な標準語だった。
 ただ一つ使いつづけている方言は『わやくそ』という言葉だった。
 滅茶苦茶、という意味らしい。
 空気の張り詰めた現場に立った時、ファインダーを覗き込みながら嬉々とした口調で、『わやくそじゃな』そう言った。
「でな、石原」
「あぁ」
「俺もな、撮りたい場所がある」
「どこやの?」
 楠木は、にやりと笑った。
 取材計画を立てている時によく見せる笑みだった。
 徹夜になる日々への覚悟と、成功した時のなんとも言えない高揚を期待するから零れる笑み。
「アフガン」



 それから、楠木石原コンビは一時解散。
 楠木、石原と別取材でデスクに経費を要求した。
 楠木は日本を発ち、石原は平廉教のセミナーから潜入を開始した。
 時は流れ一年。
 楠木は帰国した。
「よぉ、クソッタレの生き神様のために真面目に修行に勤しんでんだって? コントロールされてないか?」
 日に焼けて、顔に無数の小さな傷を作って、楠木は石原をからかった。
「そっちこそ、ようミサイル落とされんかったな。お前の上に一発落せば、日本の悪さしとるお偉いさんは枕高ぅして寝れんのにな」
 やや顔色の悪い石原も、負けずに楠木をからかった。
 治安が安定しないアフガンで一年を過ごした楠木と、得体のしれない新興宗教団体の中で身分をひた隠し続けている石原。
 どちらも極度の緊張感の中で、この一年を過ごした。
 お互いの目つきの尋常でなさを、お互いに指差し笑ったのは出版社の屋上だった。
 酒とつまみを買い込んで、ちょっとした宴会を開く。
 スクープを手にした時に、街へくりだした後によくこうしていた。
 宝石をばらまいたような。
 そんなちんけな形容が似合う夜景を眺めながら静かに酒を飲む。
 スクープの裏にあった被害者への追悼の儀式でもあった。

「石原。お前、相棒がテロリストになっても我慢できるか?」
 ふと、明日はどうも雨らしい、そんな自然さで楠木は言った。
「……お前の方が、コントロールされとんとちゃうのん?」
 ココが、と自分の頭を指差す。
「それでもいいよ」
 楠木の目を、見た。
 アフガンの何をその目に映してきたのだろう。
 楠木の目は、日本を発つ前に比べると透き通り、それでいてぎらついていた。

 何を今更、という気持ちはあった。
 日本で起きる凶悪犯罪から、銃声の響く戦場も駆けずり回った。
 道端に転がる死体を、楠木も石原も目に焼き付けてきた。
 理不尽な力によって荒らされた人々の生活の跡を辿り、時にその現場にも立ち会った。
 自分達に戦争を止める力はなく、ただ青空の下に創られた瓦礫の街の存在を伝えることこそが、自分達のすべきことなのだと腹に据えてきた。
 楠木は、それだけではもう耐えられないのだと言う。

「お前は、ただのマスコミや。自惚れんとき」
「正義感とかじゃない」
「いや、お前んは下手な正義感や。罪悪かもしれへんな。そんなん、俺かて持ってんで」
 紙コップを握る手に、力が篭った。
 楠木は曖昧な笑みを浮かべたまま、コップを傾ける。
「お前の仕事はなんや。よぉ考え。誰かがな、ハイエナみたいに死体に群がって、写真撮って、そのこと書いて伝えんかったらあかんのや。俺等の仕事は卑しいけどな、それ以上に卑しいのは人殺しやで」

 のどかな青空の下に四肢の千切れ飛んだ人間。
 地面を揺るがすミサイル攻撃。
 ライフルを担いだ少年兵。
 そして、何故そんなにと問い詰めたくなるほど気さくな兵士達。
 彼等の力になれもせず、帰る場所は食料も物資も溢れかえった日本という国で、パシャパシャと不快なシャッター音を響かせ、孫が 埋まった瓦礫の山を見て呆然と立ち尽くす老人を撮っていく自分達。
 ただそれだけの自分達の仕事に疑問を持ったことは石原にもある。
 ハイエナのような自分達を嫌悪した。
 けれど、今は違う。
 自分達のカメラやペンがなければ、平和ボケしたこの国の人間は知らないままなのだ。
 海の向こうのたくさんの死を。
 だから、石原はこの仕事に誇りをもっている。
 例えハイエナだと蔑まれ、マスコミだからと言う理由で罵声を浴びせられようが。
 そうして忌み嫌われることすら、この仕事の誇りだと思ってきた。

