それは本当に偶然だった。
荷物の少ない下村の部屋のベッドサイドに置かれていた、数冊の難しそうな本を本当に気紛れに手にしてみた。
下村は朝から本社に呼び出されて今はいない。
することもなくゴロゴロとベッドの上で転がっていたら、眼に入ったから。
ハードカバーの厚めの本は、坂井には解読不可能な文字が並んでいた。
フランス語か。
仰向けに寝転がったまま、読めもしないページをパラパラと捲ってみる。
こんなのを読んでるからあいつの頭はろくでもないのか、とフランス語に対する冒涜を考えてみたり。
どんな内容なんだろう。
あの下村が読んでる本なら、ろくな内容じゃない気がする。
どうせ、気障ったらしい内容なんだろうな。
閉じようとしたその時に、はらりと何か紙切れのようなものが落ちてきた。
思わず眼を瞑った坂井の右頬に落ちて来た紙切れを拾い上げてみる。
「……………………何、コレ」
これは、見ればわかる。
見ればわかるが、呟いていた。
勿論答える人はいない。
紙切れは写真だった。
映っているのは、男女二人。
一人はとてもよく知った男のはずなのに、知らない男のよう。
女は死んだ。
岡本まり子と、下村の写真だった。
今より少し若い感じの下村は、見慣れない微笑を浮かべている。
まり子の肩を抱いているのは、無くしたはずの左手。
死んだまり子は、遠慮がちに下村に体を寄り添わせている。
はにかんだような笑みを浮かべて。
平凡な、幸せなカップルの記念写真だった。
写真を裏返しても、何も書かれていない。
本の一番後ろに挟まれていた写真の意味を考えた。
下村が、あの女を忘れられなくて………………?
自分で考えた答えがずきりと胸を刺して、その痛みになんだか居た堪れなくて、坂井はがばりと起き出した。
熱いシャワーを浴びて、冴えてきた思考に何も考えさせないようにしてバイクを飛ばした。
スカイラインは下村が乗って行った。
体に吹き付けてくる風が何時もよりも重い気がする。
息苦しささえ感じる。
得体の知れない思いが渦巻いている。
写真の中の下村は、なんだか知らない人間のようで。
浮かべた微笑の柔らかさが、まり子にだけ向けられていたものだと思うと痛みを感じる。
闇雲に飛ばしていたはずのバイクはいつの間にか、病院の駐車場の片隅に止まっていた。
無意識のうちに、ここに向かっていたのだろう。
ブルーバードの姿を認めると、坂井は病院の中に入り込んで桜内の診察室をノックした。
ちょうど今は昼休みだ。
「なんだ、坂井か」
ラーメンを啜っていた桜内が顔を上げた。
またかと言う顔だが、邪魔だとは言っていない。
遠慮なく入り込んで、診察台に座り込んだ。
病院の匂いがする。
黙ったままの坂井の気配を、桜内は少し離れて探っていた。
ここには用がなくても入り浸る坂井だが、今日の様子はすこしおかしい。
迷子のような顔をしている。
さすがは、二足歩行の猫。
本能で、自分には医者が必要だと悟ったのか。
桜内はつらつらとそんなことを考えながら、箸を動かす。
「なんだ? 調子でも悪いのか?」
ここに来てもすることがなくて、決して寝心地が良いとは言えない診察台に寝転がったら、桜内が尋ねてきた。
「別に」
真っ白い天井を眺めていたら、またあの写真が脳裏に浮かんだ。
焼きついてしまったように、鮮明に浮かんでくる下村の微笑。
今とは、比べ物にならないくらいに少ない屈託。
優しそうだと形容できる雰囲気。
あんな男は知らない。
ゴロンと背中を向けた。
「おい」
食事を終えた桜内が、声をかけてくる。
「なんですか?」
背中を向けたまま答える坂井の機嫌は、悪くはないのだろう。
沈んでいるのは沈んでいるようだが。
桜内は可笑しそうに笑うと、キャスターを転がして診察台に椅子を近づけた。
「下村と何かあったのか?」