 楠木は紙コップの中に視線を注ぎ、
「それでも、いい」
 言った。
「お前に人が殺せるんか。テロっちゅーんは、そういうことやで。どんな大義名分掲げてもな、人は、殺したらあかん」
「わかってる」
 コップの中には、東京の空に浮かぶ満月がゆらゆらと楠木の手の中で揺れている。
 こんな酒でも、こうすれば美味くなる。
 最初にこの屋上での打ち上げをしようと言い出したのは、楠木だった。
「それでも、いいんだ」
 楠木は、優しすぎる。
 何の話をしていたときだったか。
 デスクは、石原にそう言って同意を求めたことがあった。
 だけど、と石原は言ったのだ。
 そんな楠木だからこそ、彼にしか撮れない写真があるのだと。
「ほんなら、勝手にせぇ。俺や会社に迷惑かけるな。辞めて、アフガンにでもどこにでも行ったらえぇ」
 その話題はそれきりだった。
 したたかに酔った楠木は、やはりあの歌を歌ったのだ。
 中国語の歌うような調子ではなく、噛み締めるような日本語で。

「葡萄の美酒、夜光の杯、飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す。酔いて砂場に臥すも、君、泣くことなかれ。古来征戦幾人か還る」

君、泣くことなかれ。

例え、自分がかの国の大地に還ろうとも。



 

 カタカタカタと、一定のリズムでキーは打たれていた。
 たまにタイプの音が止めば、石原の指を這うようにペンが回る。
 現場で握るペンを原稿を起こすときにも石原は弄んでいる。
 そうすることで文章が浮かぶのだという。
「あっかーん。パンチが足りーん!」
「早くしないと締められますよ。デスク、さっきから苛々してるんスけど」
 上体を反らして凝った肩を解していると、取材から帰ってきた若い記者が呆れた声をかけてきた。
「まぁ、売れっ子の俺の記事が落ちるのは偲びないっちゅー気持ちはわからんこともないんやけど、アーティストにはそれなりの拘りっちゅーもんがあるんやなぁ」
「はぁ、まぁ、よくわかりませんけど、こっちにとばっちりが来る前にあげちゃってくださいよ」
 苛々とペンを回して頭を抱える石原の文章には定評がある。
 飄々と仕事をしているように見えるのに、一旦記事に起こせばそこには見えない怒りや悲しみが漂う。
 必要最低限の事実を伝える事件記事に色気が漂う。
 そこに添えられていた優しさの漂う写真は、今はもうない。
 淡々と真実を切り取ったシビアでクールな写真が載る。
「もー、締め切り怖いわぁ」
 週刊誌の記者の最大の敵は、締め切りだ。一つタイミングがずれただけで、スクープとして書いた記事には価値がなくなる。
一服しようと自分の机から離れ、点けっぱなしにしてあるテレビの前のソファーに転がる。
 ニュースの時間。
 テレビでは神妙な表情のアナウンサーがニュースを伝えていく。
『次のニュースです。アフガニスタンで今日未明、自爆テロと思われる爆発が起こり、一般住民に多数の死傷者が出ています。現地からのリポートです』

 酔いて砂場に臥すも、君、泣くことなかれ。
 画面の中の現実を、石原は凝視する。
 あの現実の中に、彼はいるのだ。
 いや、ひょっとしたらもういないのかもしれない。

「誰が泣くか」
 呟き煙草を深く吸った。
 常に抱えている世間への苛立ちが、胸の中で暴れている。



 平廉教の潜入取材を終えた翌々年。
 平廉教が人命を奪う事件が世間に露呈した。
 そこにすかさずと言ったタイミングで、大洋出版の週刊誌「NOW」のトップ記事に石原の書いた記事が掲載されたのだ。
 修行と称したマインドコントロールの全貌と、さらには教祖とされている老女の写真。
 間違いなく、スクープだった。
 その事件から時は流れ、石原の記事も事件自体も人々の記憶から消えていった。
 それだけの月日が流れていた。
 締め切りに間に合わせて脱稿し、飲み屋で一杯ひっかけた帰り。
 一年間とちょっとの間、身に馴染ませてきた偽名で名前を呼ばれた。
 振り返った先にいたのは、平廉教の信者の一人だった。
 逮捕には至らなかったが、それなの地位を得ていた男で、潜入当初から石原を取り込もうとしていた男だった。
「あんた、NOWの記者なんだって? 石原さん」
 ねっとりとした声に呼ばれたように、二人の見知らぬ男達が石原を取り囲んだ。
 解散を余儀なくされた平廉教だが、生き残りがいるのは知っていた。
 『お前、ヤバイぞ』と、他者の記者仲間が忠告していった。
 そんなことは、わかっていた。
 注意はしていた。
 けれども石原が取材したのは平廉教だけではない。
 そんな逆恨みを何時までも覚えておけるほど、石原は暇ではないし律儀でもない。
 この場合、はっきり言えば油断していた。
「俺んことボコったってな、あんたらにはなぁんの特にもならへんで。暴行で警察の世話なって、うちの記者がそれを書いて、また平廉教か言うて言われるだけや。まぁ、それはそれでこっちの思うツボやねんけどな」
 人数に物を言わせて路地裏に引きずり込まれ、いきなり鳩尾に拳がめり込んで息が詰まった。
「……くそったれが。マジでしばくぞ」
 武器になるものを自分の体に探した。
 思いつく前に両腕を掴まれた。
 無防備になった腹に蹴り。
 さっき食べたものが逆流してくる。
「……っ。なんやねん。俺の、書いた、記事が気にくわへんのんか。あることあること書いただけやないか。そんで逆恨みか。ホンマに……、ホンマ、根性曲がっとる連中やな」
「うるさいよ、ハイエナが」
「ハイエナやもん」
 吐寫物で汚れた口元が笑う。
 かっとなった男が拳を振り上げた。
 その横っ腹に、蹴りを入れる。
 手加減なしの思い切り。
 ごりっと肉が蠢くような、骨が軋むような音がする。
 一瞬怯んだ力を見逃さすに振り払った右手に、胸にいつも挿しているボールペンを握った。
 自分の右側にいた男の胸目掛けて思い切りぶつけた。
 ざくりという手応え。
 男が体をびくんと硬直させて腕を離した。
「あんたらみたいなな、どーしょーもない悪党の巣に潜入しとった男やで、俺は。あんまり、舐めんといて」
もう一人の男の腹に膝を入れ、もう数発ずつ入れておいた。
「あー、飲み代全部吐いてしもた。もったいな」
 口を拭いながら、携帯のメモリを呼び出した。
 顔なじみの刑事は運良く暇だったのか、上手く片付けてやると言ってくれた。
 のそりと起きあがりかけた男の頭を蹴りつけ、刑事が駆けつけるのを待つ。
 これもネタになるが、また石原は無茶をやるとデスクに小言の一つや二つはいただくだろう。
 俺は不良高校生の尻を拭う教師じゃないんだと、嫌味も覚悟しなければ。
 などとのん気に構えていたら、駆けつけた刑事が男達を見て、
「過剰防衛じゃないかね」
 そんなことを言ったものだから、仕事以外では行きたくない警察署に連れて行かれてしまった。
 情状酌量になるのはわかっていた。
 尋ねられるのは平廉教についてのアレコレで、警察も残党狩りに忙しいらしい。
 情報の交換をしている最中に、石原の携帯が鳴る。
 それが、報せだった。
「は?」
 思いきり怪訝な声を出した石原を、刑事が見る。
「楠木が死んだって、どういうことですか?」
 胸が踊るような事件ではなく。
 ジャーナリスト魂を揺さぶる出来事ではなく。
 それは、訃報だった。