反応を示さない背中は雄弁だ。
「話してみろよ。これでも、人生経験はお前よりは豊富だ」
保健室の先生宜しく水を向ける桜内の口調が、存外に優しい。
それが桜内の狙いとも知らず、坂井はほだされるようにぽつりぽつりと話し始めた。
写真のこと。
写真の中の下村のこと。
桜内は何時ものような茶々をいれずに、最後まで黙って話しを聞いた。
「で? 怒ってるのか?」
「……いやなんですよ」
「何が?」
「……わかんねぇ」
子供のような言い草になった坂井に、桜内は噴出す。
まったく、どうしようもなく可愛い野郎だと。
「おい、坂井。こっち向けよ」
そう言えば、素直に転がって桜内の方をむく。
拗ねた子供のような表情のままだ。
「診察結果だ」
言いながら、寝乱れた坂井の髪を乱して、
「そりゃ、ヤキモチだよ」
笑うと、複雑な顔になる。
「誰に?」
可愛らしく首を傾げて問う。
自覚症状はなしか。
「お前のものにはならない、昔の下村敬に」
困惑が深くなる。
面白い。
「淡白なのかと思ったら、意外に独占欲が強いんだな。天使は」
何時ものペースに戻ってからかい始めた桜内の手を、坂井が払い除ける。
その頬が心なしか赤くなっているのを隠すかのように、俯いたまま起き上がる。
「下村は………忘れてはくれない………でしょうね」
ぽつりと零れてきた意外な言葉に、桜内は一瞬絶句した。
不意打ちだった。
「坂井?」
「……なんでもないです。お邪魔しましたっ」
診察台から滑り降りて、出て行こうとする坂井を桜内が呼び止めた。
「時々、アイツ、ここへ惚気話をしに来るんだがな。その時の面を見せてやりたいよ」
坂井の耳は真っ赤。
「今の下村には、お前がいる」
耐えられないと言うように、坂井はもう行きますと言って出て行った。
「診察料、とればよかったな」
消えた背中を見送って、桜内は今度下村が来たら、請求しようと企んだ。
昼飯がまだだったと、坂井はホテル・キーラーゴで簡単な食事をした。
その後、レナへ行って食後のコーヒーにした。
一人でこんな風に過ごすことはあまりない。
菜摘も、珍しいわねと迎えてくれた。
安見はまだ学校だろう。
店内に客はない。
「坂井くん、元気ない?」
疑問形というよりは、諭すのに近い菜摘の言葉に、坂井ははっとして顔をあげる。
「え?」
「なんとなくね。考えことかしら?」
「……あー、まぁ」
曖昧な返事をして、坂井はカップを口に運ぶ。
そんなに自分は感情が表に出やすいのだろうか。
店でのポーカーフェイスには自信があるが、それ以外では気にしたことがないからわからない。
それでも、最近やたらと自分の表情を読まれてしまうことがある。
思わず漏れた溜息に、菜摘が少し笑った。
この女性も、秋山との生活に亡くなった奥さんの影を見ることがあるのだろうか。
………なんか、俺ガキみたいだよな………
独占欲の塊だ。
『今の下村には、お前がいる』
桜内の言葉に安堵している自分がいた。
自己嫌悪に陥るように、坂井は俯く。
また漏れる溜息に、菜摘の笑みが苦笑に変わった。
カランと背後でドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
ませ、の部分を省いた応対は、顔見知りへのものだと知っている坂井は軽く振り返った。
「やっと見つけた」
下村だった。
菜摘は笑顔を向けてから、コーヒーをいれはじめる。
坂井の隣に座った下村が、一つ安堵の溜息をつく。
「部屋に帰ったら、ベッドの上に本がそのまんまだった」
しまった。
と言う色が坂井に過ぎった。
「で、街中を探し回った。まず、ここに来てから病院のドクんとこ。それから、お前の痕跡辿ってやっと追いついた」
疲れたという風に溜息。
ドクのところに行ったということは、いろいろと聞いてしまったと言うことだ。
顔を合わせられない。