 あぁ、こんな気持ちなのか。
 石原は思い知る。
 自分たちがハイエナの如く追いかける事件の裏にある、哀しい報せ。
 それを受ける遺族の気持ちを。



 乾燥した空気の中に舞う埃が、石原の咽にまで入り込んでくる。
 アフガンの空は、いつ見ても晴れているように思える。
「ってゆーかぁ」
 ぼやいた石原を、迎え出てくれた赤十字の通訳が不思議そうに見た。
 取材なら通訳も何もつかないが、今回は役所に世話にならなければならないと、デスクがコンタクトをとってくれたのだ。
「なんで俺やねん」
 楠木は独身だった。
 両親はどちらも他界していて身寄りがない。
 とにかく遺体の確認をとのことで、生前最も親しかった石原に白羽の矢がたった。
『平廉教の残りが、お前のことを嗅ぎ回ってるらしいから、しばらく高飛びさせようと思ってたんだ』
 とデスクは言った。
 そんな犯罪者扱いはどうだろうと思ったが、平廉教の残党が夜な夜なアパートのインターフォンを鳴らしたり、愛車のポルシェのタイヤをパンクさせたりと身の危険はあったのでこれ幸いと日本を出てきた。
 出てきた先さえも、危険ではあるのだけれど。

 アフガンを最初に訪れたのは、楠木とだった。
 子供達とすぐに打ち解けてわいわいと遊んでいる楠木の姿を呆れて眺めていた自分。
 いい記事を書こうと、粋がっていた青臭かった自分達。
 大洋出版の週刊誌NOWの記者と言う誇りを胸に、この国に来た。
 高まる緊張感の中、一人の老人にインタビューした。
 戦争なんか嫌だよ。
 穏やかな口調でそんなことを言われて、楠木も自分も言葉を失っていた。
 何故この国を離れないのかと尋ねれば、馬鹿を言えと怒られた。
 ベテラン記者は、中東の地を指してこう言った。
 『神様が、人を救い人を殺す。そういう土地だ。理解しようと思うな』
 悲しいほどに不可解な土地に、石原は相棒を迎えに来た。


 モルグはひんやりとしていて、石原の背を少しだけ震わせた。
 様々な国のモルグに足を踏み入れた。
 布に包まれた遺体を撮ってきた。
 幼い子供の写真、老人、妊婦、青年。
 そして、
「くっすのっきー」
 大洋出版の報道カメラマンも、モルグにいた。
 布に包まれた体は、まるでプラモデルのようにバラバラで、それを繋ぎ合わせたとしても人間の形にはなりそうもなかった。
 不足部分が多すぎる。
「民間の工場が誤爆されたのに、巻き込まれたようです」
 一歩近付く。
 タイル張りの床がカツンと鳴る。
 シャッターを押す人差し指。
 巻き上げる、親指。
 そんなもの、確認できるわけがなかった。
 吹き飛んで、骨が露出しているだけだった。
「……、楠木」
 乾いた血の色に塗れて、楠木はそこにいた。
 そこにあった。
「お前、マジで死んだんか?」
 死体を目の前に、まだ納得できていない。
 なんて非現実的な情景。
 石原は自分の目に捕えられるものなら全て現実だとしっかりと受け止めることができる人間だった。
 どんな惨劇の場であっても、どんな理不尽であっても、善悪はともかくとしてそれが今実際に起こっていることなのだと、思うことはできた。
 なのに。
 まだ、目の前にある死体が楠木であることが実感としてわいてこない。
 楠木は死んだのだと、ここまで徹底的に見せ付けられているのに。
「石原さん」
 通訳は死体が目に入らない場所から石原に声をかけ、背後にいる兵士を指差した。
 髭の生えている兵士が差し出してきたもの。
 それは、カメラだった。
 割れたレンズを見た瞬間、プロが使う幅広のストラップに書かれている大洋出版のロゴを見た瞬間、実感した。
 ストンと、胸に事実が一つ落ちてきた。
 体から、魂は離れてしまったのだ。
 背筋が震え、一気に吐き気が込み上げてきた。
 それを押し隠して、カメラを受け取った。
 手に、重み。
 埃にまみれたカメラは、レンズ以外の欠損を見せなかった。
 フィルムは、入っていなかった。
 楠木は、死んだ。
「……フィルム、は?」
 通訳が介し、言葉が返ってくる。
「入っていなかったそうです」
「……。そんなわけ、ないやろ。こいつはな、カメラマンやで」
 悲惨な現場を撮るだけの自分には耐えられないと、会社には辞表を提出し、ジャーナリストではなくなってから日本を発った。
 けれど、カメラを手放せるわけもなく。
「フィルムがあったはずや。楠木が撮った写真を、返してくれ。返してください」
 兵士の返事は通訳が訳すまでもなく、石原にも理解できた。
 NO、だ。
「何があかんねん! 写真はな、嘘つかれへん。事実そのまんまを伝えるだけやないか。何があかんのか言うてみぃ! 隠したって事実は事実やろが!」
 写真ってな、お前の記事と違って嘘つけないだろ。
 楠木が言っていた。
「死体なんかいらへんわ。フィルム返せ」
 わやくそな現場で、もしも俺が流れ弾にでも当って重傷を負ったら、助けるとか考えなくていいから、まず俺のカメラからフィルムを抜いて、逃げてくれればいい。
 お前は俺の名義で届けてくれるだろうから。
 楠木が言っていた。
「フィルム返せ言うてるやろ!」
 食ってかかった先の兵士が、無表情で無言のままで、肩に担いでいたライフルを手に持った。
「そうやって、なんでもかんでも殺して終わりやと思うなや! お国の政策に納得できへんから声を上げる人間がおんねん。それを片っ端から消してって、それで済む思うたら大間違いや! 俺らがおるからな。脅しなんか通用せぇへんで。俺らはな、保証もなんもないトコロに自分らから突っ込んでいく人間や。好き好んでけったくそ悪い現場に踏み込んで行くハイエナや。世の中に、真実叩きつけたるわ!」
 自分が何に怒っているのかわからない。
 この兵士はただ、国や生活のために自分にライフルを向けているということはわかっている。
 善悪の判断は、自分の記事を読んだ人間に任せると、石原は割り切っていた。
 なのに。
 溜まりに溜まった鬱憤が、噴出してくる。
 堰を切ったのは、楠木。
 噴出してくるのは、隠しておくことに意義があったジャーナリストの魂だ。
「訳さんでえぇよ。適当に誤魔化しといて」
 気持ちを沈めて、呆気にとられている通訳に言った。
 通訳は一言二言口にする。
 兵士が感情の篭った声を一言二言。
「楠木」
 そして石原は楠木へ。
「すまんな」
 死体は、魂のない抜け殻。
 カメラは、フィルムのない抜け殻。
 それらは石原に、最期の言葉を伝える。