「おさまった?」
「何が」
「ヤキモチ」
「……………なんで………」
言いにくそうに、坂井は切り出した。
下村はわざと顔を覗き込むようなことはせずに言葉を待つ。
「写真………」
歯切れの悪い坂井に、あぁと下村は小さく笑った。
「忘れてたんだよ。昔、貰ったんだけどあの本に挟んでそのままにしちまってた」
「……ふうん」
「深い意味なんかないぜ?」
「……わかってる」
それ以上、二人の間に会話はなくなった。
気まずい沈黙ではなく、穏やかな沈黙。
静寂の中にかすかに波の音が聞えてくる。
菜摘のいれるコーヒーの香りと、波音のBGM。
ちらりと下村を見た。
波音に耳を傾ける横顔は穏やかで、写真の中の微笑に劣らない柔らかさがあった。
坂井の視線に気付いた下村が、どうしたと眼で尋ねてくる。
なんでもないと坂井も眼で答え、カップを傾けた。
忘れられないことは、坂井もたくさん持っている。
ジッポにフェラーリ。
記憶に刻み込まれた男達。
そしてその死に様。
忘れられないものを持っているのはお互い様だ。
だけど、今の自分には下村がいる。
坂井がやはり自覚なしに浮かべた幸せそうな笑みを、下村が眺めていたのを坂井は知らない。
日付が変わったばかりのころに、坂井はベッドサイドに並んだ本に手を伸ばしてみた。
昨日手にした本をペラペラと捲ってみる。
「アレ?」
「気になるのか?」
シャワーを浴びていた下村が出てきていた。
がしがしと片手で頭を拭きながら、ベッドに腰掛けると坂井の手から本を奪う。
「あそこにある」
と、下村が顎先で示したのはベッドサイドの灰皿だった。
紙を燃やしたような灰が、煙草の吸殻に混ざっている。
「まさか………」
「いいよ。あっても、どうしようもないものだから」
平然と言ってのけた。
「でもな」
そこまでする必要はないと、咎めようとした坂井の口を下村がさっと塞いだ。
「今は、お前がいるんだ。そう言うことにしとけよ」
勘弁してくれとでも言いそうな下村。
岡本まり子を、下村は追いかけて来た。
無くした左手は、そのせいだった。
想っていないはずがなかった。
愛していないはずがない。
問えば、『さあな』と、とぼけるだろうが、愛していたことはあるはずだ。
「永遠の愛なんて、誓えない男なんだよ。俺は」
額を合わせて下村がそんなことを言う。
「俺にも?」
「お前にも。だけどな」
額に唇が触れて、鼻筋を辿り頬を滑り唇に辿り着く。
触れ合わせるだけで、離れた下村の口唇が、
「生涯の愛は誓えそうな気がする」
バカなことを紡ぐから、坂井は笑い出してしまう。
「なんだよ。お前、人が真剣に口説いてるのに笑うなよな」
憮然とした表情の下村を、坂井の腕が引き寄せた。
笑いが直接肌に伝わる。
「もうとっくに、口説かれてる」
その存在に。
屈折した光を湛える眼に。
ちぐはぐの腕に。
皮肉なことしか言わない声に。
自分なんかを天使と間違える馬鹿さ加減と気障ったらしいところにも。
本当に時々見せる、驚くほど優しい微笑にも。
「もうとっくに、墜ちてる」
にやりと、下村が口角を持ち上げた。
その笑みにだって。
下村が、
俺 の も の に な れ ば い い の に
坂井が、
俺 の も の に な れ ば い い の に
2001/02/16
3333HITはあき様からのリクエストで、やきもちネタでした。いかがでしたでしょうか?
下村が嫉妬してる話はけっこうあるかなと思って、坂井に妬いてもらいました。
しっかし、坂井………自分のことわかってなさ過ぎな、おばかちゃんになってしまいました(笑)私が書く小説は、下村がなんだかやたらと幸せになっているような………呪いか!?タイトルは槇原敬之の歌のタイトルです。歌詞みたら、あんまりしっくりこなかったので、題名だけいただきました。