 俺が死んでも。

 なぁ。

 泣くんじゃねぇよ。




 無冠の帝王。
 マスコミの影響力を表した言葉だ。
 けれど、楠木は言った。
『無冠の帝王だけど、俺らって警察官と違って武器も権力もないままで現場に飛び込んでいくだろ。警察には人命第一って言うスローガンがあるけど、俺らはスクープ第一だからな。しかも好きでそういうことしてるんだから、タフだよな』
 カメラのレンズを磨きながら、ハードな取材で萎えてきた気力を蘇らせる言葉を吐く。
『それでこそ、帝王だよな』
 裸の王様ではなく、その足で現場の足場を踏みしめて、自分の手で写真を撮る、記事を書く。
 絶大な影響力を自覚しても誠実であろうとする。
 それが、ジャーナリストだ。

 そんな言葉を思い出しながら、石原は出版社の屋上から眼下の風景を眺めていた。
 冷たいコンクリートの上には空になった酒瓶と、もう使えないカメラ。
 一人の酒はやはり淋しくて、意味すら見出せない。虚しい。
 手の中の紙コップには透明な日本酒と、その表面に漂う月。
 眼下には不夜の街、東京。
 頭上には街のネオンに掻き消された幾千の星と、ネオンの届かないところで晧々と存在する月。
 ガコンと重たい屋上の扉が開く音がした。
 振り返ると、週刊NOWのデスクが眠そうな顔を覗かせていた。
「おー、いい眺めだなぁ」
 髭面のデスクは挨拶もなしに、石原の隣に立つと夜景を眺める。
「夏にはビアガーデンでも開くか?」
「えぇ儲けになりますかね」
「なるだろうな」
 笑いながらデスクが手にしたのは、角の変色した封筒だった。
 楠木の字で、辞表と書かれている。
「いいカメラマンだった」
 楠木の遺した、たくさんの写真。

 掲載できなかった凄惨な事件現場
 容疑者として警官に両脇を固められた男。 
 沖縄上空を飛び交う飛行機の腹
 大量発生したクラゲに被害を受けた猟師たちの表情
 出産後のパンダ
 歌舞伎町の路地裏を行き交う人々の波
 携帯片手に屈託なく笑う女子高校生たち 
 密航者の乗っていた古めかしい船
 乱射事件の起きたアメリカのハイスクール
 地雷を踏んだ物乞いの老人
 インドの売春宿の少女達
 破壊された世界遺産
 玉突き事故の起きた高速道路の航空写真
 重油に汚れた海岸
 不法投棄の瞬間

「でも、優しすぎた」
「優しすぎましたね。すぐに現地のガキと仲良ぅなって、一緒になってニコニコして。その子らのためにどうにかしたいって、思いすぎた」
 子供達の死にいつも胸を痛めていた。
 シャッターを切るのに、涙は致命的。それをぐっと堪えてレンズを向ける。
 アフガンという土地で、楠木がどんな生活をしていたのか、石原は一切知らない。
 自分の書いたスクープ記事一本が掲載され、世を騒がせ、忘れられる。
 それだけの間、石原と楠木の間には連絡がなく、ないままに楠木は逝った。
 けれど、たぶん。
 幸せだったのだろう。
 死に顔に、笑みこそなかったけれど。
 日本人の石原を見てヤコーと呼んだ子供達の存在が、それを証明していた。
 デスクは手の中にあった辞表をびりびりと破り始めた。
「ほぉんまに、豪儀やなぁ」
「カメラのストラップ、うちのだろ。まー、殉職扱いだ。いろいろ無茶な取材もさせたからな。夢枕に立たれんとも限らんし。墓石立てときゃ満足するんじゃないか?」
「はぁ……。えらい太っ腹ですな」
「ばぁか。その墓石代はお前が稼ぐんだ」
「なんでですか!」
「楠木のことを記事に書いてやれ。そういうジャーナリストもいるんだって、世間様に教えてやれ。それも弔いだ。お前の記事なら、楠木も喜ぶ」
もう笑うしかなかった。
「あー、もー。迷惑かけんなっちゅーたのに、あの阿呆が」
「おい、関西人の阿呆っつーのは好意的な意味なんだろ?」
 本当に笑うしかなかった。
 楠木と飲み交わした最後の屋上。
 楠木は歌った。

『君、笑うことなかれ』と訳すべき箇所を『泣くことなかれ』と変えて。

「葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催、酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回」

 何時の間にか覚えてしまった中国語での涼洲詞は、東京の夜に溶けていく。
 紙コップの中の安い酒。
 救いようのない情緒の欠如。
 けれど飲むのは必ず透明色の酒で、その表面に東京の月を浮かべて悦に入る。
 ついつい口ずさむのは子供の頃に聞いた歌謡曲。
 酔いが回って屋上の冷たいコンクリートに転がって、ネオンに赤く染まった空を見上げる。
 込み上げてくるのは嗚咽か嘲笑か。
 カメラとペンを片手に、盾も銃も持たない無冠の帝王は戦場へと向かう。
 還る保証はなく、ただ真実をと、馬鹿みたいな誇りを胸に。

「あいつの最期の写真、どんなんやったんかなぁ」
 弔い酒を飲み干した。
 平凡な味のはずのそれが、咽を焼く。
「あいつらしい写真だっただろうぜ」
 あぁ、甘いなと、石原は思った。
 胸のポケットに入れているボールペンを指先で回す。
「笑うしか、ないなぁ」




混ざり物ばかりの、不味い酒だってその水面に月を映せば美酒にもなる。

杯を月へと掲げれば、それを合図に誰かが故郷の歌を口にし始める。

なぁ、もしも俺が酒に飲まれてこの砂漠に突っ伏しても、笑ってくれるなよ?

延々と続くこの戦いで、この国は何を得た?

失うばかりじゃねぇか。

見ろよ、幾万の兵の亡霊が、故国を目指して俺等の横を通り過ぎていく。

あの後に、俺達は続くんだ。

さぁ、臓腑を焼くこの粗酒を、飲み干して逝こうじゃないか。

遺される君よ。

どうか、笑ってしまって。

悲しい戦争の意味の愚かさを。

どうか泣かないで。

悲しい戦争の意味の愚かさに。

散ったこの命の小ささに。



2003/02/02
部誌テーマ「月」の没原です。掲載した方にも石原と楠木とデスクは出てきて、似たような話になってます。楠木が同僚じゃなくて殺し屋なんだけど。
関西弁は似非。って言うか、この頃忍足(@テニプリ)大好きになった頃。

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